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小説「教師の孤独」|信じることは甘さなのか、冷笑に刺された沈黙【第二章】

第二章:転校生凪斗編


信じない、という鎧

1. 記憶の底

僕が最初に「信じる」ことをやめたのは、九歳の冬だった。
前の小学校。三年生の教室。窓際の席。
担任の永井先生が、僕の絵を持って職員室から戻ってきた日のことを、今でも覚えている。
「凪斗くん、これ、本当にすごいよ」
先生の目は、本当に輝いていた。嘘じゃないと思った。そのときは。
「市の美術展に出そう。君には才能がある」

才能がある

その言葉が、どれほど嬉しかったか。
僕は初めて、自分に価値があると思えた。初めて、誰かが僕を見てくれていると感じた。
だから、信じた。
先生を。自分を。未来を。

2. 崩壊

美術展の結果発表の日。
僕の絵は、選ばれなかった。
それだけなら、まだよかった。
教室に戻った永井先生は、僕の目を見なかった。
「凪斗くん、ちょっと」
放課後、呼び出された。
「あのね、先生、ちょっと期待しすぎちゃったかな」
先生は、苦笑いしていた。
「でも、頑張ったよね。それだけでも偉いから」

それだけでも偉い

その言葉の意味を、僕は理解した。
つまり、才能はなかった。
つまり、期待するほどじゃなかった。
つまり、あの「すごい」は、嘘だった。
教室に戻ると、クラスメイトが囁いていた。
「永井先生、凪斗のこと天才とか言ってたのにね」
「やっぱり、ただの下手な絵だったんだ」
笑い声。
僕は、その日から絵を描くのをやめた。
そして、決めた。

もう、何も信じない

信じなければ、傷つかない。
期待しなければ、裏切られない。
それが、僕の見つけた生き方だった。

3. 転校初日

新しい学校の教室は、古い学校と同じ匂いがした。
同じチョーク。同じ木の机。同じ、子どもたちの声。
でも、僕の中は空っぽだった。
「伊藤凪斗です」
自己紹介。機械的な声。
クラスメイトたちが拍手する。その音が、どこか遠くで響いている。
担任の朝倉先生が、僕を見ていた。
その目に、何かがあった。でも、僕はもう読み取ろうとしなかった。
どうせ、最初だけだ。
どうせ、期待するだけ無駄だ。

4. 黒板の言葉

あの日の朝。
誰もいない教室に、一番乗りで入った。
黒板に、文字があった。

それでも、信じる

僕は、立ち止まった。
近づく。文字を読む。

裏切られても
失敗しても
笑われても
それでも、信じる

胸の奥が、ざわついた。

なぜなら、信じることは
相手のためじゃない
自分のためなんだ

違う。
違う、と僕は心の中で叫んだ。
信じることは、傷つくことだ。
自分のためなんかじゃない。

信じることで、人は
冷たい世界の中で
温かさを保てるから

嘘だ。
僕は温かさなんて、もういらない。

凪斗くん
君がもう一度
何かを信じられる日が来るまで
僕は、君を信じ続ける

その瞬間、ドアが開いた。
朝倉先生が、入ってきた。
「おはよう、凪斗くん」
僕は、何も言えなかった。
「……おはようございます」
声が震えていた。なぜか、わからなかった。

5. 日常という名の冒険

それから、不思議な日々が始まった。
朝倉先生は、僕に何も強要しなかった。
「わからない」と言えば、「そっか」と言った。
「やりたくない」と言えば、「無理しないで」と言った。
でも、諦めなかった。
毎日、僕の机の横を通るとき、小さな言葉をかけていった。
「今日の空、きれいだね」
「給食のカレー、おいしかったな」
「凪斗くんの鉛筆の持ち方、きれいだね」
どれも、些細なこと。
どれも、僕が返事をしなくても、先生は気にしなかった。
そして、ときどき。
ときどき、黒板に言葉が現れた。

