ささしまライブ駅で降りるはず
金曜日 22:17
「私、あおなみ線だから」
名古屋駅へ向かう人の流れの中で、美咲が言った。
「じゃあ、駅まで行くよ」
悠人が答えると、美咲は少しだけ眉を上げた。
「そっちじゃないでしょ?」
「途中までは一緒だから」
「まあ、いいけど」
二人は並んで歩き出した。二十三歳の悠人と、二十四歳の美咲。仕事で付き合いのある会社同士の若手が集まった飲み会で、まともに話したのは今夜が初めてだった。
最初は六人いた。二軒目で四人になり、店を出るころには、それぞれ帰る方向に分かれていた。残ったのが二人だったのだ。
酔っているというほどではない。ただ、普段なら聞かないような話をするには、少しだけ都合のいい量の酒が残っていた。
仕事の愚痴。最近買ったもの。休日に何をしているか。そんな話をしているうちに、名古屋駅へ着いた。
「ていうか、あおなみ線ってどこ?」
「こっち」
美咲が迷いなく歩いていく。悠人もついていった。人の流れから少し外れ、案内表示を追いながら歩く。
「遠くない?」
「ちょっと面倒なんだよね、名駅の乗り換え」
「毎日これ?」
「毎日」
「俺だったら嫌になるわ」
「慣れるよ」
そう言って、美咲は笑った。悠人も笑った。
美咲は改札までの距離が、今日はそれほど長く感じなかった。むしろ案内表示に「あおなみ線」の文字が現れるたび、話せる時間が少なくなっていくような気がした。
やがて改札が見えた。
美咲が足を止める。
「じゃあ、ここで」
「ああ」
「今日はありがと」
「こっちこそ」
それだけだった。美咲がICカードを取り出す。
悠人は改札の向こうを見て、それから美咲を見る。
「あのさ」
「ん?」
「次の駅まで乗ろうかな」
「ささしまライブ駅まで? なんで?」
美咲は笑っていた。警戒した様子ではない。だから悠人も、変な理由を作るのをやめた。
「もうちょっと話したいから」
美咲が一度だけ瞬きをして、改札の向こうを見た。
「一駅だよ?」
「一駅でいいよ」
「二分くらいだけど」
「短いな」
「だから言ってるじゃん」
美咲は笑った。
「まあ、いいけど」
悠人もICカードを取り出した。
金城ふ頭行きの車内は、金曜の夜だからか空いている。二人はドアの近くに並んで立った。発車すると、名古屋駅の明かりがゆっくりと動き始めた。
高層ビルの窓。ホームの照明。いくつもの線路。
窓の外に重なっていた光が、列車が速度を上げるにつれて後ろへ流れていく。
「で、さっきの話だけど」
美咲が言った。
「何だっけ」
「後輩に告白された話」
「ああ」
「返事したの?」
「してない」
「なんで?」
「好きじゃないから」
「じゃあ断ればいいじゃん」
「同じ部署だから面倒なの」
「なるほどね」
列車が速度を落とすと、窓の向こうに新しいビル群の明かりが近づいてきた。名駅の高層ビルほど密集してはいない。再開発された街の灯りが、夜の空間に少し広く散らばって見え、アナウンスが流れる。
ささしまライブ。
悠人が窓の外を見る。
「着いたよ」
美咲が言った。
「早いな」
「だから一駅だって」
名古屋駅からささしまライブ駅までは0.8キロ、所要時間は約2分しかない。
列車が止まり、扉が開く。
冷たい夜気が少しだけ車内へ入ってきた。
悠人はホームを見た。
「……話、途中なんだけど」
美咲が吹き出した。
「降りるんじゃなかったの?」
「途中だから」
「じゃあ次まで?」
悠人が美咲を見る。
「いいの?」
「別に」
扉が閉まり、二人はそのまま座っていた。
ささしまライブ駅を出ると、窓の外の景色が少しずつ変わった。名古屋駅周辺の密集した明かりが後ろへ遠ざかる。
線路沿いの建物。
暗い屋根。
ところどころに残る工場や倉庫の灯り。
遠くにはまだ名古屋駅の高層ビルが見えていた。
さっきまで二人がいた場所が、もう景色になっている。
「悠人くんって彼女いないの?」
突然、美咲が聞いた。
「いないよ」
「ほんとに?」
「なんで疑うんだよ」
「なんとなく」
「美咲さんは?」
「いない」
「ほんとに?」
「真似すんな」
笑ったところで、小本に着いた。
扉が開く。
二人とも動かなかった。
扉が閉まる。
「……あれ?」
美咲が言った。
「何?」
「次までじゃなかった?」
悠人は窓の外を見た。
「もう一駅」
「また?」
「だめ?」
美咲は少しだけ呆れた顔をした。
でも、
「別にいいけど」
と言った。
列車が再び動き出した。
小本から先へ進むにつれ、名古屋駅の存在感が少しずつ薄れていった。
高い位置を走る車窓の下に、夜の住宅や道路が見える。
信号待ちの車。コンビニの白い明かり。暗い家々の窓。ときどき別の線路が寄り添い、また離れていく。
悠人は窓を見るふりをしながら、ガラスに映る美咲を見た。
彼女も外を見ていた。
黒い窓に二人の顔が並んでいる。
直接見るより、少しだけ近く見えた。
「何見てるの?」
