巨大メディアが分断する社会 『ランニング・マン』
巨大メディアが娯楽の名の下に人間を選別し、追い詰め、そして消費する――。エドガー・ライトが再映画化した『ランニング・マン』は、命懸けのデスゲームを描きながら、テレビとネットが加速させる社会の分断を鋭く照射する。スクリーンの向こうの物語ではない。私たち自身が「こちら側」と「あちら側」を選び、また選ばれている現実を突きつける一作だ。

■あらすじ
ベン・リチャーズは会社を不当に解雇され、いきなり生活に困窮するようになった。妻が一人で働いているが、病気の娘に薬を買う金もない。ベンはただ生き延びるために、テレビのリアリティ番組に出演することを決める。
ベンは無事にオーディションに合格した。だが彼に割り当てられたのは、デスゲーム「ランニング・マン」への出場権。ハンターと一般視聴者から30日間逃げ延びれば、10億ドルの賞金が手に入るという超人気プログラムだ。命は惜しい。だが家族が生きる金を手に入れるために、他の選択肢はないのだ。
番組で選ばれたランナーは3人。番組に手渡された1000ドルと12時間の先行スタート権だけを頼みに、ランナーたちは街へと走り出す。人を隠すには人の中だ。ベンはニューヨークに逃れ、偽の身分証でホテルに宿を取る。ホッと一息。だがそこに入ってきたのは、ランナーのひとりが早くもハンターに射殺されたという番組の知らせだった。
■感想・レビュー
スティーブン・キングが1982年に発表した同名小説を、エドガー・ライトが再映画化したディストピアSFアクション映画。原作は1987年に『バトルランナー』として映画化されているが、今回の映画の方が原作に近い筋立て。前作主演のアーノルド・シュワルツェネッガーは、今回の映画にもチラリと顔を出している。
原作は40年以上前に書かれているが、細部はネット時代の現代流にアップデートしている。テレビという巨大メディアと、それに対抗するネットメディア。瞬時に作成されるディープフェイク動画などだ。
しかしテレビが巨大な大衆扇動装置になる設定自体や、「テレビを消せ」というメッセージが、少々古くさいと言えば古くさいかもしれない。今はむしろ「ネットを遮断しろ」の方が、メディアの大衆扇動に惑わされないような気がするからだ。
では『ランニング・マン』の現代性はどこにあるのか? それはメディアが社会を分断していくところだと思う。それがテレビのような巨大メディアであろうと、ネットメディアであろうと、やっていることは同じだ。メディアは大衆を「こちら側」と「あちら側」に分断する。「こちら側」には共感と感情移入があり、「あちら側」への蔑視と敵意を煽る。
本作の主人公ベン・リチャーズは、メディアによって「あちら側」へと追いやられた人間なのだ。その彼に対して、メディアは「こちら側」に来ないかと誘惑する。そうすれば、今日まで社会的な蔑視と敵意にさらされていた自分も、共感と感情移入を受ける人間になれる。一人の人間として尊敬され、仲間として応援される、まともな人生を送れるのだ。
この映画を観る人は、自分もまた『ランニング・マン』の世界にいることを自覚する必要があると思う。ネットで拡大される「生活保護バッシング」「外国人差別」「社会的弱者の蔑視」「高齢者嫌悪」などは、この世界を「こちら側」と「あちら側」に分けているのだ。
(原題:The Running Man)
109シネマズ木場(シアター8)にて
配給:東和ピクチャーズ
2025年|2時間13分|アメリカ|カラー
公式HP:https://the-runningman-movie.jp/
IMDb:https://www.imdb.com/title/tt14107334/
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