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柵の向こうで蛇を踏む。/早くも家に帰れない

今年の朔太郎忌で、リーディングシアター用の戯曲を書き下ろした。
いや、正確に言うと、書き下ろしてしまった、というべきかもしれない。毎回そうだが、書いている最中は「こんなものを人前に出して大丈夫なのか」と思い、書き終わるころには「まあ、もう出すしかないか」と思う。人生だいたいそういう感じである。

で、今年の第1部のゲストが川上弘美さんだったので、ひさしぶりに『蛇を踏む』を読み返した。芥川賞受賞作。
初めて読んだときのことはわりとはっきり覚えていて、「ああ、この人もつげ義春とか好きなんだろうな」と、勝手に、しかもかなり強く、共感した。
こういうのはよくない。読者が作者に勝手に親近感を持つのは、たいてい誤読の入口である。だが、文学はだいたい誤読から始まるので、それはそれでよかったのかもしれない。

で、今回あらためて読んでみたら、「あれ、これ、自立と成長の話だったのか」と今さら気づいた。
遅い。
30年くらい遅い。
でも、30年遅れでわかる、ということもある。人間はたぶん、わかるべきときには何もわからず、どうでもよくなりかけた頃にようやく少しだけわかるようにできている。

それから、もうひとつ面白かったのは、今回わたしが書いた戯曲も、根っこのところでは、わりと似た主題を持っていたのではないか、ということだった。
いや、こんなことを書くと、いかにも「私も川上弘美の系譜に連なっております」みたいで、たいへんに厚かましいので、そういうことを言いたいのではない。ぜんぜんない。ほんとうにない。
ただ、作品のいちばん深いところにある、本人にもよく説明できない妙なねじれとか、まっすぐ話を進める気のなさとか、そういうものの配置が、あとから見ると少し似ていたのかもしれない、という程度の話である。程度の話だが、こういう「程度の話」がいちばん厄介だ。なぜなら、作家はたいてい、そういうところでしか本当のことを書いていないからだ。

当時、石原慎太郎が『蛇を踏む』を「こんなものが芥川賞の候補になるなんて」と酷評していた。
まあ、言いそうである。
そして、そういうことを言う人が必ずいる、ということもまた、文学の健康診断みたいなものなのだろうと思う。全員が「これはわかりやすくてすばらしいですね」と言い出したら、その文学はたぶんもうかなり危ない。

わたしは当時、『蛇を踏む』をとても面白いと思った。
一方で、思想的にはむしろ『河馬に噛まれる』の側に、つまり大江健三郎の側に、まだ未練がましく引っぱられてもいた。要するに、頭では古い文学にしがみつきながら、身体のほうは別のものにちゃんと反応していたのである。こういうのは、若さというより、単に分裂していただけかもしれない。
でも、その分裂の感じは嫌いではなかった。
「ポストモダン」とかいう、いま書くと少し気恥ずかしい言葉の向こうから、そのうち「ポストジェンダー」みたいなものや、まだ名前のついていない別の表現が出てくるのではないか、と、わりと本気で思っていた。
思っていた、というか、期待していた。
期待、というのは少し違うか。
そうなってくれないと困る、と感じていた、というほうが近い。世界が古いままだと、こちらの言葉も古いまま死ぬからである。

あれから30年。
ちょうど30年。
こういうとき、「光陰矢の如し」と言えば話は早いのだろうが、矢のようだったかというと、そうでもない。むしろ、鈍器のようだった。ごつごつした時間に何度も殴られながら、気がついたら30年たっていた、という感じのほうが近い。

そのころ、自分が戯曲を書く人間になるとはまったく思っていなかった。
というか、考えたこともなかった。
わたしに「戯曲を書いたらいい」と言ってくれたのは、映画監督の岡本愛彦さんくらいだった気がする。ありがたい話である。人はときどき、本人がいちばん気づいていないことを、平気で言い当てる。

それで、いまになって思う。
もしかすると、川上弘美さんがあのとき書いていたものを、わたしはようやく、ほんの少しだけ、理解できるようになったのかもしれない。
ほんの少しだけ、というのが大事で、全部わかったなどと言い出したら、それはもう理解ではなく征服である。文学はだいたい、わかったと思った瞬間に逃げる。蛇みたいに。
だからたぶん、踏んだ、と思ったときには、もう踏み外している。
そして、柵の向こうにはいつも何かいる。
いたような気がする。
いや、気のせいかもしれない。
でも、そういう気のせいを相手にしているうちに、わたしも戯曲を書くようになってしまった。


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