【豊橋市戦災復興誌を読む】戦災4
小序
おしよせる軍需の波の中に埋めつくされてゆく平和産業。
日華事変が起きた昭和12年を境にして軍需の大波が豊橋の近代化計画を押し流してゆく。
豊橋に残された最後の近代化への道は――豊橋港
阻止された近代都市化
軍需都市化
昭和12年に失敗を露呈した豊橋の工業化は、おなじ12年から豊橋にえいきょうをもたらし始めた軍需景気のなかで実現されたかにみえた。しかし、工業化が軍需工業化を内容としたことは、幾多の解決されない問題を豊橋に残した。
1.平和産業をぎせいにした軍需産業化は、市民の生活水準を低下させた。この本来の工業化とは無縁である方法は生産の目的を失わしめた。
2.統制下の軍需工業化は、市民の独立性をうばった。中小企業は淘汰され、独立の商人、或いは生産者として生きてきた人が職をうばわれ、転廃業して徴用工となって賃金労働者に転落し、過去数十年の努力は水泡に帰した。幸いに転廃業は免れても、営団や統制組合に編入され、国の統制下にうちひしがれた。地方産業の担い手であるこの人たちの独立性をうばったことは、零細資本が占める豊橋の産業には致命的に響いた。
3.統制下の軍需工業化は地元資本の崩壊をはやめた。巨大資本は工場進出、資本投下によって豊橋の産業を自己の支配下に置き、またはおこうとした。統制経済の元締である統制会は財閥と独占資本の支配下にあったがゆえに、その資本の統合は豊橋の経済的基礎を掘りくずしてしまった。
かくて、およそ本来の工業化と無縁な軍需工業化は、豊橋を軍需都市化こそすれ、それは豊橋本来の本願ではなかった。豊橋の平和産業は、その構造においては零細資本ではあったが、過去に蚕都というほのかな栄光をのこし、戦争の中に没し去った。
地域の産業の継続性が、軍需産業化によって失われてしまったというのは非常に大きなことだったのだろう。今からでは想像もできないような中小企業のエコシステムがあったのだろうが、それがすっかり失われてしまったことを意味しているのだろう。産業化の成熟は、個人が産業の部品となることではなく、個の自立によって自生的に産業が自然に展開していくことによって成し遂げられるのではないだろうか。
都市建設の受難
豊橋の発展の目途は、工業化を通じての都市の近代化にあった。豊橋はこの宿願を貫くために、戦乱の嵐の中にあって都市計画の実現をはかった。戦争の牙はいくたびもその計画書を破ったが、市当局はまたいくたびも書き改めた。しかし破壊の魔手はついに最後までゆるめられることはなかった。
元来豊橋の財政は豊かではなかった。昭和12年、豊橋の生産は県下諸都市の最下位におち、したがって税の減収は全国139都市中第2位であった。だからこそ豊橋の工業化ははかられ、工場誘致計画はねばり強く計画されたのであった。しかし外来の大資本と地元の中小生産者とのあいだの矛盾は解決されず、本来の工業化は行き詰まってしまった。その年もまた昭和12年であった。そして、その背後に待ち受けていたのは、「非常時」―「戦時体制」―「決戦体制」という国内体制であった。この国内体制に直接の関係をもたない政策や施設は次々と放棄されていった。豊橋近代化のための都市計画もこの一つとして霧散していった。
昭和12年は日華事変があった年ではあるが、なぜことさらに豊橋の工業化挫折がこの年と重なるのかの理由はよくわからない。ここまで読んだところでは、三信鉄道の開通と、丸物系デパートの駅前進出計画の年と重なるということで、どちらも戦後にまとめられた記録かもしれないことを考えると、あえて日華事変のあった昭和12年という年に焦点を当てて記憶を形成しようとした可能性もあるのではないかと考えられる。
