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聖徳太子と応神天皇に会いたくて_橿原・大阪・和歌山一宮の旅②


4月4日(土)

上之太子

 大阪府の「上ノ太子」駅で降車した。聖徳太子様の菩提寺『叡福寺』へ参拝するのだ。あいかわらず、大阪は空模様がよくないのが哀しい。

駅前の聖徳太子像

 コミュニティバスの運転手さんに「このバスは『聖徳太子御廟前』で停まりますか」と尋ねたら、叡福寺に行くならば「和みの広場前」で降りるべきだと教えてくれた。

ピンクは往路、水色は帰路。



 上之太子駅でレンタサイクルを借りるべきだったかとあとで悔やんだが、結果的にバスで正解だった。叡福寺以外の場所へ行く余裕はなかった。
 というか、雨が降りそうなのにサイクリングなんてする気になれなかった。

「和みの広場前」
大阪府太子町公式マスコット たいしくん

 自分も「上宮太子(Taishi)」というハンネを使っているので、親しみがわく。

聖徳太子御廟 叡福寺

 数分も歩けば、聖徳太子様の御廟こと叡福寺の門前に着いた。二年前の旅行で訪問を計画したが、時間の都合で行けなかった。いつか行こうと考えていたが、こんなに早く、本当に来られたことが僥倖だった。

叡福寺

 山門の金剛力士様は年季が入っていた。

聖徳廟
境内のパノラマ
金堂(大阪府指定文化財)

 如意輪観音座像、愛染明王、不動明王が祀られていた。

ボケ封じ観音菩薩と、賓頭盧尊者。
聖霊殿(重要文化財)

 聖霊殿には聖徳太子十六才像が祀られていた。

御廟前
御廟……

 聖徳太子様と母后である穴穂部間人皇女様、妃である膳部大郎女様が埋葬されていた。天皇陵とおなじく、管轄は宮内庁である。

 太子様は、日本でおそらく最初に公的に「天皇」号を使ったお方であり、仏典『大智度論』を引いて「日の出ずる処」と国を称した。「天皇」号は道教に由来するので、「日本」と「天皇」はそれぞれ、仏教と道教がその典拠だということになる。日本国のありようについて示唆を与えてくれる。
 聖武天皇の皇后たる光明子によって太子様は神格化された。日本という国の形を定めた伝説的な英雄であり、日本が仏法の栄える国となるべき道を示した。日本はとこしえに太子様を奉じる国であるべきである。

久爾宮邦彦王遺髪塔

 聖徳太子奉賛会の総裁として太子様の遺徳の顕彰に力を尽くした功により、昭和六年に建立された。わたしも入りたい会である。

見真堂

明治45年(1912年)建立。本尊は親鸞聖人の坐像です。 聖人が88歳で御参籠の折、自らこの像を刻んで遺されたといいます。

叡福寺公式サイト

 親鸞聖人は十九歳と二十九歳のときに、示現した聖徳太子様に逢った。浄土真宗で太子様への信仰は篤い。

科長岡神社(しながおかじんじゃ)

 叡福寺の鎮守の神社である。御祭神は、

  • 天照皇大神

  • 天の御柱國御柱命

  • 天児屋命

  • 品陀別命

  • 矢坂大神

  • 道祖大神

  • 保食大神

  • 菅原道真公

  • 市杵島姫命

多い。なりゆきでいろんな神社を合祀したかのようだ。昔はこういう神社があちこちにあったのかもしれない。

荒神堂

 日本古来の台所の神様である荒神様。札幌にはなかなかこういう神様がいない。
 だれかが白かりんとうをお供えしていた。

経蔵

 聖徳太子講讃像(三十五歳像)と経典が納められている。

石碑

 「奉大峯修行三十八度供養塔」春日龍王講

 春日龍王講という講があったらしい。ググってみると、最近に同名の講が春日大社で結成されたようだが、この石碑とは関係がなさそうである。石碑は年季が入っている。

 神仏が再び一体化する機運を示すニュースをよく耳にする。神道原理主義の台頭によって一旦は姿を消した伝統を日本人が取り戻しつつあるのだ。かつては仏教が神道を凌いでいたが、現代ではより対等な習合関係が構築されるだろう。

