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教えていただけなのに

最初に彼女を教えたとき、正直なところ、三か月もつかないと思った。

「だから、そこじゃないって」

「あ……すみません」

「昨日も説明したよね」

「はい」

「メモは?」

「あります」

彼女は慌ててデスクの上を探し始めた。

手帳を開き、付箋だらけのページを何枚かめくって、ようやく目的の場所を見つける。

「あ、これです」

「書いてあるじゃん」

「書いてありますね」

「じゃあ、なんで聞いたの」

「……なんででしょう」

思わずため息が出た。彼女は申し訳なさそうに肩を縮める。

「すみません」

「いや、怒ってるわけじゃないから」

怒っていた。

三十八歳。

入社して十六年になる。係長になってからは、自分の仕事だけでなく後輩の指導も任されるようになった。

妻と結婚して十二年。小学生の子どもが一人いる。家庭にも仕事にも、大きな不満はなかった。

だから三十二歳の彼女が異動してきたときも、最初は単なる教育対象の一人だった。

ただ、要領が悪かった。一つずつ説明すればできる。ところが三つまとめて頼むと、なぜか一つ抜ける。

メモは取る。それも大量に取る。そのくせ、そのメモをどこに書いたのか分からなくなる。優先順位をつけるのも苦手で、急ぎの仕事を渡したはずなのに、気づけば明日でもいい書類を一生懸命作っている。

