福嶋亮大著「書物というウィルス」から「世界文学のアーキテクチャ」へ
planetsで連載されてきた福嶋亮大さんの「世界文学のアーキテクチャ」という連載が書籍になる。世界の文学が、縦横無尽に相対的な位置や距離(それも色々な視点からの距離)を保ったり衝突したりしながら、読んでいくうちに年表ではなく建造物として、読者の前に現れてくるという壮大なスケールの本だ。(3/17日発売)こちらの本の表紙は、冒険の書のイメージだけれど、連載の時のデジタルの表紙は、螺旋状に行ったり来たりする線が無数に描かれていて、思考が立ち上がっていくイメージでそれも私は好きだった。
連載をずっと読んでいて、楽しみにしていた本のひとつだけれど、私、この連載を読む前に「書物というウイルス」という福嶋さんの別の本を偶然読んでいて(ピンクの表紙が目に留まったら福嶋さんだった)、こちらが序章になっているなと感じている。これを先に読んでいて良かったなと思っている。ちなみに書評の短編なのでとても読みやすいです。
本の中で書評とは書物というウイルスの変異株を作成することに等しい、批評は変異株を作ることと書かれていた。そして、この本は書評が短編的に書かれているものではあるけれど、一つ一つを読み重ねていくと、レイヤーどうしが少しずつ重なる部分があって、その部分が突然変異を起こしたりする。バラバラの短編書評ではないし、ここ10年の時代の風景が、全部を読むと浮かび上がってくる。本自体が生態系で、その本同士を交錯させて変異株を作ることが批評だなんて、今まで考えたこともなかった。この書評を読み終わった後にすぐに浮かんだ言葉が、「多彩」という言葉だったけれど、あまりに短絡的すぎて、やっぱり言語化苦手だなと思って頭の中からすぐに消した。でも今考えると、その直感は、その生態系の偏っていない豊かさに起因するのかもしれないと思い直している。
ちなみにこの書評群の中での私のお気に入りは、ヨーゼフ・ロートの「ウクライナ ロシア紀行」の書評でした。文学の中では様々な都市や都市についての表現が登場してくるけれど「世界文学のアーキテクチャ」登場する文学の中にもたくさん「都市」が描かれている。私はこの本が発売されたら都市についての描写についても注目して読み直していきたいなと密かに思っている。いつか福嶋さんの「都市論」みたいなものも聞いてみたい。
「書物というウイルス」という本は、ここ10年間の現在地を批評の思考を通して描いていたけれど、今回の「世界文学のアーキテクチャ」は、さらに視点が遠く深くなる。相手は「全世界」という壮大なスケールだ。そして、この冒険の第1章はゲーテの「世界文学」という概念の発明とゲーテ自体が知の集積回路であり、郵送というシステムに乗って広がっていくというところから始まっている。そして、批評という思考の変異株が縦横無尽に広がることで「アーキテクチャ」として建築されていく。連載当初から、こんなに文学を知らない私が、知らない作品ばかりが羅列されてもすっと入ってくるのはなぜなのかが分からなかった。たとえば、「書物というウイルス」の短編の一つである映画「ドライブ・マイ・カー」の書評を読んでいると、その劇中劇の特徴ついて触れられていたり、美術に関する書評もよく目にするので、そういった芸術に対する捉え方的な部分で何か、自分にとっては入りやすい部分があるのかなと思っていた。けれど、そんな私が福嶋さんのこの「世界文学のアーキテクチャ」の連載を読み進めていけば行くほど感じたことがある。
福嶋さんて、「文学」で緻密な絵を描く人なんじゃないかということだった。
批評って私の中の感覚では白黒だ。色を必要としない。淡々と理論的に組み上げていくもののような存在。illustratorとphotoshopで言ったら、完全にillustratorの方だ(例えが、自分寄りで申し訳ない)。身近なソフトであるこの2つは、実は全く特徴が違う。一言でいえば、ベクターデータ(点と線)なのかラスターデータ(ピクセル)なのかという差であり、実はこの差が分からないと正確には扱えない。ベクターは、どこまでいっても点と線で拡大しようが何しようがぼやけたりしない。ラスターは画像を拡大したらどうなるかを考えれば分かると思う。地理情報システムなんかもこの2つのデータを軸に作られているといえば少し関連性があるのかもしれない。福嶋さんの書評って、このどちらもある。illstrator(ベクター)でぶれない点を打ち込んで、緻密に線を描いて、photoshop(ラスター)で色どうし(文学どうし)を交錯させることで突然変異を起こさせる。そしてそこに新たな点が打たれる。文学どうしが交錯したところに、違う色味が滲んだり、思考同士がぶつかり合って違う形に変異していくそのプロセスの詳細な描き方が、「文学」で絵を描いているようだと思いはじめたのだ。システムと構造だけでは、建築にはならない。