弘法大師空像
弘法大師堂
新鮮な仏花
磯長村戦没英霊之墓

 磯長(しなが)とは、かつてのこの辺りの地名である。
 科長岡神社(しながおかじんじゃ)という鎮守の名前も、磯長から来ているのだろう。

念仏堂

 阿弥陀如来と観世音菩薩、勢至菩薩を祀っている。

お地蔵様

宗教法人「白光真宏会」が建てている、らしいピースポール。ここには何でもある。

 御朱印をもらってから、宝物館に行くことが勧められた。ちょうど開館する時間だったようだ。
 しかも、土日と祝日しか開いていないのだ。運がよかった。

宝蔵(宝物拝観所)

 中には、仏像がたくさんあった。阿弥陀如来、妙見菩薩、四天王、荒神如来、大日如来、聖如輪観音、十一面観音、そのほかの観音様がいた。平安時代の仏様がいくつもおり、ただの宝物として収蔵されるのがもったいなかった。
 聖徳太子様が着用した衣を使った褥(しとね。シーツのこと)の断片もあった。その断片に残っている紋様が、創建から千四百年を祈念する特別御朱印にも使われているという。
 

日蓮聖人御参篭旧跡

 日蓮聖人も叡福寺に参篭したという。名のある仏教者はみな、聖徳太子様のおかげを蒙っているのだ。

古市へ

 用明天皇陵へ行こうと考えたが、時間がないので断念した。すぐに上ノ太子駅へもどって、古市へ移動するべくバスを待った。

マンホール『和を以て貴しと為す』
民家の築地塀

 そこらへんの築地塀の屋根瓦に大黒様と恵比寿様がいた。明日香村でもこれを見たが、こんなにかっこいい瓦を乗せた家に住める身分になる方法がわからない。

バス停『聖徳太子御廟前』

 バスが来るまで二十分もあった。いっそ歩いたほうが早かった気がするが、重い荷物を抱えていたので、長い距離を歩くのは賢明でなかった。缶コーヒーで滋養分を補給しながら待った。
 しめやかな雨が降ってきた。大阪は雨男が多かったのだろうか。

 上ノ太子駅から二駅で古市に着いた。この辺りには天皇陵がたくさんあった。応神天皇領と日本武尊陵へ参るつもりだった。

北に白鳥神社と応神天皇陵。
南には日本武尊白鳥陵。

白鳥神社

 駅の近くに日本武尊を祀る白鳥神社があったので、まずそこに参拝をした。

白鳥神社(伊岐宮)の注連柱

 こういう、貫と笠木がない、注連縄だけの鳥居を「注連柱」、「注連縄柱」というらしい。鳥居の原型だともいわれる形である。

拝殿

 拝殿の中に入って参拝する形式である。授与所も拝殿の中にあった。ほかで見たことのない形式だった。
 屋根には鋼のような瓦が葺かれていた。

狛犬
末社 白長大明神

 白長大明神の社殿の後ろに白龍大神と白玉大明神という二社があった。こうした神仏混合のよくわからない神様にこそ、八百万の神という概念が活かされているのでないか。記紀に載っている由緒正しい神様のみでは、さほどの多様性がない。

白龍大神と白玉大明神
御朱印

誉田八幡宮への道

 まずは応神天皇の陵へ行くことにして、白鳥神社から十分間歩いた。

線路脇の祠

 勝光寺の前から線路を渡ったさきに建てられていた。石柱にはおそらく「村中安全」と刻まれている。
 ググってみたところ、これはおそらく、江戸時代に村の平和を願って建てられた柱である。かつてはあちこちに「村中安全」と刻まれたものが建てられていたのだ。「世界人類が平和でありますように」の「江戸時代の村」版か。
 
