日曜日には、また明日
日曜日 18:10
日曜日の夕方には、街から少しずつ色が抜けていく。
昼間は白く光っていた歩道も、住宅の壁も、落ちていく夕焼けの中では淡い橙色に染まり、その端からゆっくりと藍色へ変わり始めていた。
紗季はバス停のベンチに腰掛け、膝の上へバッグを置いた。
実家から自宅へ戻る、いつもの日曜日だった。
母が持たせてくれた煮物の容器が、バッグの中で少し傾いている。明日の朝は、残った煮物を弁当に詰めればいい。帰宅したら洗濯物を取り込み、シャワーを浴びて、月曜日の服を用意する。
考えるだけで、休日が終わっていく切ない音が胸の奥で響いた。
紗季は昔から、日曜日の夕方が嫌いだった。
駅前の店が早く閉まり始めること。
家々から夕食の匂いが漂うこと。
テレビ番組の音が窓の外へ漏れてくること。
何もかもが、「明日からまた働くのだ」と告げているように感じられた。
バス停の電光表示には、赤い文字が流れている。
《道路混雑のため、約十分遅れて運行しています》
紗季は小さく息を吐いた。急ぐ理由はなかった。
それでも、遅れていると分かるだけで、いつもなら少し苛立った。
「今日も遅れていますね」
聞き慣れた低い声がして、紗季は顔を上げた。
悠人が立っていた。
薄い青色のシャツに、濃いグレーのパンツ。仕事の日よりも柔らかな服を纏っている。手には小さな紙袋を下げていた。
「こんばんは」
紗季が言う。
「こんばんは」
悠人はベンチの端へ腰掛けた。二人の間には、一人分ほどの空間が残った。
半年ほど前から、日曜日のこの時間に顔を合わせるようになった。
最初は会釈だけだった。次に天気の話をした。それから、バスが遅れた日に十分ほど話した。
悠人は建築設計の仕事をしていて、日曜日には近くに住む父親の様子を見に来る。紗季が実家へ通っていることも知っている。
互いの勤め先も、住んでいる駅も知っていた。けれど、二人で会う約束をしたことは一度もなかった。
日曜日の夕方、このバス停へ来れば会える。その曖昧な関係を、どちらも急いで変えようとはしなかった。
向かいの花屋では、男性の店員が外に並べた鉢植えを一つずつ店内へ運んでいた。その隣の喫茶店には暖色の明かりが灯り、窓際の席に白いカップが二つ並んでいる。
少し先では、コインランドリーの丸い窓の中で白い衣類が回り、その向こうにある定食屋の暖簾が夕風に揺れていた。バス停の屋根には、植物園の夏季展示を知らせるポスターが貼られている。
どれも、毎週見ている景色だった。
けれど悠人が隣にいる日は、街全体が少しだけ静かに、愛おしく見えた。
「今日は何をしていたんですか」
紗季が尋ねた。
「父の家の棚を組み立てていました」
「建築家らしい休日ですね」
「市販の棚です。説明書どおりに作っただけですよ」
「それでも、お父さまは頼りにしているでしょう」
「完成したあと、棚の位置が違うと言われました」
紗季は笑った。悠人も困ったように笑う。
「紗季さんは?」
「母の買い物に付き合って、あとはずっと話を聞いていました」
「何の話を?」
「近所の人の息子さんが転職したとか、スーパーのレジが新しくなったとか」
「大切な話ですね」
「聞いている途中で何度か眠くなりました」
「それも大切なことです」
二人の会話は、いつもこんなふうだった。大きな出来事は話さない。
過去の傷も、将来の夢も、まだ知らない。
それでも、悠人の前では言葉を選び過ぎすに済んだ。紗季はバッグからハンカチを取り出した。
一緒に細長いしおりが少しだけ飛び出し、膝へ落ちる。悠人が手を伸ばし、拾い上げた。
「本を読んでいたんですか」
「実家に置いたままだったものを持ち帰ろうと思って」
