【豊橋市戦災復興誌を読む】戦災6
小序
遂に訪れた戦災――それは空襲
消防の訓練も準備もなされていながら、その予想をはるかに超える大空襲。
そして動けない警防や軍隊。
拡大する被害を人々はいかに感じたのだろうか。
豊橋の戦災
軍防衛
軍は本土決戦にそなえ、国土防衛の一環として東海地区に陣地構築を急いだ。(中略)
本土決戦にそなえる豊橋周辺の山野にも他とともに日本のすべての力をはたいて玉砕前夜の沖縄を思わせるものものしい武装がおこなわれたのである。しかしこの軍隊は野戦師団であるが故に豊橋防衛を目的とするものではなく、日本の国土全般の作戦上の目的においてのみ、配備されたものであった。
東海地方、とりわけ豊橋周辺の軍備の配置が述べられるが、それは豊橋防衛を目的とするものではなく、日本の国土全般の作戦上の目的においてのみ配備されたものだったとする。終戦直前の本当の軍事情報が公開されているのかということをふくめて、この軍備の配置をそのまま信用するのはどうかとは思うが、豊橋をまもるためのものではなかったというのはおそらくその通りなのだろう。
戦災
6月18日午前1時、隣接の浜松市は焼夷弾の攻撃を受け、二時間後には四日市が空襲をうけた。その時浜松の空には豊橋空襲を予告するビラが撒かれていたという。さらに翌日の夜明け方、敵の1機が志摩半島から渥美湾を回って脱去した。さらに午前11時15分、志摩半島・浜名湖・御前崎方面から数群の敵機が侵入し、豊橋市には警戒警報が発令されたが、そのまま1時間余で警報は解除された。夜に入って午后11時すぎ警戒警報、しばらくして空襲警報が発令された。ラジオは「志摩半島から侵入の敵機は若狭湾に機雷投下の模様」と軍情報を伝えていたが、間もなく空襲警報は解除になった。市民はホッとして不気味に沈黙する空をながめていた。ねもやらない市民が不安におののいているとき、ラジオは「敵の1機北上中」と放送していたが、時すでに豊橋には焼夷弾が投下され、柳生川運河北方面は燃えはじめた。6月19日11時43分頃であった。46分つづいて運河北方へ投弾(豊橋市に対する空襲開始の時間については諸説があり20日未明が正しいとも云われる。)かくて豊橋は全く戦火につつまれ、B29延90機の徹底的な波状攻撃の目標となったのである。
警報が全くあてにならなかったことが記されている。そして、空襲開始時間すらも、現地での11時43分という記録と、新聞報道による翌20日0時40分という一時間のギャップがあることになっている。これは想像に過ぎないが、新聞が米軍の公式発表をもとにサイパン時間で開始時刻を報道したという可能性もあるのではないだろうか。そして本書では延90機となっているところが新聞報道は延なしの90機となっており、その差は非常に大きい。当時の新聞報道よりも10年後に出たほうが機数を少なく伝えていることから、その時期になってもまだ情報が入り乱れていたことがわかる。
この空襲下、市民は施す術を知らなかった。(中略)
万全を期したはずの市防衛本部と各分団との連絡も途絶え、市防衛本部は市の西部や南部との連絡も不可能であった。(中略)校区警防分団の一部の活動をのぞいて、全市の消火活動はほとんどその機能を発揮することは困難であった。20年3月ごろより羽根井付近に常駐していた消防車10台を持つ県警防課派遣の消防特別中隊すら動けなかった。
これよりさきに6月19日午后8時30分豊橋市警防団は空襲にそなえ非常召集をかけ、人命救助員10名をも待機させたが、大空襲の前にはその力はあまりに小さかった。一方市役所は当夜の防衛日直であった総務課長竹本吉之助以下21人、臨時に市役所となっていた重要書類の山積する公会堂と図書館を死守しとおした。在豊各部隊はほとんど自己防衛のため兵舎の防火にあたって動かなかった。あるいは狭間小学校・松山小学校・豊橋中学校にいた部隊のごとくいち早く避難をしてしまった。