現在はなにかが祀られている。地域の人が管理しているのだろう。

 応神天皇の陵の後円部の上にはかつて八幡宮があった。平安時代中頃の永承六年(1051年)に陵下に降りて、現在に至るまで応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・住吉三神を祀っている。誉田八幡宮といい、八幡宮のなかでも有数の古社である。
 住吉三神は後世に合祀されたのだろうか。

誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)

 応神天皇陵へ行くまえに、手前にある誉田八幡宮へ参拝をした。
 並みの八幡宮ではない。宇佐神宮は八幡の神の神殿だが、ここは応神帝の廟である。

誉田八幡宮は、御陵の後円部の方に鎮座しています。 当社の宝物「誉田宗庿縁起」永享5年(1433年)将軍 足利義教奉納)によると、 西暦559年に欽明天皇の勅願によって御陵前(後円部)に社殿を建立し、八幡大菩薩を勧請した。と記されています。 あくまでも縁起の話ですが、これを誉田宗廟といいます。

公式サイト「誉田八幡宮について」

 創建当初は前方後円墳の後円部の上にあったが、1051年の後冷泉天皇の御代に、後円部へ接する現在地へ移転した。宇佐神宮と縁起がまったくちがうが、中世にはおなじく八幡神の信仰の中心としてにぎわった。

 神宮寺もあったが、南大門のみが残っている。残っているものがあるだけでありがたい。

誉田八幡宮の注連柱
誉田消防団と玉水町地車蔵

 松柏と桜花が境内を彩っていた。拝殿の前では「左近の桜」「右近の橘」と名付けられた両樹木が柵で囲われていた。

「左近の桜」
「右近の橘」

 京都御所の紫宸殿の前に植えられている「左近の桜」「右近の橘」にあやかったのだろうか。
 紫宸殿で左右近衛府の武官が警護の陣を敷いた場所なので、左近右近と呼ばれたらしい。すなわち誉田八幡宮のこれは、応神帝の御所を守るご神木であろう。

天気がいい時に再訪したい。

 日本書紀』雄略天皇九年秋七月条に記された「赤馬伝説」にちなむ御朱印があった。こういう伝説である。

 現在の柏原市(古市の隣)の田辺伯孫という人物が馬に乗って、嫁いだ娘の出産をお祝いするために古市に来た。
 帰りに応神天皇陵を通ると、立派な赤馬に乗った人に出会った。その赤馬があまりにも立派なので、自分の馬と交換してくれるように頼むと、気前よく交換に応じてくれた。
 田辺伯孫は赤馬を自邸の馬屋につないで寝たが、朝になると赤馬は、土でできた埴輪の馬に変ってしまっていた。
 応神陵へ行ってみると、交換したはずの自分の馬が埴輪の馬のあいだにたたずんでいたので、埴輪の赤馬と交換して、自分の馬を取り戻したという……

 かつて古墳の上に並べられていた埴輪の馬が生身の馬へと変化したという話である。こんなに面白い伝説にちなむ御朱印ならば、もらうっきゃなかった。

見開き赤馬御朱印
篤志家が奉納した赤馬像
金銀の御朱印帳

 金と銀の御朱印帳ももらった。銀色は珍しい。
 御札も当然もらった。会計は五千円以上になった。今回は御朱印帳をやたらに買ったので、神社での散財がひどくなった。
 御朱印、御朱印帳、御札をもらったのは、応神天皇陵へ参拝してきた帰り道でのことである。

境内の稲荷社『姫待稲荷社』
応神天皇陵?

