【豊橋市戦災復興誌を読む】戦災3

小序

いったい何が戦争へ向けての駆動力となったのだろうか――軍需産業化
ここでは財政支出が軍事に大きく傾くことで、経済全体が軍需を中心に動いてゆくことが描かれる
世の中の動きがおかしな駆動力で動くようになったとき、私たちはいったい何ができるのだろうか。

軍需産業の膨張

物価騰貴

戦争がはじまると当然軍事費の膨張がはじまった。国家財政のなかで軍事費の占める割合は、満州事変の始まった当時、31.2%であったものが、昭和11年には47.7%に跳ね上がった。不況脱皮の方法としてここに軍需インフレーション政策がとられたのである。(中略)生産財の値上りのなかで、零細資本の豊橋土木建築請負業組合員は、昭和12年ごろには材料の入手が不可能に近くなった。(中略)駅前の大デパート進出のうわさがあったとき「豊橋の仕事は豊橋の業者へ」と叫んでも市内請負業者は相手にされなかった。(中略)一方日本全体からみると満州事変以来、日本の生産はいちじるしく回復した。しかし、その回復は大きな財政支出――軍事支出にささえられてつづけられたのである。

豊橋市戦災復興誌 (P34-35)

軍事支出で生産をささえようとすれば、当然のごとく破壊的な用途の物資が国中、世界中にあふれることになり、それは相互破壊への欲求へ変わらざるを得なくなる。まさに破壊への競争とでも呼べるような状態になってゆくのだといえる。そして軍事支出は国内の毛細血管とでもいうべき地域の中小企業にはなかなか届きにくく、その点において、たとえ大資本を中心とした大動脈部分での景気が良くなったとしもて、細かな部分には血液たる金融がうまく回らないということになりがちなのだろう。

この傾向が、豊橋最大の平和産業である製糸業に影響した。12年の3月、愛知県製糸組合東三支部管内製糸工場は、市内176工場(8677釜)、市外27工場(1627釜)となり、前年より36工場(1557釜)も減少した。昭和13年にいたり、生糸生産量も15万8876貫となって、前年に比し7万6788貫も減少し、豊橋本来の製糸業の存続は困難になっていった。かくて、この生糸にかわって一時をしのぐため、豊橋はわずかに再生絹糸によって生きる道を求めなくてはならなかった。かつて豊橋の工業が製糸業で代表された限り、明らかに産業振興への希望は破れたのである。

豊橋市戦災復興誌 (P35)

日華事変の前から生糸生産は衰えていることがわかる。これはもしかしたら輸出よりも先に内需が衰退したということを意味するのかもしれない。絹は木綿にくらべれば上級材であるという位置づけをした方が良いものであるかもしれないが、それをいわばダンピングのような形で海外輸出したことが自分の首を絞めることになったのかもしれない。

統制と配給

戦争によって軍需工業を発展させるためには、平和産業への資金、資材のながれを制限することも必要であった。昭和12年秋、豊橋市内中小商業者が豊橋駅前にデパートが進出するのを阻止しようとしたとき、彼らを救ってくれたものはやはりこの制限――統制であった。このデパートの鉄筋コンクリート工事と資本の流用にストップがかかったのである。(中略)豊橋市当局はデパート進出を希望しておりながらも、デパートの駅前実現は立消えとなった。しかしそれと同時に昭和13年3月に制定された国家総動員法は全面的に統制を強化し、かえって中小企業なかんずく平和産業に関係ある豊橋市内の生産者や商人の経営を困難にさせた。(中略)
やがて昭和17年に至り統制物資のほとんどは配給制になり、(中略)組合や営団が設けられ、残存者はそれらの営団や組合の使用人となって独立性をうばわれた。また、豊橋の営団も組合も多くは国家や県の支部となり独立性を持つことはできなくなった。(中略)ここに統制の強化によって地方の自主性がくずれることをうかがうことができる。

豊橋市戦災復興誌 (P35‐36)

ここで組合や営団が県や国の支部となるということがなければ、今に至るまでの中央集権的な経済社会構造というものが構築されることはなかったのではないかと考えると、残念でならない。このような話を見ると、やはり、戦前・戦後で分けてしまうのではなく、その継続性を見てゆくということが重要なのではないかと思う。そうすることによってどの段階で地方が自治をうしなっていったのかがわかってくるのではないだろうか。