しおりを受け取るとき、二人の指先が触れた。一瞬だけ。それでも紗季の指には、触れた場所が熱を帯びてしばらく残った。
「何の本ですか」
「まだ内緒です」
「どうして?」
「面白かったら、今度お貸しします」
悠人は少し驚いたように紗季を見た。
「今度があるんですね」
その言葉の意味に気づき、紗季は恥ずかしさを隠すようにしおりをバッグへ戻した。
「日曜日は、また来ますから」
「そうですね」
悠人の声が、少しだけ柔らかくなった。
バスはまだ来なかった。
蝉の声は昼間より弱く、代わりにどこかの家から風鈴の音が聞こえた。空はもう半分ほど夜になっていた。
「昔は、日曜日の夕方が嫌いでした」
紗季は道路の先を見ながら言った。
「休日が終わるから?」
「はい。明日が来るのが嫌で」
「僕もです」
「悠人さんも?」
「日曜日だけ、時計が早く進む気がしていました」
二人はしばらく黙った。目の前を自転車が通り過ぎる。花屋の照明が消え、喫茶店の窓がさらに明るく見えた。
「今はどうですか」
悠人が尋ねた。
紗季はすぐには答えなかった。
日曜日の夕方が、以前ほど嫌ではなくなったのは、いつからだろう。このバス停で悠人を見かけるようになってからか。挨拶を交わすようになってからか。名前を知った日からか。
それとも、会えなかった日曜日に、初めて寂しいと思ったときからか。
「今は、月曜日があるので」
紗季は言った。悠人がこちらを見る。
「月曜日が好きなんですか」
「好きではありません」
紗季は笑った。
「でも、日曜日の次に来るのが月曜日でよかったと思うことがあります」
「どうして?」
問いかけられ、胸の奥が少しだけ熱く苦しくなった。言ってしまえば、もう元の関係には戻れない。
けれど、日曜日は終わりのためだけにあるのではない。次の日へ進むための日でもある。
「また一週間が始まるからです」
紗季は悠人を見た。
「次の日曜日までの一週間が」
悠人は何も言わなかった。ただ、彼の深い視線が、いつもより長く紗季の唇と瞳の上に残った。
遠くでバスの重いエンジン音が聞こえた。角を曲がり、行き先表示を光らせた車体が近づいてくる。
紗季は少しだけ残念に思った。
十分も遅れていたはずなのに、待ち時間は短すぎた。バスが停留所へ滑り込み、ぷしゅと音を立てて扉が開いた。
車内は混んでいた。空いている座席は一つだけだった。
「どうぞ」
悠人に促され、紗季は窓側の席へ座った。悠人はその真前に立ち、上にある吊り革を握る。
バスがゆっくり動き出すと、彼の大きな身体がわずかに揺れた。ブレーキのたびに、彼のスラックスの裾が紗季の膝元へかすかに触れ、離れる。
紗季が見上げ、悠人もすぐ下で見つめ返す。車内を流れる夕暮れの橙色の光が、彼の鋭い鼻筋と首筋を浮き彫りにしていた。
窓の外を街の景色が流ていく。それぞれの場所で、それぞれの夜が続いている。
二人は、理由もなく静かに笑った。
悠人が降りる停留所は、紗季より三つ手前だった。降車ボタンがピンと鳴り、赤く光る。
バスが止まり、悠人は混み合うステップを踏んで扉へ向かった。けれど降りる直前、彼は振り返った。
「紗季さん」
「はい」
「また明日」
紗季は一瞬、言葉の意味を考えた。二人が会うのは日曜日だけだ。明日、会う約束はない。それでも、その言葉が間違いだとは思わなかった。
明日から始まる一週間のどこかにも、二人の時間は確かに続いている。
「また明日」
紗季も微笑んで答えた。悠人は小さく手を上げ、バスを降りた。窓越しに彼の佇む姿が遠ざかる。
紗季は振り返り続けた。
交差点を曲がり、姿が見えなくなるまで。