 応神陵の拝所に続いていそうな道があったが、外れだった。かつて祭礼に使われていた石の太鼓橋があったのみである。

当宗神社(まさむねじんじゃ)

当宗神社

 境内社の当宗神社の由緒に驚いた。

「当宗神社の祭神は、現在は素戔嗚命 (すさのおのみこと)であるが、当初は中部朝鮮の楽浪郡から渡来した「当宗忌寸(まさむねのいみき)」祖神である「山陽公」を祭っていたようである。 「当宗忌寸」の子孫には、宇多天皇の祖母が歴史上現れている。 その旧地は、方生川(碓井川)と東高野街道(京街道)との交差点の北東に8平方メートルほど残存している。」

 朝鮮半島から渡来した神様がおわしたとは! 記紀の神に代えられてしまっているのは残念だが、来歴が語り継がれているのは僥倖である。
 西日本にはこうした寺社が意外とたくさんあったのかもしれない。朝鮮半島や中国から渡来した紙を祀っていたが、本来の由緒が忘れられたり廃絶されたりした寺社が。

 公式サイトによると、その名も朝鮮国王灯篭という、朝鮮の王から寄進されたという石灯籠もあったらしい。いつのどの朝鮮王かはわからない。
 ただの石灯籠を朝鮮半島からわざわざ持ってくるのは妙なので、渡来した百済の王族が寄進したのかもしれない。それならば「百済国王灯篭」と銘打つ気がするが。

応神天皇陵

左が応神帝の陵へ続く道らしい。

 誉田八幡宮を後にして、応神天皇の陵へむかった。なぜかテニスコートのフェンスに「応神天皇陵古墳」という文字が掲示されていて、参拝者を惑わせた。

ただのテニスコートだった。
応神天皇陵の入口

 応神帝は、神功皇后が住吉の神の託宣にしたがって、身重の身で三韓を征伐してから、帰国して後に産んだ息子である。のちに宇佐で八幡の神として示現し、八幡大菩薩と名乗って、中世に武神として一世を風靡した。
 継体天皇の始祖でもあり、皇統上できわめて重要でいらっしゃる。その治世にはさまざまな渡来人があらわれて、大陸の人材と文物が導入された。王仁が論語と千字文を持ってきたのも応神帝の治世である。

 八幡神の八つの幡(旗幟)という名前には露骨に道教の影響がみられる。八とは道教で世界全体を顕す聖なる数であり、旗幟は神仙の象徴である。八幡とは、大陸の宗教思想を承けて、宇宙全体を表現する神であることを示している名前である。

「この「八幡」の名称は応神天皇光琳の時、天より八つの幡が降下して産屋の上を覆った」

『三社託宣抄』

赤幡八流が虚空になびいた

『水鏡』

 という伝承もあり、応神帝は出生時から八幡の神だったのだ。

 また、唐の軍制である八幡・四鉾制度に由来しているという説もある。そうすると、まさに軍神として誕生したことになる。

 720年に九州南部で隼人が反乱した。朝廷はこれを鎮圧し、その軍には宇佐八幡宮がある宇佐の兵士も加わっていた。
 戦後に宇佐の八幡の神は、隼人を殺生した罪の応報によって苦しんでいるので仏の力で救ってほしいという託宣を出した。神が仏に救いをもとめるという発想は、新羅に先例があるそうだ。
 八幡神を殺生の報いから救うために、宇佐神宮の放生会が始まった。仏教の業報思想がこうして日本に流入したのだ。
 中国の道徳思想では、殺生という行為自体を忌むべき悪行とする発想がない。中国思想ならば、善人を殺すのは悪だが、悪人とみなせる人間を殺すのは正義である。インドの宗教である仏教の絶対的な非殺生戒は、日常的な善悪の判断を超越している。中国思想が及ばないところである。

 つまり、八幡の神は神道、仏教、儒教、道教と因縁がある、きわめて重層的な神様である。その性質は神仏の一体化のみに留まらない。
 応神天皇の神徳は歴代随一といっても過言でないだろう。

手水場
参道
拝所


セビリア

 日本武尊の白鳥陵(軽里大塚古墳)へ参拝するために、駅の方角へ取って返して歩いた。古市駅を越えると、すこし賑やかなところへ出て安心した。都会っ子なので、騒がしい都会が性に合っている。

