封じられた四通の手紙 1-4
第四節 不可視の訪問者
喫煙所のドアを開けると、湿った空気と煙草の匂いが混ざった室内が広がっていた。
換気扇は回っているが、空気の流れは鈍く、静寂と重さが辺りを支配している。
佐伯は深く息を吸った。湿った煙草の香りが、妙に心を落ち着かせる。
しかし、その安心は長くは続かなかった。
奥の窓に目をやると、雨に濡れた夜の街灯がガラスに反射して揺れていた。
一瞬、視界の端に黒い傘の影が映った。
佐伯は咄嗟に目を細める。
――誰かいる。
だが、振り返っても、そこには誰もいなかった。
微かな足音が、廊下から聞こえてくる。
等間隔に打ち付けるような、乾いた足音。
佐伯の胸は高鳴る。
背後を振り返ると、ただ自分の影が壁に映っているだけ。
しかしガラスの反射には、自分ではない傘の影がある。
佐伯は一歩後ずさる。
体に鳥肌が立つ。
頭の奥で、かすかな囁きが聞こえたような気がした。
――「あなたが選ばれました」
声は微かで、遠くで風が鳴るような、でも確かに人間の声だった。
佐伯は息を詰め、手元のタバコに火をつける。
煙が揺れ、光を反射する。
その瞬間、彼の脳裏に過去の光景がフラッシュバックした。
廊下のポストに差し込まれた黒い封筒
その封を開く若者の指先
銀色の糸が光を反射して、宛名の文字が浮かぶ
過去の事件が、鮮やかに、しかし不可解に、今の自分と重なる。
佐伯は息を呑む。
自分が書いたblogの記事――あの曖昧な都市伝説のような文章――が、誰かを呼び寄せたのではないかという恐怖が、胸の奥から湧き上がった。
室内の壁に、文字が浮かび上がるような気配がした。
記事の一文一文が、白く光り、ゆっくりと壁を這う。
「黒封配達――死を招く噂」
「あなたが選ばれました」
指先に、冷たい空気が触れる。
それはただの風ではない。
部屋のどこかに、確かに“誰か”がいる。
見えないが、存在は確かだ。
佐伯は息を整えようとする。
しかし、眼前の壁に浮かぶ文字が揺れるたび、背筋に鋭い寒気が走る。
五感のすべてが、現実と幻覚の境界を揺さぶられていた。
――そして気づく。
もしかすると、黒封筒の影は、単に被害者に届くだけではない。
自分のように、記事を書く者にも忍び寄るのかもしれない、と。
背後から、再び足音が響く。
音は確かに、佐伯の呼吸や心拍に合わせて近づくように、廊下を進んでくる。
傘の影は、窓の反射の中で、ゆっくりとこちらを向いていた。
佐伯はタバコを握り締め、唇を震わせる。
雨に濡れた夜の街を思い出す。
あの時、あの学生が封筒を手にした瞬間の、恐怖と好奇心の混ざった表情。
その目が、今、自分に向けられている気がした。
そして、廊下の向こうで、三度――等間隔のノックが鳴った。
佐伯は固まる。
(……俺の記事が呼んだのか? それとも、最初から俺だったのか?)
背後にはもう、何もいない。
しかし、空気はまだ重く、冷たく、そして確実に生きているかのように息づいていた。
雨はまた、窓の外で静かに降り始める。
佐伯はタバコを吸い、震える手でブログを開く。
画面には、先ほど書いた文章が、どこか生き物のように揺れているかのようだった。
――終幕の余韻として。
