溶けるまで
朝、目を覚ましたときには、もう隣に彼はいなかった。
美月は枕元のスマートフォンを手に取り、時刻を確認した。
午前六時四十八分。
カーテンの隙間から入る冬の光はまだ青みを帯びていて、昨夜つけた暖房のぬくもりも、部屋の隅から少しずつ失われ始めていた。
身体を起こす。シーツのシワと、彼がいた場所に残るかすかな体温の残り香に、昨夜の肌の余韻を思い出す。
テーブルに置いてあった拓海の財布も腕時計もない。脱ぎっぱなしだった靴下も、床から消えている。
帰ったのかと思った。
けれどカーテンを少し開けると、駐車場に停めた車のランプが点いていた。
二十八歳の美月と、二十九歳の拓海。
付き合って三か月になる。
週末になると、どちらかの部屋で夜を過ごすことが増えた。まだ合鍵を渡すほどではないし、歯ブラシを置いていくほどでもない。それでも冷蔵庫には拓海が飲むビールがあり、彼が朝にコーヒーを持って出ることも、美月は知っている。
キッチンを見る。昨夜淹れておいたコーヒーが、そのまま残っていた。
忘れてる。
美月はそれを温めて水筒へ移すと、部屋着の上からコートを羽織った。
外へ出た途端、頬に冷たい空気が触れた。吐いた息が白くなる。
まだ目を覚ましきっていない住宅街には、人の気配がほとんどない。家々の屋根や植え込みには薄く霜が降り、東の空だけが、朝が来ることを知らせるように淡く明るくなっていた。
駐車場では、拓海の車だけが低いエンジン音を響かせている。フロントガラスは真っ白だった。
美月が助手席の窓を軽く叩くと、拓海が驚いてこちらを向いた。
ドアを開ける。
「どうしたの」
美月は水筒を差し出した。
「忘れ物」
「あ」
受け取った拓海が、少し申し訳なさそうに笑った。
「わざわざ持ってきてくれたの?」
「せっかく作ったから」
それだけ言って戻るつもりだった。
けれど風が吹き、美月は反射的にコートの前を押さえた。コートの隙間から、昨夜の愛撫の痕が残る鎖骨と、素肌に直に着た薄手の部屋着が覗く。
拓海の視線が、一瞬だけそこに吸い寄せられた。
「寒いでしょ。中入れば」
フロントガラスを見る。霜はまだ半分以上残っている。美月は少し迷ってから助手席へ乗った。
ドアを閉めると、冬の朝が一枚向こうへ遠ざかった。足元から暖房の風が流れてくる。冷えていた指先が、ゆっくりと温度を取り戻していく。
拓海が水筒を開けた。湯気と一緒に、コーヒーの香りが狭い車内へ広がる。
「まだかかりそう?」
「あと五分くらい」
「結構凍ってるもんね」
白かったフロントガラスの中央には、ようやく小さな透明の部分ができ始めていた。そこだけ切り取られたように、向かいの家の壁が見える。
「スクレーパー買えばいいのに」
「五分待てば済むし」
「毎朝その五分、何してるの」
拓海が水筒を少し持ち上げた。
「今日はコーヒー飲んでる」
美月は窓の外を見た。
「今日は、ね」
拓海が小さく笑った。
それからしばらく、二人とも話さなかった。
エンジンの低い振動と、デフロスターから流れる風の音。時折、水滴になった霜がガラスを細く伝っていく。
美月は車内の熱気に促されるように、コートの前をゆっくりと緩めた。ノーブラのまま羽織ってきた部屋着の生地が滑り、胸元の谷間がほんの少しだけ露わになる。
拓海が流れるような視線で、その胸元から美月の細い太ももへと目を落とした。
「その格好で出てきたの?」
「誰のコーヒー持ってきたと思ってるの」
「ありがとうございます」
素直に頭を下げたので、美月は笑った。
昨夜は同じベッドで眠り、互いの素肌を二度、貪り合った。それなのに、朝の車内で並んで座っていると、昨夜の濃厚な情事とはまた違う、ひりつくような密やかさがあった。
外へ出れば一日が始まる。
拓海は会社へ行き、美月もあと一時間ほどすれば支度を始める。それぞれ別の場所で、昨日までと変わらない一日を過ごす。今だけが、その間に挟まった余分な時間だった。
フロントガラスの霜が、また少し溶ける。
白い世界に穴が開くように、住宅街の輪郭が戻ってきた。
美月はそれを見ながら言った。
「私達って、いつまでこんな感じなんだろうね」
隣で水筒が止まった。
美月が横を見ると、拓海は少し身構えたような顔をしていた。
「何その顔」
「いや……重大な話かと思って」
美月は意味が分かって笑った。
「違うよ」
「じゃあ、こんな感じって?」
「朝になると、拓海が帰っちゃう感じ」
「ああ」
明らかに安心している。それがおかしくて、美月はまた笑った。
別に帰ってほしくないわけではない。ずっと一緒にいたいと迫るつもりもなかった。ただ昨夜まで同じ部屋で抱き合っていた人が、朝になると自分とは違う場所へ戻っていく。その繰り返しを、ふと不思議に思っただけだった。
拓海が前を向いたまま言った。
「明日は帰らないけど」
「明日も来るの?」
「駄目?」
美月は少し間を置いた。
「……別に」