「外」
「なんもないじゃん」
「あるよ」
「何?」
悠人は少し考えた。
「名古屋」
「雑」
美咲が笑い、悠人も笑った。
荒子に着き、また扉が開いた。今度は美咲も何も言わなかった。二人とも降りなかった。
荒子を出たころには、会話の間に沈黙が混じるようになっていた。気まずい沈黙ではなかった。窓の外を見て、思いついたら話す。
話が途切れたら、また夜景を見る。それでよかった。
「今日さ」
美咲が言った。
「うん」
「最初、悠人くん苦手だと思った」
「マジで?」
「うん」
「なんで?」
「喋りすぎ」
「ひどくない?」
「飲み会始まったとき、ずっと喋ってたじゃん」
「緊張すると喋るんだよ」
「え」
美咲がこちらを向いた。
「緊張するんだ」
「するよ」
「しなさそう」
「どういう人間だと思ってんの」
「なんか、人生全部ノリで乗り切ってそう」
「最悪だな」
美咲が笑い、悠人も笑った。
「でも」
美咲が続ける。
「途中から普通だった」
「褒めてる?」
「一応」
列車が南荒子へ滑り込んだ。名駅から南荒子までは約9分。そこまで来れば、最初に言った「一駅だけ」はとっくに過ぎている。
扉が開いた。悠人はホームを見た。
さすがにそろそろ帰らないとな、と思った。
「俺、ここで降りようかな」
「え?」
今度は美咲がそう言った。悠人が振り返る。
「いや、さすがに来すぎたし」
「でも」
美咲は窓の外を見た。
「話、途中じゃなかった?」
悠人は何も言わなかった。美咲もこちらを見ない。
ホームでは数人が乗り降りしていた。
発車を知らせる音が鳴る。
「……途中だった」
悠人が言った。
「じゃあ」
美咲が少し笑った。
「もう一駅」
扉が閉まった。
南荒子を出ると、二人はもう笑っていた。
「これ、何回目?」
「何が?」
「もう一駅」
「知らない」
「最初ささしまライブ駅で降りるって言ってたよね?」
「そうだっけ」
「言った」
「記憶にないな」
「まだ酔ってんの?」
「たぶん」
「弱」
列車は夜の街を進んでいく。名古屋駅を出たときには遠くまで連なっていた都会の明かりは、もう背後にある。
窓の下には幹線道路が伸び、車のライトが白と赤の線になって流れていた。
暗い住宅街。駐車場。街灯に照らされた小さな公園。美咲にとっては、いつもの帰り道だった。悠人にとっては、初めて見る景色だった。
その二つが同じ窓の中を流れていた。
「ていうか」
美咲が言った。
「帰りどうするの?」
「反対の乗ればいいでしょ」
「名駅まで?」
「うん」
「めんどくさ」
「美咲さんが言うなよ。毎日乗ってるんだろ」
「私は家に帰ってるの。悠人くんは意味なく往復するの」
「意味はあるよ」
「何?」
悠人は答えようとした。でも、うまい言葉が見つからなかった。
だから、
「話の続き」
と言った。
美咲は一瞬黙った。
「……そっか」
それだけだった。
中島のホームが近づいてきた。
「私、ここ」
「うん」
列車が止まり、二人で降りた。
ホームに立つと、車内より空気が冷たかった。
金城ふ頭行きの列車が扉を閉める。
走り出した車両の明かりが、夜の向こうへ小さくなっていった。
二人は並んで階段を降りた。改札の前まで来ると、美咲が振り返った。
「じゃあ」
「うん」
「ちゃんと帰れる?」
「子どもじゃないんだから」
「名駅方面、反対だからね」
「それくらい分かる」
「ほんとかな」
「信用なさすぎだろ」
二人で笑った。
悠人も美咲と一緒にICカードを改札へかざした。
電子音が二度、続けて鳴る。
駅の外へ出ると、美咲が足を止めた。
「今日は楽しかった」
悠人は少しだけ驚いた。それは飲み会のことなのか、名駅まで歩いたことなのか。それとも、降りる駅を何度も先延ばしにした、あの時間のことなのか。
聞かなかった。
「俺も」
美咲が歩き出す。
数歩進んだところで、振り返った。
「今度飲むとき」
「うん」
「最初から普通に喋ってよ」
悠人は笑った。
「努力します」
「じゃあね」
今度こそ、美咲は歩いていった。悠人はその後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
それから踵を返し、さっき出たばかりの改札へ戻る。
もう一度ICカードをかざすと、同じ様に電子音が鳴った。
今度は一人で、名駅方面のホームへ向かう。
電車が来るまで、少し時間がある。
ポケットからスマートフォンを取り出した。美咲との連絡先は、さっき飲み会の最中に交換していた。
メッセージを開き、何か打とうとしてやめた。
まだいいかと思った。
今夜はもう、十分話した。
ホームの向こうには、さっきまで二人で眺めていた夜の街が続いている。
ささしまライブ駅で降りるはずだった。たった一駅だけのつもりだった。
それなのに、気づけば五駅先まで来ている。
悠人は一人で笑った。
次に会う理由くらいは、もう一駅ぶん残っている気がした。