信じることは、強さだ

傷ついた数だけ、人は優しくなれる

今日も、君がここにいてくれて嬉しい

僕は、それらの言葉を消さなかった。
他のクラスメイトが教室に来る前に、こっそり読んでから、席についた。

6. 小さな亀裂

三ヶ月が過ぎた頃。
図工の時間。
「今日は、自由に絵を描いていいよ」
朝倉先生の声に、僕の手が止まった。
絵。
僕は、もう描かないと決めていた。
「凪斗くん、どうした?」
「……描きません」
「そっか。じゃあ、眺めててもいいよ」
先生は、それだけ言って去っていった。
周りの子どもたちが、画用紙に色を塗っていく。
赤。青。黄色。緑。
色たちが、紙の上で踊っている。
僕は、じっと見ていた。
気づくと、手が動いていた。
鉛筆を持って、画用紙の端に、小さな線を引いていた。
一本。また一本。
やがて、それは木になった。
校庭の桜の木。冬の、葉のない桜の木。
「おお」
背後から、朝倉先生の声。
僕は慌てて鉛筆を置いた。
「いい木だね」
先生は、それだけ言った。
「すごい」とも「才能がある」とも言わなかった。
ただ、「いい木だね」と。

7. 卒業式

六年生の春。
僕は、あの教室を離れる日を迎えた。
朝倉先生は、もう僕の担任ではなかった。五年生のクラスを持っていた。
でも、卒業式の日、先生は僕を呼び止めた。
「凪斗くん」
「はい」
「これ」
先生が差し出したのは、小さな封筒だった。
「開けるのは、君が『また信じてみようかな』って思ったときでいい。それまで、持っていて」
僕は、封筒を受け取った。
「先生」
「うん?」
「……ありがとうございました」
それが、僕が先生に言えた、唯一の感謝の言葉だった。
先生は、いつもの笑顔で言った。
「凪斗くんが、これから出会う世界が、優しいものでありますように」

8. 高校生の冬

六年の月日が流れた。
僕は十七歳になっていた。高校二年生。
相変わらず、誰とも深く関わらず、淡々と日々を過ごしていた。
信じることは、まだ怖かった。
でも、完全に諦めることも、できなくなっていた。
あの封筒は、ずっと机の引き出しの奥にしまってあった。
冬のある日。
なぜか、母校に行きたくなった。
理由はわからない。ただ、足が向いた。
放課後の小学校は、静かだった。
校庭の桜の木は、あの頃より少し大きくなっていた。
僕は、校舎に入った。
三階。あの教室。
ドアを開ける。
誰もいない教室。変わらない机。変わらない黒板。
そして。
黒板に、文字があった。

それでも、信じる

僕の息が、止まった。
六年前と、同じ文字。同じ場所。
近づく。
黒板の下に、新しい文字が書き足されていた。

凪斗くんへ
もし君がまたここに来たら
この言葉を見つけてくれたら
伝えたい
君を信じ続けて、よかった
君が生きてくれていて、よかった
君の人生が、これから
少しずつでも
温かいものになりますように
―朝倉光

涙が、溢れた。
止められなかった。
僕は、黒板の前に膝をついた。
六年間、凍らせていた何かが、溶けていく。
ポケットから、あの封筒を取り出す。
震える手で、開ける。
中には、一枚の紙。
そこには、僕が図工の時間に描いた、あの桜の木の絵が、大切に保管されていた。
裏に、メッセージ。

凪斗くんの初めての一歩
忘れないように、僕が預かっていました
君が描いた木は
誰にも評価されなくてもいい
ただ、君が「描きたい」と思った
その気持ちこそが
本当の才能だから

涙が、紙の上に落ちた。
「先生……」
声にならない声で、僕は呟いた。
窓の外、夕暮れの空が、オレンジ色に染まっていく。
校庭の桜の木が、風に揺れている。
冬でも、春でも、あの木はそこにある。
僕も、ここにいる。
信じるという言葉の意味が、初めてわかった気がした。
それは、相手を変えることじゃない。
結果を期待することじゃない。
ただ、冷たい世界の中で、温かさを手放さないこと。
誰かが、自分を見ていてくれると信じること。
そして、いつか自分も、誰かを信じられるようになること。
僕は立ち上がり、黒板に向き合った。
チョークを手に取る。
あの文字の隣に、ゆっくりと書いた。

ありがとうございました
僕も、信じてみます

チョークを置く。
粉が、静かに舞い落ちる。
教室に、冬の夕陽が差し込んでいる。
長い影。静かな光。
そして、僕の中に、小さな灯火が灯った。

【第二章 了】

信じることを拒んできた少年が、初めて心を開いた瞬間。しかし物語は、ここで終わらない。次回、時を経て、朝倉先生自身が信念を見失いかける日々が訪れる――



この物語は、まだ続きます。
よろしければ、次の章もお読みください。

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