【豊橋市戦災復興誌を読む】戦災5
小序
地域における戦災の様子はどのようなものだったのか――総力戦体制
軍需によって、物資も、そして労働力もすべて吸い上げられて、残ったものはいったいどうなったか。
強制疎開として、町から追い出されるように疎開せざるを得なくなった人々、一方町に残った人々の行動やいかに。
豊橋の戦災
市民生活の破壊
豊橋の生産はあげて軍需に動員され、市民生活をうるおってくれるものは日ましに欠乏していった。(中略)ヤミ取引と裏口営業をもってしても追いつかない市民は、自給生活と代用品にあけくれるようになった。
配給とヤミで戦時下の苦しい生活をつづけていた市民の負担はさらに増加した。それは資源の回収と金属供出であった。(中略)
昭和17年の労務調整令は国家の必要の前に人員の自由を奪って、すべて戦力に動員したものであった。したがって自由な就職を許さない方針が国家によってはっきりうち出されたものであった。しかしながら、政府はそれでも労働力の不足を補うことができないことを知り、昭和14年以来、白紙召集と呼ばれる「徴用」という強制力を発動していた。(中略)
昭和19年4月、敗戦の色こい中で、市内中等学校上級生は一斉に学業を放棄しなくてはならなかった。「学徒動員」という悲劇がはじまったのである。(中略)
翌20年4月、動員はさらに拡大強化され、中等学校高学年には深夜作業も加わった。中等学校低学年・国民学校高等科が全員出動、中等学校々内には生徒の姿はさらになく、軍隊のための兵舎にかわった。(中略)
市民は19年4月より兵器補給廠に動員される一方、大清水飛行場拡張工事のためにも動員された。昭和19年8月1日から9月10日までの37日間に(中略)大清水飛行場に動員された人は合計延13万814人を数えたのである。
軍需への動員がここまで過酷であったと考えると、戦中のことを冷静に振り返ることなどだれにもできないのではないかと感じてしまう。まさに総力戦であったといえるか。筆致としては少し戦争被害を強調し過ぎかな、という印象は受けるが、それにしてもかなりの総力軍需体制であっただろうということは想像できる。
大清水飛行場の拡張のためにここまで大動員しておきながら、それが空襲の際に何の役にも立たずに工廠や街がただ焼き尽くされるのを指をくわえてみていたというのがあまりにむなしい。いったい何のためにそこまで総力をつぎ込んだのか。
強制疎開
このように働きうる市民がことごとく動員され、ものものしい本土決戦体制下に豊橋市は従来の都市防衛を改めるべきときがきた。都市の積極的防衛の方法として市民とその住居の強制疎開をとらなくてはならなかったのである。
このあたりの記述は『豊橋市政五十年史』と重なる部分が多いので、引用は控える。
総動員をしながら、一方で疎開をすすめるという矛盾にどのような答えが考えられるだろうか。
これは、私の直観に過ぎないが、もしかしたら、長きにわたってそこに住んでいた人たちから、近代化に伴って都市部となる部分の土地所有権を放棄させるためだったと考えられるのではないだろうか。つまり、元から住んでいた人の扱いに手を焼いて、疎開政策の名の下にその土地から追い出させようとした可能性もあるのではないだろうか。
県が計画した建物の強制疎開の狙うところは、空襲による災害を最小限度に食い止めようとしたものであった。しかし戦局は日に日に利あらずして、豊橋が陸上戦闘の場になる公算が多くなってきた。(中略)市の防衛課は老人、婦女子、子供を来るべき戦場――それは郷土であった――から南設楽郡や北設楽郡に避難させるべく、万一に備えて極秘裏にその計画を立てた。(中略)
この計画は人心の動揺をおそれ、秘密が守られたが、一部の町内会長は責任感から秘密漏れを恐れつつ、ひそかに現地と打ち合わせをした人すらあった。(中略)
工場誘致は既に遠い昔の夢となっていた。いま市民はいかにしてこの戦場となる郷土で敵と戦うかということしかなかった。市民は必死になって郷土の防衛に備えた。市役所は既に6月9日、市公会堂に水道課を除いて全部移転を完了していた。
強制疎開の計画について『豊橋市政五十年史』よりも詳しく述べられている。本土決戦が身近に迫っていたという様子が描かれている。
豊橋の防衛
国家の要請によって市民は自らを顧るいとまもなく兵力となり、兵器増産要因となって戦争遂行のために働いた。食べるに食なく、着るに衣のない中で灼熱の戦火をあびながら挺身した。市民は空襲に備えて自衛防空を怠らなかった。すでに昭和11年(中略)防護団が組織され、(中略)さらに戦争が長期化すると防空の強化がはかられ、昭和14年1月、政府は警防団を組織する方針を明らかにした。豊橋市は従来の消防団員1200余を主体として、(中略)警防団を結成14年5月12日発足した。(中略)昭和14年には防空演習に本腰を入れ始めた。(中略)
16年にいたり、名古屋師団防衛司令部に属する防空監視隊本部が豊橋警察署内にでき(中略)た。
太平洋戦争に至るよりもずいぶん前から防空の準備がなされていたことになる。空襲というのは第一次世界大戦でもおこなわれたとはいえ、真珠湾攻撃の前から、かなり念の入った準備だといえそう。豊橋でいえば、昭和9年に消防の再編が行われ、その規模を半分以下にしたのにもかかわらずその2年後に警防団を組織するというのは何ともちぐはぐな印象を受ける。
昭和19年11月23日午后0時30分、豊橋に最初の空襲警報が発令された。月末までに3回の空襲警報の発令をみたが、市民の目には敵機はうつらなかった。12月に入ると名古屋は連続空襲をうけて、やがて中小都市空襲の予感も感ぜられるようになった。(中略)
敗戦の色が濃くなると、米軍機の跳梁は日に日にその数を増し、郷土豊橋はついに空襲の目標となった。かくて20年5月末までに米軍機は前後7回にわたって市内各地に爆弾を投下(以下略)。
豊橋は、ここまでの記述によれば、生産が県内都市の中で最下位ということだったが、Wikipediaの日本本土空襲 「1945年7月21日米軍報告書」によると、県内では名古屋についで2番目、全国でも33番目で門司や姫路、四日市よりも優先順位が高い目標対象になっている。このあたりに、記録と現実との間に大きな乖離があるように感じられる。
小結
ここでは、動員体制、強制疎開、そして防空の様子が述べられている。
学生まで根こそぎ動員し、残った人々を強制的に疎開させ、さらに残った人々に防空、そして国民義勇隊への参加を強いるというひどい総力戦の様子が描かれる。
ただ、防空体制の時系列がかなり広くとられていることなどを考えると、総力体制について誇張気味に書かれているのではないか、という印象も受ける。
戦後の認識調整で、軍部独裁総力体制に負の部分をすべて押し付けようとした可能性も考えられないことはないということは注記しておきたい。
なお、総力戦に至らざるを得なくした総動員体制へは、市民を臣民としてその自由を強く制限した大日本帝国憲法下では、論理的にそこに帰着しがちであるということを付け加えておきたい。
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