劇作家シェイクスピアと妻アグネスの物語 『ハムネット』
名作誕生の逸話を期待すると肩透かしを食うかもしれない。本作が見つめるのは、劇作家ではなく、一人の夫であり父であったウィリアム・シェイクスピアの姿だ。夭折した息子の死をきっかけに、夫婦の心はすれ違い、取り返しのつかない距離が生まれる。前半の淡々としたエピソードの積み重ねは、クライマックスに至る長い助走。その果てに訪れる喪失の衝撃。だからこそ、終盤の舞台シーンで共有される感情の回復が、静かに胸に迫るのだ。

■あらすじ
16世紀のイングランド。ストラトフォード村で暮らすウィルは、家庭教師の仕事で家計を助けながら家族と共に暮らしていた。そんな中で彼は、森の魔女の娘だと噂されている女性アグネスに出会う。鷹を飼い、薬草や占術の知識に長けた彼女に心引かれるウィル。二人は男女の関係になり、間もなく彼女は妊娠する。
妊娠が家族にばれて家を追い出されたアグネスは、ウィルのもとに駆け込んで大急ぎで結婚式を挙げた。間もなく女の子スザンナが誕生。だが高い教育を受けているウィルは、田舎町で職人の仕事をする暮らしに馴染めない。彼は家族と離れて、ロンドンで仕事をすることになった。ウィルの留守中にアグネスは男女の双子を出産。この双子はハムネットとジュディスと名付けられた。
ウィルはロンドンでの仕事が軌道に乗るが、アグネスはストラトフォードから離れることができない。夫婦家族の別居生活が続く。そんな中、ロンドンでペストが流行し始める。
■感想・レビュー
劇作家ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)には、11歳で夭折したハムネットという息子がいた。傑作「ハムレット」誕生の裏には、その息子の死が何らかの影を落としている……という説があるらしい。
そんな英文学史の仮説を元に書かれたのが、マギー・オファーレルの小説「ハムネット」(2020)。今回の映画版は『ノマドランド』(2021)のクロエ・ジャオ監督が手がけ、主演のジェシー・バックリーはゴールデングローブ賞とアカデミー賞で主演女優賞を獲得している。
シェイクスピアの伝記映画だが、歴史上の人物の人生を丸ごと描くのではなく、その人物の人生からある一瞬を切り取って描いた物語になっている。ここで描かれているのは、劇作家になる以前のシェイクスピアであり、妻や子供の視点で見たシェイクスピアだ。
「英文学史に燦然と輝く劇作家シェイクスピア」は、実はこの映画にはほとんど出てこない。「シェイクスピアの創作の秘密」や「名作誕生裏話」のようなものを期待すると、それは大きく裏切られると思う。
これは「親しい人の死をどう受け入れるか」という物語なのだ。葬送の物語であり、グリーフケア(喪失に対する慰めと癒やし)の物語でもある。愛する息子を失ったことで、深く傷つけられた夫婦の心。それはいつまでも痛み、生々しい血を吹き出し続ける。夫婦の心は完全にすれ違い、離れ離れになってしまう。それがどう回復されるのかが、この映画のテーマになる。
そのため映画前半は、終盤のクライマックスに向かう長い長い助走だ。家族関係。夫婦関係。夫婦それぞれの子供に対する思い。小さな積木を積み重ねて高い塔を築くように、映画は淡々とエピソードを積み上げていく。そこから急転直下の悲劇に至る過程は、悲惨すぎて涙も出ない。
だがこれがあるから、最後の「ハムレット」上演シーンの感動がある。観客の心がひとつになるシーンで、僕は少し涙が出た。
(原題:Hamnet)
ユナイテッド・シネマ豊洲(5スクリーン)にて
配給:パルコ
2025年|2時間6分|イギリス|カラー
公式HP:https://hamnet-movie.jp/
IMDb:https://www.imdb.com/title/tt14905854/
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