本来は文学どうしにも距離があったり、お互いに干渉したり、影響を与えたり、違う文化間で翻訳されて衝突したり、たまには誤読されたりしているはずで、単体がただ存在しているだけではないのがこの連載では詳細に、小説の内外を往復しながら語られる。この往復がとてもドラマチックなのだ。直線的、年表的な感覚しか持っていない私たち(というか私)は、この連載の中で、文学自体が生態系であるとする福嶋さんの感覚に触れることがものすごく新鮮だった。その文学の位置や世界的な背景を緻密に描いたり、「零度の熱狂」的な比喩も交えて表現することで(連載の12章がすごく心に残っている。こういう部分の感覚的表現がさらっと出てくるところも圧巻だと思っている)、ウイルスのように変異株を作って、単体だったはずの文学に、また違う解釈が与えられ、色味や形が生まれてくる。そこには歴史の中に隠れた法則があったり、はるか遠い場所で違う役割を果たしたりする。あの連載の表紙の縦横無尽な螺旋の線のように、場所や空間が視点変われば、同じ作品でも見え方が変わり、決して重ならない。福嶋さんはさらにそこにたくさんの補助線を引いてくれる。同じ作品が何度も視点を変えて出てくることで、「今回の立ち位置はここですよ」と教えてくれるわけだ。これだけの量の小説が出てきたら、ほとんどの人間は遭難すると思う。それに対して福嶋GPSは、非常に明確に居場所を示す。しかも、一つではなく、視点によっていろんな場所を示してくれるGPSだ。それは、この広いのに狭くて複雑な世界の中で、人間自身の曖昧になってしまったアイデンティティーをどう捉えるか、そのヒントとして本そのものが世界に対する認識を与えてくれる視点にもなっている。この福嶋GPSの性能の凄さに翻弄されながら、章が進んでいろいろな軌跡を辿っているうちに、点と点がつながり思考の螺旋が何度ももくりかえされるうちに文学で描かれた建造物が立ち上ってくるという過程を読者は追体験する。確かにこれは「批評による冒険」だ。冒険した痕跡を振り返ると、そこには文学で構築された動き続ける生態系の建造物がうねるように存在している。
本人はシステムを組み上げているだけだよと言うかもしれないけれど、これはもうアートなんじゃないかと私は思う。
この本は、考察だけでは絶対できない批評によるアートだ。考察は地中に根を張り巡らせ深く思考することはできるけれど、島とか大陸からは出られない。でも批評は変異株を作って何回もトランジットを繰り返すことで、時間と空間を超えられる(このトランジットの仕方と持ち込んだものが意外と重要な気がする)しかし、この時間と空間を越えてシステムを組み上げるためには、今までの時間感覚では到底無理なのだと思う。多分私たち(というか私)は、右から左(過去から未来)に時間が流れていくという年表的な時間軸に染まり過ぎたのではないか?私は読み進めていくうちに、この思考の癖みたいなものに気がついた。この本は、年表思考的な考え方を問い直す本でもあると思う。
そして、時間軸に関しては、連載の最終章にフォークナーの世界観ともに示される。私は、この最終章のフォークナーの論考を読んでいて、ふと、第1章のこの連載全体を包括するテーマ、「世界文学」という概念の提唱者であるゲーテの晩年最後の作品(というか20年来の研究)といわれる色相環(色彩論)を思い出した。多分それは、ニュートンの「光学」に対して、ゲーテの色彩論が闇(黒)を考慮するというところに起因していると思うけれど、福嶋さんのフォークナー論を読みつつ諸々書いてみたら連載の有料部分に相当踏み込んでしまうことになってしまったので、今回は諦めた。新著の本を読んだ後にもう一回考えて、誤読なのかもしれないけれど、それでも良いから書くだけ書きたいなと思っている。
ということで、この本の発売が嬉しくて諸々書いてしまった・・・。
連載の時には、連載の間が空いてしまうので思考が分断されたけれど、これが本になってブラッシュアップされた時に、また、連載の時とは違った建造物として現れてくれるのか、私にとってはもはやアーティストと捉えている福嶋亮大さんという書き手が描く批評を丸ごと一冊読めることが楽しみだ。「時間とは何か」そして「人間とは何か」をじっくり考えながら読める本であることは間違いない。そして、何よりも、福嶋さんはこの本の中で何度も何度も視点を変えて尺度を変えて「世界文学」の中と外を旋回しながら、その変異株をつくりだしている。前著の「書物というウイルス」という本は2022年に発売されている。実世界でSars-COV-2というウィルスが震撼させたのは、人間もだけれど人間が構築してきたシステムに対してであったとウィルスと直接戦わなければならなかった仕事をしていた私は実感している。けれど、もし、そうであるならば、批評という変異株も人間の作り上げたシステムを変容させるようなパンデミックになる可能性を秘めているんじゃないか、「書物というウイルス」から「世界文学のアーキテクチャ」へ期待を込めて、今回この文章を終わりたい。あ、でもゲーテには続きたい。
