【豊橋市戦災復興誌を読む】応急対策1

小序

敗色濃くなる中で豊橋をおそった戦災――それは大空襲。
それは想定よりもはるかに小さな規模だったはずなのに、それによってもたらされた混乱は想定よりもはるかに大きかった。
そんな混乱の中、それぞれの人がとった行動はどんなものだったのか。

昭和20年6月20日、豊橋は都市活動の生命を断たれた。400年にわたる都市としての豊橋の営みは、一瞬にして停止してしまった。古い歴史をとどめる街並みも寺院・神社も、昔の面影の片鱗さえ残すことなく消失した。近代化を辿った豊橋の若い生命の源泉たる工場・商店も面影一つ残さず消え去った。実に泰西のポンペイの最後にも似た姿となった。しかし、すべてのものが皆無になってしまったのではなかった。多くの死傷者を出しはしたが、復興の芽となるべき勇敢な市民は、厳として廃墟にたちとどまっていた。そこには無から有を生みだし、静から動に転ずべき力――たくましき市民があった。

豊橋市災害復興誌 (P71)

私は江戸時代に現在の豊橋とされる吉田が城下町であったという話には懐疑的ではあるが、古い歴史をとどめる街並みということばが出てくることから、そこに古く長きにわたる生活があったということは否定できないのではないかと考えている。それは侍の支配する封建的な街というよりも、農商工人がそれぞれ自らの得意分野を生かして活躍する活気ある街の姿だったのではないかという気がしている。そしてその街が戦争の一局面で焼払われてしまったのではないかと考えている。

救護

救護体制

豊橋警防団は豊橋市長水野保を団長とし、各国民学校々区の警防団をその傘下におき、全市一体となって防空・防火・避難・救護の任に当った。
豊橋市の救護体制は、この警防団組織のほかにも組織をもっていた。それは豊橋市救護団という医療機関であった。警防団が罹災者の救出を担当し、救護団が罹災負傷者の応急治療の任に当り、この両者を市の保健課吏員全員の構成による救護所が結びつけることによって有機的な組織活動を狙うものであった。

豊橋市災害復興誌 (P71)

これをみると、警防団がうまく機能しなかったように見えるのは、団長のもとに各校区の警防団がうまく組織されていなかった可能性が指摘できるのではないだろうか。一方で、罹災負傷者の応急治療については、既にみた通り、死者数よりも重軽傷者のほうがすくないという記録がある以上、応急治療は比較的うまく機能していたのではないかと考えられる。

多発屍隊処理要項

救護とともに死者の出ることも予測されていた。戦局の行きづまり、他都市の大空襲の経験も汲み入れた県庁からの指令もあって、市は「多発屍隊処理要項」を作成し、救護業務と並行して準備していた。

豊橋市災害復興誌 (P71)

死体処理は大変なことではあろうが、準備の良いことだと感じざるを得ない。一つの地方都市で2000人もの死者を想定せざるを得ないほどの状況を国民に強いた国の責任は重いといわざるを得ない。

救護作業

初弾投下から夜明けまで、市街地の大部分の罹災市民は生きている気持ちがしないまでの不安におそわれた。用意された救護体制は全くその組織をかきみだされ、殆んど施す術を知らなかった。ただ警防団分団の救出作業は、このような混乱の中にも部分的には勇敢に行われたことは特筆さるべきことであった。
夜明けとともに罹災者は幾分か落ちつきを取り戻した。避難所には相当数の無惨な焼屍体や負傷者が担送されていた。(中略)火の手はやや下火になったとはいえ、不気味なほどに炎は映え、自家への接近はまだ全体として危険であった。
避難所での医師の処理は予定された通りには行われなかった。医師も薬物も、余りに多い罹災者には手の施しようがなかった。ただほんの応急の処置がせい一杯で、負傷者全部にはとても及ぼされなかった。
通信機関は完全に途絶してしまっていたが、守下の豊橋病院と東田の桜丘病院が、罹災を免れたことが避難所に伝えられてからは重軽傷者の担送は活発になった。

豊橋市災害復興誌 (P72)

警防団分団の救出作業が特筆されている。指揮命令系統はともかくとして、現場としては精いっぱいの努力がなされたのだろう。これは、軍政下で警防団の努力を高く評価することで、戦後行政の正当化を試みた表現であるとみることもできそう。つまり、動員の対象としての警防団が想定以上に活躍したということで、そこから戦後の行政が継続性を維持しようとしたのだと考えられないだろうか。
死者数よりも少ない重軽傷者数というのは、医者が手いっぱいでカウントしきれなかったということがあるのかもしれない。或は、軍政下において民政が圧迫され弱体化しきっていたということをしめしているのかもしれない。

