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坂口杏里の動画に「お母さんが天国で泣いているよ」とコメントする人の正体――他人を裁いて“自分はまとも”を確認する人たち

坂口杏里の動画を見ていると、不思議なコメントがある。

「お母さんが天国で泣いているよ」

人生がうまくいっていないように見える。

仕事がうまくいっていない。
お金に困っている。
恋愛や家庭で問題を抱えている。
過去のイメージから大きく変わってしまった。

そんな動画に、

「お母さんが天国で泣いているよ」

と書き込む。

……なぜ?

本当に心配しているのだろうか。

もちろん、そういう人もいるだろう。

しかし、この言葉を少し分解してみると、単なる心配では説明しきれないものが見えてくる。

そこには、

「あなたの人生は間違っている」

という強烈な道徳的評価がある。

しかも、その評価を自分自身の言葉としてではなく、

亡くなった母親の気持ちを代弁する形で伝えている。

これが非常に興味深い。


「お前はダメだ」と言えば、ただの悪口になる

もしコメントが、

「お前はダメな人間だ」

だったらどうだろう。

当然、ただの悪口に見える。

「人生失敗してるね」

でも同じ。

「親不孝だ」

なら、さらに攻撃的だ。

ところが、

「お母さんが天国で泣いているよ」

になると、急に雰囲気が変わる。

まるで、

「あなたを責めたいんじゃない」

「あなたのお母さんの気持ちを心配している」

という顔ができる。

しかし、言葉の意味を翻訳してみれば、

「あなたの現在の生き方は、亡くなった母親が悲しむほど間違っている」

ということになる。

かなり強烈だ。

しかも、その「間違っている」という判定をしているのは誰なのか。

コメントを書いた本人だ。

つまり、

他人の人生を勝手に採点し、その採点結果を故人の感情として提示している。


なぜ「天国のお母さん」を使うのか

ここには、人間の心理を利用した非常に強い構造がある。

親という存在は、道徳と結びつきやすい。

「親孝行」

「親不孝」

「親を泣かせる」

「親に心配をかける」

子どもの頃から、こうした言葉を聞いて育つ。

だから、

「お母さんが悲しんでいる」

という言葉は、大人になっても刺さりやすい。

しかも「天国」という設定が加わる。

すると、

「私はあなたを批判している」

ではなく、

「亡くなったお母さんがあなたを見て悲しんでいる」

という物語になる。

本人にとって大切な存在を、説教の舞台に連れてくる。

これは非常に強い。


そして、故人は反論できない

さらに厄介なのがここだ。

亡くなった人は、

「私はそんなこと言ってない」

と反論できない。

だから第三者は、

「お母さんならきっと悲しんでいる」

と言えてしまう。

もちろん、本当にそうかどうかは誰にも分からない。

親子関係だって、外から見えるほど単純ではない。

それでも、

「天国のお母さん」

を持ち出した瞬間、その言葉には妙な権威が生まれる。

本人が、

「母はそんなふうに思わない」

と言っても、

「いや、天国から見たら悲しいよ」

と返せてしまう。

つまり、

反論不能な故人を、自分の道徳的主張の“代理人”にできる。

これは強い。

そして、かなり危うい。


では、こういうコメントを書く人は「うだつが上がらない」のか?