したがって市民にむかい軍に協力を要求した在豊各部隊は、にげまどう市民には、関屋町における一部軍隊の消火作業をのぞいて協力しなかった。
消防特別中隊の記述と軍の記述で、軍のほうに批判的な記述になっているのは、よほど思うところがあるのだろう。
20日午前3時15分空襲は終った。それからおよそ5時間、市街地の90%と農村部の一部は焼け続けた。(中略)
都市防衛のために行った強制疎開はこのような潰滅的大空襲を予想したものではなかったが故に、県、市当局の辛苦の努力と涙ぐましい市民の協力にもかかわらず家屋の強制疎開区域が市民の避難に便利をあたえただけだった。
3時間半から2時間半にわたって空襲がつづいたということならば、いちどの空襲に15分かけたとしても一機につき10回から14回の空襲があったことになり、延90機ならば実際には9機程度だったということになりそう。
旧藩吉田以来400年、城下町の面影をとどめながら近代都市の建設に努力してきた豊橋市は一夜にして焼失し去った。豊橋市の市街地を中心として被害面積128万6155坪、罹災世帯1万7019、罹災人口7万1502人、実屋の全焼または全壊1万6886戸、全戸数の70%が焼失、罹災人口は全人口の50%に及んだ。中でも624人のいたましい戦災死と重軽傷者344人を出した。
罹災世帯の平均人数が4.2人というところは良いが、罹災世帯のほとんどが全焼または全壊しているところが気になる。そして死者数よりも重軽傷者数のほうがすくないということも気になる。真夜中の空襲で総戸数の70%が罹災して624人しか亡くならなかったというのは不幸中の幸いだといえるのかもしれない。
昭和19年末豊橋市内の総工場数は1318工場であったが、既に復興し始めた20年の12月現在もなおかつての94%は失われ、(中略)71工場に激減している。
軍需工場にみる豊橋市の生産活動の潰滅ぶりはこのようであった。これは即ち市民をして失業者たらしめたことを物語る。街頭に放出された失業者は、20年12月末の工業調査の結果で見ると、工場従業者は戦災前の19年12月末に比して15776人から5787人に激減している。1万人の失業者が戦災と敗戦下の豊橋市内にうごめいていたのである。
(中略)
かくて精神的・物質的な要素のほとんどを失ったまま、危機をはらんだ豊橋は瀕死の重傷で終戦の日を迎えたのである。
空襲被害は市街地に集中しているようにも見えるのに、工場がそこまで潰滅したのか、ということは少し訝しい。戦中の統計が徴用逃れなどをふくんでいる可能性もあるのではないだろうか。そして、軍需工場がなくなった以上、自分の工場や商売を再開させようとしていた人もいただろうから、直ちに失業者が1万人ということにはならなかったかもしれない。市内に大きな混乱要素があったことは間違いないが、それが直ちに1万人の失業ということにはつながらないかもしれない。
小結
この項目は、終戦間際に豊橋に置かれた軍備と、そして空襲について記されている。空襲は確かに悲惨だっただろうが、大空襲の割には人的被害は少ないという印象は受ける。
これは、空襲が本当にあったのか、という疑問を提起させる。火事はあったのだろうが、それが何らかの組織的な地上での行動によるものだという可能性はないだろうか。空襲が2時間半から3時間半にわたったという長さもその疑念を裏付けるようにも感じる。軍隊に対する評価が低いのは、そのつけ火を取締るべき軍が何の行動もとらなかったということをあてこすっているということはないだろうか。
本書が『豊橋市戦災復興誌』を名乗っている以上、戦災については記載せざるを得ない一方で、その戦災に対して様々な見解があり、それを空襲という形でまとめざるを得なくなったということはないだろうか。
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