公会堂は幸にも罹災をまぬがれた。この中に設置されていた市役所も防衛本部も無傷であった。夜明けと共に、市役所の階下の救護所にも負傷者が続々と運ばれてきた。狭い部屋はまたたく間に満員となってしまった。市の保健課吏員は全員市役所に集合することになっていたが、全市が殆んど同時に火災に包まれたため、交通は途絶え、早朝にはまだ数人の吏員しか出勤しえなかった。手薄な救護班吏員で多くの負傷者の処理などはとてもできず、困難を極めているうちに、市内大清水の東洋通信機株式会社の救護班10人の救援があって、満員となった救護所の負傷者をつぎつぎに豊橋病院と桜丘病院に担送した。
死亡者と負傷者にはそれぞれ応急の処理がなされた。(中略)
多数の負傷者を収容した両病院の混雑は言語に絶するものがあった。(中略)

豊橋市災害復興誌 (P73)

救護作業の困難さが述べられる。空襲があったからといって、それで戦争が終るわけでもなく、その朝から通常の戦時日常がまた始まる。その中で多数の負傷者が街にあふれているという状況。それは想像もつかないほどの絶望状態なのだといえる。

屍体処理

防衛本部においては、午前8時ごろになってやっと屍体5つが発見されたとの報告がもたらされた。防衛本部としては屍体の少いのに不審を抱くとともに、罹災の大きい割に使者の少いのを不幸中の幸いとよろこんでもいた。しかし、この考えは誤りであることがわかった。それは、警察の死亡証明書がなければ屍体を動かすことができなかったから、その手続きに時間をとっただけであった。即ち屍体を運ぶ段階になってやっと報告が本部にもたらされたのであった。都心部の大部分の国民学校が罹災したため、予め準備された屍体処理の用紙は焼けてしまい、市役所や周辺の罹災をまぬがれた学校の分を市の吏員が懸命に現場に持ち運び、警察の死亡証明書の便をはかったのであった。

豊橋市災害復興誌 (P73)

こんな非常時であっても、いや非常時だからこそ、官僚的な処理が際立って見えることになる。事務的に死が証明されて初めて死んだことになるというのは非常に示唆的。

炊出し

恐怖と混乱に満ちた空襲の夜明けとともに、市は丸裸になった罹災者のための炊出しを、罹災をまぬがれた町内会に対して要請した。市としてはまだ罹災者の正確な数はつかみ得なかったので、焼失した家屋の状況から必要数を推定して割当てた。割当を受けた町内会では、急いで握飯をつくって所定の避難所に運んだ。市が20日の夕方になって知り得た炊出し必要人員数は6万8275であった。20日の大空襲以前の前後6回の爆撃のときの炊き出しを受けた実人数計775に比べて実に100倍近い数をしめした。
市は市役所構内でも軍用米の払下げを受け、20日の昼頃から罹災者一部に炊出しをはじめた。

豊橋市災害復興誌 (P74)

配給で白米には事欠いていただろうに、握飯を出すのは大変なことだったと想像される。ここで驚くのは軍用米の払下げということば。軍はこの戦災に対して何もできなかったのにもかかわらず、炊き出しを供与するわけでもなく、軍用米の払下げという、いわば焼け太りとでもいえるような行動をとっていたということになる。本書の中でここまでに示された軍への不信感というのは、このような行動からも、生まれて自然だったということができるのかもしれない。

小結

ここでは、戦災に直面しての救護体制、そして救護措置について述べられている。
警防団が部分部分では機能していながら、全体としては機能停止と呼べるような状態にあったこと、思いもかけない大空襲で、死者・重軽傷者数は足し合わせても想定していた最大規模には至らなかったが、それでも救護作業は混乱を極めて施す術がなかったこと、市民が身銭を切って炊き出しをする一方で、軍は軍用米を払下げるだけだという、その巨大な権限に見合わない責任の軽さがくっきりと浮かび上がる。
戦災が想定していたよりも被害が大きかったということは、全体的に戦争被害というものに対して、甘い見通しで臨んでいた全体主義体制を象徴しているのではないだろうか。各地をおそった空襲というのは、そのような甘い見通しで戦争に突入し、継続してしまったことの悲劇の一つの露見であるといえるのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!

Emiko Romanov 誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。

この記事が参加している募集