かくて統制経済は、まず弱小企業を淘汰し、残存企業を統制のわくの中にくみ入れ、地方経済を国家の必要に従属させた。この統制経済のねらいは、また軍需産業繁栄のために、平和産業を圧縮する手段でもあった。――豊橋最大の主幹産業である製糸業はまずその打撃を受ける。豊橋の製糸業者は軍需産業に労力をうばわれて不足し、銀行が貸出を締めて資金が不足し相場は上がっても多くの利潤は期待できなかった。加えて昭和15年1月、豊橋の主要生産であった国用生糸にも配給制が実施されるにいたり、さらに昭和16年3月蚕糸業統制法が公布され、生糸と製糸業は全面的に統制下に置かれた。中小製糸工場の多い豊橋の場合、その影響はおおうことができなかった。それは顕著な企業合同と釜数の整理となってあらわれた。愛知県製糸組合東三支部に所属する業者の急速な減少は、一気にかつての製糸都市の性格を失わしめ、壊滅させていった。

豊橋市戦災復興誌 (P36-37)

統制経済が中小の事業者を壊滅に導くという例が鮮やかに描写される。生産も消費も抑制される統制に、いったいどのような経済学的な正当化が可能なのだろうか。その正当化が不可能ならば、権力の横暴以外にいかにしてその行動を論評しようがあるのだろうか。

企業整備

18年になってさらに統制は強化され、食糧の不足は政府の奨励によって桑園の整理となり、繭の生産は激減、全国的に生糸の生産は前年の38%に圧縮された。統制の強化はそのまま企業の統合となった。18年のなかばに製糸業全国唯一の統制会社として日本蚕糸製造株式会社が設立され、東海出張所を豊橋において東海4県の工場を統括させた。市内では比較的大きな石川組・小黒製糸・氏原製糸がこの会社に吸収されただけで他の工業は軍需工場に転換するか、軍需会社の工場や寄宿舎に供用されてしまう運命にあった。(中略)この製糸業の壊滅と共に、もっとみじめな運命をたどったのは、豊橋のもう一つの工業麻真田業で、原料入手不可能のため3万台の機械は技術保存のため一部が残されただけで、90%はスクラップされ、兵器にかえられてしまった。また特殊産業である筆やちくわも同様な運命をたどることを余儀なくされたのは云うまでもない。

豊橋市戦災復興誌 (P37)

平和産業を壊滅させて戦線を拡大させることにいったい何の見通しがあったというのだろうか。余剰があるから手を広げるということは考えられても、手の内の駒を次々食いつぶして拡大路線をとっても、中身ががらんどうの無が拡大しているのに過ぎないのではないだろうか。
これ以上引用をつづけてもむなしくなるばかりなので、この部分はここまでとする。

軍需産業

豊橋の平和産業、なかんずく製糸工場消滅のうらからは政策の波にのった軍需工場が急速に膨張しはじめた。(中略)戦争に不足したものは物資だけではなかった。労働力も動員され、昭和14年にはすでにその傾向がみられた。(中略)
昭和16年の半ばになると、対米英決戦必至の状態に入った日本は、労務動員計画を国民動員の形にかえつつあった。(中略)転廃業者が今後の給源として期待されたわけである。(中略)
かくて、昭和19~20年豊橋市内及び周辺の工場はほとんど軍需工場と化した。(中略)まさに生産面からは豊橋は昔日の面影はなく、完全に軍需工場化した。

豊橋市戦災復興誌 (P39-41)

この部分も軍需工業化の勢いをしめす記述ばかりで、少しリアリティがないようにも感じられる。太平洋戦争がはじまってからの短期間でこれほどまでに軍需工業化が進むとはなかなか考えにくく、少なからぬ誇張があるのではないかとも感じられる。どこまでリアリティを回復できるかが問われているのかもしれない。

小結

この項目では、軍事費の増大と、それに従う産業の軍需化が描写され、それに応ずるように豊橋の屋台骨であった製糸業が壊滅していく様子がくっきりと描かれた。
軍需転換で生産を押しつぶし、配給で供給を食い尽くすというようなことをやってしまったら、どんな産業も生き残れるものではない。
軍部に少しでも経済的な感覚があれば、あのような無理な戦争はしなかったに違いないだろう。そんなことを教訓とするために、地域からの近現代史というのをあるがままの視点から見てみるということが必要になるだろう。

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