近代化のための都市計画の骨格である第1のプログラム、街路網の整備は、昭和8年3月の第1期事業、ひきつづき昭和10年10月の第2期事業として着手された。この計画は駅前広場をふくむ幹線街路15路線であったが、戦争が拡大されるにつれて、次々と放棄されていった。まず豊橋の北方に海軍工廠、南部の大崎に海軍飛行場ができ、5つの都市計画路線は、この軍事施設を結ぶための軍用道路にきりかえられ、駅前広場の拡張はそのまま置き去られた。
海軍工廠の開廠は昭和14年、そして大崎に豊橋海軍航空隊がおかれたのは戦時中の昭和18年なので、道路の話とは少しずれてきそう。
柳生川改修事業も日華事変がはじまると、まもなく労働力や、トラックは軍用にまわされ、鉄材・セメントの値上りのため工事は中止されてしまった。また、柳生川に設置する予定の下水処分場も計画書をのこして立ち消えてしまった。これとともに豊橋の産業の発展のために豊橋出身の代議士近藤寿市郎や大口喜六が努力した豊川改修工事も捨て去られた。
日華事変がはじまって以来の、物資、労働力の不足が述べられる。つまり、昭和12年以降になると、民需用の資材・労働力は極めて制限的になっていたことがわかる。
しかし、豊橋が最後まで努力を怠らなかったものに豊橋築港があった。築港は大正時代からの豊橋の念願であった。昭和8年、9年と豊橋市は涙ぐましいほどの築港実現をはかった。そのために、在豊の海軍大佐向坂清助を顧問にし、戦争遂行上の軍の要請を期待し、時局に便乗までして努力をつづけた。昭和11年3月、豊橋は指定港に認定されたもののそこにもまた日華事変がたちはばかった。軍事予算の膨張は豊橋築港事業の見送りを余儀なくさせた。昭和13年12月、市はなお計画を捨てず、市の南北に軍事施設が計画されているのを理由とし、軍需品搬入のための指定港となった豊橋港を、さらに第2種重要港湾に編入することによって築港実現の促進をはかるため内務省に陳情をつづけた。その結果1万5000円の起債認可を内務省から受け、戦局深刻化の中で神野新田の一角に船だまりを完成した。其の後、変貌する戦局はいよいよ港湾建設を困難にしていったが、臨港都市への悲願は捨て去ることなくたびたびの計画変更ののち、ついに昭和19年、豊橋港の築造案は縮少されるどころか、かえって厖大な計画として設計された。さらに豊橋港と豊橋市内工業地帯とをむすぶ重要都市計画街路「築港線」4.7kmを一挙に1.5ヵ月で完成すべく、空襲下の20年2月14日現地で起工式を行なった。しかしながら、この雄大な宿願も、決戦のための悲しい焦りをしめしたにすぎず、資材と労働力の徹底的な不足、あわせて敵機の跳梁下ではなす術もなく、港湾計画はまた計画として終らざるを得なかった。
最後まで努力を怠らなかったというよりも、海軍の進出もあり、最後まで残った可能性としての築港計画だったと考えることができそう。
工業化のための工場誘致政策は行詰り、最後まで続けた豊橋の都市計画は資材と労働力を戦争にもぎとられ、工業化を基盤とする近代都市への発展に将来をかけた豊橋の建設はすべて許されなくなった。
全般的に、戦争・軍需産業憎しの論調が強く、客観的とはいいがたい描写が多い。主観的には共感できる部分もあるが、実相の追求のためにはより多面的に分析し、評価する必要がありそう。
小結
ここでは、近代化を軍需の拡大の中で追い求めないとならなかった豊橋、或はその拡張であるとも考えられる日本全国の悲劇が描かれる。
如何に民政を軸として近代化をすすめようと努力しても、どこまで行っても軍需、そしてファッショに絡みとられてしまう苦しみ。
供給側は資材と労働力を軍需に吸い上げられ、需要側では配給統制によって市場が死んでしまったら自然な経済原則は全く機能しなくなってしまう。
民間活力をすべて吸い上げたことで軍需への余剰がなくなってしまって戦争の継続ができなくなったとみることもできるのだろうか。
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