大阪府羽曳野市1丁目
カフェ『セビリア』

 白鳥陵はすぐそこだが、歩くのに疲れたので、ちょうどいい喫茶店に入った。雰囲気がアンティークで、メニューも手ごろだった。

お冷

 先客の二人のおばちゃんに失笑された。「あんなに重たそうなリュックを背負ったら、わたしならひっくり返る」と。

 クリームソーダ(650円)を頼もうとしたが、残念ながら今はクリームソーダをやっていませんと言われたので、ただのメロンソーダ(500円)を頼んだ。

メロンソーダ

 わたしの旅ではろくに昼飯を食べないので、これが貴重な栄養の補給源だった。緑柱石の色をしたソーダ水に黄色いレモンの酸味が加わって、すこし甘酸っぱかった。かき氷用のメロンシロップみたいな味だった。

メロンソーダ

日本武尊白鳥陵

 『セビリア』に入店してから四十分後、やっと白鳥陵の入り口と思しき場所へとたどり着いた。古墳の場所はわかっても、拝所の入り口がどこなのかがGoogleマップでは分りづらかった。

左に入り口があるのか…
入口

 本当にここでいいのか、不安になった。ただの住宅街の隙間の細道であり、参道にみえなかった。

拝所

 しかし、ここで正解だった。荷物を置いて、大鳥となって懐かしい故郷へ帰った英雄の魂魄に思いをはせた。
 日本武尊の陵は三か所あり、ゆかりの神社はもっとたくさんある。先述の白鳥神社は日本武尊の最後の地を称しているが、堺市の大鳥大社も最後の地を称している。

 そのあとは、古市駅へもどってすぐに大阪へと発った。まだ時間はあったが、ほかの古墳を訪ねる体力がなかった。雨も降っていたことだし。
 大阪の雨男は東京へでも行ってくれないだろうかとひとりごちた。

大阪へ

JR天王寺駅がみえる。

 ふたたび大阪阿部野橋駅へ降りた。時刻は午後三時五十分である。余裕があるので、最終日に行く予定だった、西成の関羽廟を訪れてみることにした。

西成の入り口、JR『新今宮』駅。
西成ならではの風景。
西成ならではの風景……
飛田本通商店街

 西成には二年前にも訪れたが、不思議と落ち着く町である。庶民的な町であり、人間味がある。

 わたしのような一見の観光客はついつい「人間味があって落ち着く町だ」なんて書いてしまうが、内実は苦労が絶えない町のようだ。なんか申し訳ない……

商店街から横道に入った。

 行ったり来たりして、ようやく関羽廟に通じる横道へ入った。

西成関羽廟

 大阪にある二つの関羽廟の一つがここである。兼ねてより研究したかった道教を実地で学ぶために、訪れなければならなかった。
 名前は別にあるようだが、地元の人は西成関羽廟と呼んでいるようだ。

西成関羽廟

 孔子廟は二度訪れたことがあるが、道教の廟は初めてである。見るものすべてが興味深かった。

関聖帝君

 日本人のおばちゃんが番をしていた。
 「雨宿り?」「いえ、参拝します」
 外の香炉に線香を立ててから、中で座って礼拝をした。礼拝のやり方はおばちゃんから教わった。線香台として三百円を供した。

 なんと、おばちゃんから珈琲を紙コップでもらった。熱い泥水をすすりながら、おばちゃんからいろいろな話を聞いた。

 祭壇の中央に祀られている関聖帝君は塩の密売をやっていたという伝説があるので商売の神様になったらしい。左には定番の媽祖様がおり、右にいた神様の名前は忘れてしまった。
 白い百合の花がたくさん供えられていた。中国では依然として白が死を表す不吉な色だったはずなので、神様に白い花を供えるのは意外だった。また、ミネラルウォーターの1.5リットルのペットボトルもあった。おばちゃんも、この廟を造った人がやっていたとおりにやっているだけであり、詳しいことは知らないようだった。
 黄色い龍の張りぼてと、鉾と剣の張りぼてもあった。武人の姿をした脇侍らしき神様もいた。

 西成関帝廟を造ったのは、福県省から十九歳のときに来日した人らしい。下働き、ラーメン屋、居酒屋を経て、今は盛龍という会社で建設業をやっていらっしゃる。今は大阪に中華街を造ろうと奔走なさっているようだ。個人的には応援したい。
 札幌でも、中華街を作ろうという話が昔出ていたが、音沙汰がない。