その返事を聞いて、拓海はそれ以上何も言わなかった。
美月も言わない。けれど、二人の間に流れる沈黙は、さっきまでより甘く重い熱を帯び始めた。
フロントガラスの向こうには、電柱が見えるようになっていた。道路も、その先の家も見える。白い膜に閉じ込められていた二人のところへ、少しずつ朝が戻ってくる。
ふと、美月は拓海の首元に気づいた。
ネクタイが少し曲がっている。
「ちょっと」
美月は身体を寄せ、彼の胸元へ手を伸ばした。
指先で結び目を整えながら、彼がつま先から放つ若い男の体温と、かすかなタバコの匂いを吸い込む。
昨夜なら、こんな距離は何でもなかったはずなのに。車内が狭いせいなのか。朝だからなのか。
拓海の荒くなった息遣いが、美月の耳元を熱く撫でる。美月の指先がネクタイから滑り落ち、彼のワイシャツの胸元を撫でさすった。結び目はもう直っている。それでも美月の指は、離れるどころか彼の皮膚の熱を確かめるように留まっていた。
顔を上げる。
拓海が熱を帯びた瞳でこちらを見下ろしていた。
「……何」
「もう直ってる」
「分かってる」
どちらからだったのか、美月にはよく分からなかった。
引き寄せられるように顔を寄せ、唇が重なった。
触れるだけの唇。けれど昨夜の甘い記憶が一気に蘇り、お互いに小さく息を飲んだ。吐息が交じり合い、拓海の舌先が美月の下唇を割るように滑り込んでくる。
「ん……っ」
かすかな水音が狭い車内に落ちた。昨夜の続きというにはあまりにも切なく、朝の挨拶というにはあまりにも濃密。一度離れると、美月は熱くなった頬を隠すように前を向いた。
フロントガラスの端にはまだ白い霜が残っている。
「もう行けそうじゃない?」
「もうちょっと」
「見えてるよ」
「端がまだ残ってる」
拓海はそう言って、手のひらに持っていた水筒をコトンと置いた。
美月は笑う。
「遅刻するよ」
「あと一分」
「何が?」
拓海が前を見る。
「溶けるまで」
言い終える前に、拓海の手が美月の後頭部へ回っていた。指先が彼女の柔らかい髪に深く滑り込み、引き寄せられる。
二度目のキス。
今度は容赦がなかった。
「ん……あっ……拓海……っ」
拓海の熱い舌が美月の口内を深く割り割り、ひだを舐め上げ、唾液を絡め取っていく。唇が合わさるたび、ぬくもりと甘い水音が車内に満ちた。拓海の空いた手がコートの中に潜り込み、部屋着越しに美月の細い腰をぐっと引き寄せる。
指先が背中を擦り上げ、胸の膨らみの側面に触れた。
「あ……んっ……」
美月は背中を少し反らせ、彼の肩に強くしがみついた。
暖房の風。
エンジンの低い振動。
唇から、そしてコートの中に差し込まれた手から伝わる圧倒的な体温。
外の静かな冬の朝を忘れ、その数秒だけ、世界が二人の中だけで溶けて止まったように思えた。美月が息を求めて先に離れる。濡れた唇から細い唾液の糸が引き、二人の呼吸は激しく乱れていた。
何となく前を見た。
そして、美月の身体が固まった。
「……あ」
「何?」
さっきまで二人を外界から隠していた白い霜は、完全に溶け落ちていた。
透明になったフロントガラスの向こうに、朝の住宅街がはっきりと見える。
そして歩道を、一人の男性が歩いていた。
通勤途中なのだろう。コート姿で鞄を持ち、ちょうど車の前を通り過ぎていくところだった。
美月は反射的に、コートの前を合わせながら少し身体を沈めた。
「今、人いた」
拓海も慌てて前を見る。
男はもうこちらへ背を向けていた。
「見られたかな」
「分かんない」
「こっち見てなかった?」
「たぶん」
美月はもう一度フロントガラスを見る。
完全な透明だった。向かいの家も、道路も、冬の空も、鮮明に見える。
さっきまで何も見えなかったのに。
ということは当然、外からも二人の濃密なキスが丸見えだったのだ。
「もう隠れてないじゃん」
美月が真っ赤な顔で言うと、拓海もようやく自分の仕打ちに気づいたように笑った。
「ほんとだ」
「ほんとだ、じゃないよ」
そう言いながら、美月も唇の熱を噛み締めながら笑っていた。さっきまで二人だけの愛撫の場所だった車内に、すっかり朝が入り込んでいる。
もう行く時間だった。
拓海がシートベルトを締める。
美月はドアへ手をかけた。
開けた途端、冷たい空気が車内へ流れ込み、火照った皮膚を心地よく冷やす。
外へ出る。
ドアを閉めると、拓海が窓を少し下げた。
「美月」
振り返る。
「コーヒー、ありがとう」
「ちゃんと飲んでよ」
「飲む」
美月は頷いた。
いつもなら、ここで「気をつけてね」と言う。
今まで何度もそう言ってきた。なのに今朝は、違う言葉が自然に出た。
「行ってらっしゃい」
拓海が一瞬だけ黙った。
それから、少し掠れた声で笑った。
「行ってきます」
窓が閉まる。
車がゆっくりと駐車場を出ていく。
美月はコートのポケットへ両手を入れ、その後ろ姿を見送った。
朝の光を受けたフロントガラスには、もう霜は残っていなかった。