その夜、帰宅した紗季は、母から持たされた煮物を冷蔵庫へ入れた。シャワーを浴び、月曜日に着るブラウスをハンガーへ掛ける。
以前なら、日曜の夜に翌日の服を用意する時間が嫌いだった。いまは少し違う。
スマートフォンが低く震えた。悠人からだった。
《今日は、バスがもう少し遅れてもよかったですね》
紗季はベッドの端へ座った。
《私もそう思いました》
送信すると、すぐに次のメッセージが届いた。
《今度の日曜日は、バス停で待つ前に少し歩きませんか》
紗季は笑った。
《はい。また明日》
送信してから、その言葉が深く心に馴染んだ。会えない日も、次に会う日へ続いている。
日曜日は、もう一週間の終わりではなかった。
四週間後 日曜日 18:10
バス停には、悠人が先に来ていた。
ベンチから立ち上がり、遠くから歩いてくる紗季へ穏やかに手を振る。
付き合い始めてから、四度目の日曜日だった。あの日の翌週、二人は駅前の喫茶店で互いの気持ちを確かめた。
悠人は慎重に言葉を選び、紗季はその途中で、我慢できずに「はい」と答えたのだった。
恋人になったあとも、二人はまだ互いを「さん」と呼んでいる。キスもしていない。手さえ、まだつないだことがなかった。
紗季は悠人の隣へ腰掛けた。
以前は一人分空いていた距離が、今は肩と腕が触れそうなほど狭い。薄い服越しに伝わる彼の体温が、紗季の皮膚を緊張させた。
電光表示には、また遅延の文字が流れていた。
「今日も十分遅れです」
悠人が言う。
「よかったですね」
紗季が答えると、二人は顔を見合わせて笑った。しばらくして、悠人の大きな手がベンチの上でわずかに動いた。
触れそうで触れない位置に止まり、微かに震えている。
「紗季さん」
「はい」
「手をつないでもいいですか」
彼の声は、初めて話しかけてきた日より深く、緊張でかすれていた。紗季は言葉で答える代わりに、自分の右手を悠人の大きな手の上へそっと重ねた。
夕風の中で、指と指の間を探るように、ゆっくりと深く滑り込ませていく。互いの指が複雑に絡み合い、手のひらがぴったりと合わさった。
悠人の掌は、夕方の空気よりもずっと熱く、微かに汗ばんでいた。指先からダイレクトに伝わってくる脈動の早さに、紗季の胸も強く打ち震える。
互いの顔を見られず、二人は正面を向いたまま、かたく繋いだ手だけに全神経を集中させていた。吸い付くような肌の感触と体温が、言葉以上の濃厚な熱となって全身を駆け巡る。
やがてバスが近づいてきた。だが悠人は立ち上がらなかった。紗季も動かなかった。
二人の前でプシューと扉が開き、運転手がこちらを見る。
誰も乗らないと分かると、扉は再び閉じた。バスが走り去る。赤い尾灯が小さくなっていった。
「乗らなくてよかったんですか」
悠人が尋ねた。
「次がありますから」
紗季は立ち上がった。
繋いだ手は、どちらからも解こうとせず、かたく組み合わされたままだった。
「今日は歩きませんか」
「遠回りになりますよ」
「今日は急いでいません」
二人はバス停を離れた。繋いだ手を歩幅に合わせて揺らしながら。
花屋の前を通り、喫茶店の明かりを横目に見ながら歩く。
コインランドリーでは白いシーツが回り、定食屋からは芳しい出汁の匂いが流れていた。
植物園のポスターが風に揺れ、駅へ続く道の先には夜の灯りがともっている。
どこにでもある街だった。
どこにでもある日曜日だった。
それでも、指先から絡み合う肌の温度が、その一日を、これからの人生を、特別で甘やかなものへ変えていた。
恋は、特別な曜日にだけ始まるものではない。
月曜日から日曜日まで。
ありふれた毎日のどこかで静かに生まれ、そしてまた、新しい月曜日へ続いていく。