ここは少し慎重に考えたい。

コメントひとつだけで、

「この人は仕事ができない」

「人生が不幸だ」

「社会的に成功していない」

と断定することはできない。

ただし、

「自分の人生で得られていない優越感を、他人への道徳的批判で補っている」

という心理は十分に考えられる。

ここがポイントだ。

「うだつが上がらない人」という人格そのものを決めつける必要はない。

もっと本質的なのは、

自分自身の価値を積み上げるのではなく、他人を下げることで相対的に自分の位置を上げる心理

だ。

これは誰にでも起こり得る。


「私は成功している」より「私はあの人よりマシ」のほうが簡単

自己肯定感というのは、本来なら自分自身の中に作っていくものだ。

仕事で成果を出す。

何かを学ぶ。

誰かに感謝される。

創作する。

人間関係を大切にする。

昨日より少し成長する。

こういうことには時間がかかる。

ところが、

他人を見下すのは一瞬でできる。

「あの人よりはマシ」

「自分ならあんなことはしない」

「あんな人生にはなりたくない」

これだけで、一瞬だけ自分の位置が上がったように感じられる。

自分は何も変わっていない。

何も達成していない。

それでも、

比較対象が下に落ちれば、自分が上がったように錯覚できる。

これは非常に効率のいい自己肯定感だ。

だから危険でもある。


「正義」は優越感を隠すのに便利な包装紙

さらに面白いのは、これが「正義」と結びつくことだ。

普通の悪口なら、自分でも、

「ちょっと言い過ぎたかな」

と思う。

ところが、

「本人のためを思って」

「お母さんが悲しんでいる」

「ちゃんとした人生を送ってほしい」

と言えばどうだろう。

自分を善人側に置ける。

攻撃しているのに、

「私は心配しているだけ」

と思える。

嫉妬しているのに、

「本人のためを思っている」

と思える。

見下しているのに、

「社会常識を教えている」

と思える。

ここに人間心理の怖さがある。

人は、自分の攻撃性を「正義」という名前に変換できてしまう。


SNSでは「道徳的マウント」がものすごく簡単になった

昔なら、他人の人生を説教するには、本人と対面する必要があった。

今はスマホがある。

動画を見る。

コメント欄を開く。

文字を入力する。

終わり。

しかも相手の顔を見る必要もない。

相手が傷つく瞬間を見る必要もない。

だから心理的コストが低い。

さらにSNSでは、同じ価値観の人間が集まりやすい。

「そうだよね」

「本当に親不孝」

「お母さんがかわいそう」

「昔はよかった」

そんなコメントが並ぶ。

すると、自分の感覚が社会全体の正義であるように錯覚する。

「みんな怒っている。だから私は正しい」

となる。

こうして個人的な感情が、

「世間の声」

へと変換されていく。


他人の転落は、自分の人生を一瞬だけ肯定してくれる

ここは、バイトテロにも共通している。

誰かが非常識な行動をする。

「こんな奴ありえない」

と叩く。

有名人が失敗する。

「自業自得」

と言う。

誰かの離婚を見る。

「だからあの人はダメなんだ」

と言う。

誰かの貧困を見る。

「ちゃんと働けばいいのに」

と言う。

共通しているのは、

「私はそこまで酷くない」

という感覚だ。

これは「上方比較」ではなく、下方比較による安心とも考えられる。

自分より苦しい状況にいる人を見ることで、

「自分はまだ大丈夫」

と思える。

だから他人の不幸は、ときとして非常に甘い。

本人にとっては地獄でも、

見る側には、

自分の人生を一瞬だけ肯定してくれる材料

になってしまう。


「お母さんが泣いているよ」の本当の相手は、本人ではないのかもしれない

ここまで考えると、少し皮肉な構図が見えてくる。

そのコメントは、坂口杏里さん本人に向けて書かれている。

でも心理的には、

コメントを書いている自分自身に向けている

とも考えられる。

「私は親を悲しませるような人間ではない」

「私は常識をわきまえている」

「私はちゃんと生きている」

「私はこの人よりまともだ」

つまり、他人を裁くことで、

自分のアイデンティティを確認している。

他人の人生を採点しているようで、

実は自分の人生を採点している。

そして、

「私は合格」

と自分に言い聞かせている。


本当に余裕のある人は、他人の人生をそこまで裁かない

もちろん、これは「成功者は絶対に他人を批判しない」という話ではない。

ただ、人間には一つ面白い傾向がある。

自分の人生にある程度の充実感があるとき、人は他人の人生にそこまで執着する必要がなくなる。

自分の仕事。

自分の家族。

自分の趣味。

自分の生活。

自分の未来。

そこに忙しいからだ。

逆に、自分の人生に不満が蓄積していると、

他人の人生が妙に気になる。

誰が失敗した。

誰が炎上した。

誰が離婚した。

誰が落ちぶれた。

誰が貧乏になった。

誰が嫌われた。

そして、そのたびに、

「自分はまだマシ」

と思う。

これは、人生そのものを改善しているわけではない。

ただ、

比較対象を探しているだけだ。


他人を下げても、自分の人生は1ミリも上がらない

ここが最も重要だと思う。

誰かを「落ちぶれた」と呼んでも、

自分の給料は上がらない。

誰かを「親不孝」と呼んでも、

自分の親子関係が良くなるわけではない。

誰かを「最低」と呼んでも、

自分の人格が高くなるわけではない。

それでも人間はやってしまう。

なぜなら、

心理的には「上がった気がする」からだ。

現実の順位は何も変わっていない。

でも、感情の中では少しだけ高い場所に立てる。

だから繰り返す。


「優しい人」と「優越感を持っている人」は、ときどき同じ言葉を使う

これが一番難しいところだ。

「大丈夫?」

と言う人もいる。

「お母さんが悲しんでいるよ」

と言う人もいる。

どちらも表面的には「心配」に見える。

しかし、その言葉を投げたあと、

相手が少し楽になるのか。

それとも、

相手に罪悪感を植え付けるのか。

ここには大きな違いがある。

本当に相手を心配しているなら、

「あなたはダメだ」

と証明する必要はない。

故人を召喚して、道徳的な判決を下す必要もない。

ただ、

「大丈夫?」

と言えばいい。


最後に

「お母さんが天国で泣いているよ」

というコメントを見たとき、

その人を単純に「性格が悪い」と片付けるのも簡単だ。

でも、もう一歩踏み込んで考えてみたい。

もしかすると、その人は、

自分の人生で得られなかった「自分はまともだ」という感覚を、他人を裁くことで補っているのかもしれない。

誰かを下に置けば、自分が上がったように感じる。

誰かを叱れば、自分が立派になったように感じる。

誰かを「親不孝」と呼べば、自分が「親孝行な人間」に見える。

誰かを「落ちぶれた」と呼べば、自分の人生が「まだ大丈夫」に見える。

でも、それは錯覚だ。

他人を踏みつけても、自分の人生は一歩も前に進まない。

だからこそ、

他人の人生を必死に裁いている時間は、自分自身の人生から目をそらしている時間なのかもしれない。

誰かを見下したくなったとき。

誰かの失敗を笑いたくなったとき。

誰かに説教したくなったとき。

一度だけ、自分に聞いてみる。

「私は、この人を救いたいのか。それとも、この人より上に立ちたいのか」

その答えは、案外、自分が思っているより醜いかもしれない。

そして皮肉なことに――

人を裁くことでしか「自分はまともだ」と思えないとしたら、その瞬間に一番助けを必要としているのは、裁かれている人ではなく、裁いている自分なのかもしれない。

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