 毎月の旧暦の一日と十五日には、近隣の住民が日中問わずに訪れて、果物を供えているという。神道の月例祭とおなじである。
 お供えの果物は三個、五個という数で揃えて置くものらしい。七五三が道教に由来するという話と整合性があった。
 大学教授が学生たちを連れてきて、堂内でカップ麺を食べて帰るそうだ。きままな場所である。大学生が「西成関帝廟と大阪の中国人コミュニティ」についての論文を書くためのアンケートを取りにきたこともあったらしい。

 おばちゃんの家族の話も聞かされた。息子さんと娘さんは丁度わたしと同年代のようだ。おばちゃんがどうして関羽廟の管理人をやっているのかは聞けなかった。「どうして日本人なのにこんなことをやっているの」と聞かれるそうだが。
 橿原神宮に行ってきたことを話したら、おばちゃんも橿原神宮に行ってきたことがあるそうだ。

 帰り際にビニール傘を貸してやるといわれた。外は相変わらず雨が降っていた。
 折り畳み傘を持っていたので断ろうとしたが、「いらなくなったら道端に置いていけばいいから」といわれた。

「そんな訳にはいきません」
「大阪は札幌じゃないからいいのよ」

 大阪は札幌とちがって、道端に傘を置き棄ててもいい町らしい。根負けして傘を受取った。お供え物の果物でも持参して、また来たいものである。

新世界

 そのあとは、隣接する新世界に繰り出してぶらぶらとした。本当は海遊館(水族館)へ行くつもりだったのだが、面倒くさくなってそのまま街歩きを楽しんだのだ。
 というか、関羽廟での出会いの興奮が冷めやらぬまま歩いていたら新世界に迷い込んでしまって、水族館のことなど忘れてしまった。

雑多な娯楽の繁華街

 手裏剣を投げて、射的をした。得たものは何もなく、無心に遊ぶのが心地よかった。
 ビニール傘は、おばちゃんの教えに従って、適当なところに置き捨てた。

しょっぱいねぎ塩だれのたこ焼き

 熱々のたこ焼きを、店頭で座って頬張った。塩だれがしょっぱすぎたが。

『焼鳥千吉』

『焼鳥千吉』という居酒屋に入った。

お通しのキャベツ
馬刺しと青しそ、玉ねぎ、にんにく、生姜。
焼き鳥

 たこ焼きを食べて、馬刺しを食べた。馬刺しなど食べるのは初めてだった。
 生の玉ねぎとにんにく、生姜が添えられており、お通しの生キャベツといい、辛い野菜ばかりで舌がひりひりとした。野菜の辛みを肉で中和する食事だった。
 馬刺しの味が記憶に残っていないので、やはり肉は加熱して食べたほうがうまいのでないだろうか。

天王寺公園『てんしば』

てんしば

 ネットカフェがある天王寺駅のほうに歩いたら、天王寺駅の前の公園にイルミネーションがあった。光に誘われる蛾のように、公園へ足を踏み入れた。

天王寺公園『てんしば』

 ライトアップされた公園をのんびりと一周しながら、今までの旅を思った。
 このきらびやかで騒々しい大都会にいると、ほんの数時間前まで古墳を探して歩いていたのが信じられない思いがした。昼には叡福寺にいたのだ。昨日まではのどかな明日香村で古代の天皇の陵墓を探したり、飛鳥寺で写真を撮っていた。

 橿原市、明日香村、上之太子、古市。いずこでも、一期一会のすばらしい発見があった。橿原神宮と大阪の新世界に再訪できたのもすばらしい。西成関羽廟での出会いと発見があたらしい世界へ導いてくれた感がある。そう、まさに新世界へ。

 明日から和歌山県で、紀伊の国の一宮へ参る。いつも通りの一宮参りの旅だが、一国で三社も廻れるのだからお得である。旅の後半も実りあるものにしたかった。

OSAKA


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