「そっちは後でいいから」

「あっ」

「先にこっち」

「はい」

「分からなくなったら勝手に進めないで聞いて」

「分かりました」

十分後。

彼女がやってくる。

「先輩」

「何」

「分からなくなりました」

あまりにも素直なので、怒る気が失せた。

「……どこ」

「ここです」

椅子を寄せて、噛み砕いて説明する。

「ああ、そういうことか」

彼女の顔がぱっと明るくなる。

「分かりました」

「本当に?」

「たぶん」

「たぶんじゃ困る」

「じゃあ、八割」

「減ったじゃねえか」

彼女が笑った。俺も少し笑った。そんなことが増えていった。


ある朝、彼女がこちらへ小走りでやってきた。

「先輩」

また何かやったのかと思った。

「今度は何」

「できました」

「何が」

「昨日のやつです」

書類を差し出される。確認すると、今回は間違っていなかった。

「できてるじゃん」

「ですよね?」

「うん」

「一人でやりました」

妙に誇らしげだった。

「それくらいで報告しなくていいよ」

「だって昨日、次は一人でやってって言ったじゃないですか」

「言ったけど」

「だから報告です」

「はいはい」

彼女は満足そうに自分の席へ戻っていった。子犬みたいだな、と思った。褒められたくて、できたものを咥えて持ってくる。

その程度だった。ところが彼女は、それからも来た。

「先輩、できました」

「はい」

「今日ノーミスです」

「まだ午前中だけどな」

「今のところノーミスです」

「午後も頑張ってください」

「冷たいなあ」

毎日のように何かを報告しに来る。

できた。分からない。失敗した。助けてほしい。

最初は鬱陶しかった。それがいつからか、気にならなくなった。彼女の足音が近づいてくれば、また来たなと思う。仕事の手を止めることにも慣れた。


そしてある日。

彼女が来なかった。午前中、一度も。

仕事ができるようになったなら喜ぶべきだった。

静かでいい。自分の仕事に集中できる。なのに昼前になって、俺は彼女の席を見た。

いない。

少し離れたところで、別の先輩に書類を見せていた。

「なるほど。ありがとうございます」

彼女が笑っている。それを見て、なぜか面白くなかった。自分でも意味が分からなかった。

俺の仕事じゃないか。誰に聞いたっていい。むしろ一人の先輩だけを頼る方がよくない。

そう思っていると、彼女が戻ってきた。

「先輩」

「何」

「機嫌悪いです?」

「別に」

「悪いですよね」

「悪くないよ」

「嘘」

彼女が俺の顔を覗き込む。

「朝から三回ため息ついてます」

思わず彼女を見る。

「数えてたの?」

「たまたまです」

「気持ち悪いな」

「ひどい」

笑いながら去っていく。俺はしばらく彼女の背中を見ていた。見ていたのは、自分だけではなかったらしい。


その日から、少しずつ何かがおかしくなった。彼女が来れば嬉しい。来なければ気になる。

仕事を教えているだけだったはずなのに、彼女の表情を見るようになった。

今日は元気がない。今日は機嫌がいい。髪を切った。ネイルの色が変わった。

そんなことまで目に入る。

妻のネイルが何色だったかと聞かれても、たぶん答えられない。そのことに気づいたとき、一瞬だけ嫌な感じがした。

ある日の夕方、デスクで書類の確認をしていると、彼女が椅子を滑らせて隣へやってきた。

「先輩……痛いんです」

「何が」

「家で足をぶつけちゃって。湿布貼ってるんですけど、なんか腫れてる気がして」

彼女は周囲に他の社員がいないかを確認してから、デスクの陰でタイトスカートの裾を少しだけ持ち上げた。

「見てください」

ストッキングを脱いだ生足が覗く。

細い足首の上に、うっすらと赤い痕が残っていた。普段はスーツに隠されている白い素肌が、オフィスの照明の下で生々しく浮かび上がる。

「……大したことなさそうだけどな」

俺は目を逸らしながら答えた。触れることはしなかった。触れてはいけない気がした。

「冷たいなあ。心配してくれてもいいのに」

彼女はスカートの裾を戻し、少し不満そうに自分のデスクへ戻っていった。ただ足を見せられただけだ。

それだけの日常の一幕のはずだった。

だが、一度目にしてしまった彼女の素足の白さが、残業中の俺の頭から離れなくなった。

まだ何もしていない。後輩の面倒を見ているだけだ。

そう自分に言い聞かせていた。


彼女が大きなミスをしたのは、それからしばらくしてだった。取引先へ送る資料を間違えた。

致命的なものではなかったが、その日のうちに訂正しなければならない。

「すみません」

彼女の顔から、いつもの明るさが消えていた。

「謝るのは後。まず直すよ」

「はい」

二人で残った。確認して、直して、もう一度確認する。九時を過ぎた頃、ようやく終わった。

「送った?」

「送りました」

「先方に電話は?」

「しました。遅い時間までありがとうございますって、逆に心配されました」

「OK、じゃあ終わり」

彼女は椅子の背もたれへ身体を預けた。

「……疲れた」

「俺も」

「私のせいですよね」

「まあ、半分……いや……四分の三くらいは」

「ほぼ私じゃないですか」

「分かってんじゃん」

彼女が笑った。その笑顔を見て、少し安心した。


会社を出る。

駅へ向かう途中で、彼女が言った。

「お腹空きません?」

「空いた」

「ですよね」

「あのトラブル対応のせいだけどな」

「まだ言う」

駅前の店へ入った。本当に、それだけのつもりだった。残業させた後輩と飯を食う。それくらいなら何度もあった。

ビールを一杯だけ頼んだ。彼女はウーロン茶だった。

仕事以外の話で、映画や最近買った家具の話をした。休みの日は昼まで寝てしまうこと。実家から大量の野菜が送られてきて困っていること。

会社ではあれほど頼りないのに、仕事以外の彼女は思っていたより普通だった。いや、普通というより、よく喋った。よく笑った。

「なんか意外だな」

「何がです?」

「もっと普段からぼんやりしてんのかと思ってた」

「失礼ですね」

「会社だといつも慌ててるから」

「会社が難しいんですよ」

「会社が?」

「みんな一度にいろいろやりすぎなんです」

思わず笑った。

「会社ってそういうところだから」

「だから向いてないのかも」

彼女も笑った。でも、その笑い方が少しだけ寂しかった。

「私、迷惑ですよね」

俺はビールを置いた。

「誰が言ったの」

「誰も言わないです」

「じゃあ勝手に決めるなよ」

「でも分かります」

彼女はグラスの氷をストローで動かした。

「みんなが普通にできること、私だけ時間かかったりするし」

何と言えばいいか分からなかった。できているとは言えない。実際、できていない。

だから俺は、

「最初よりはマシ」

と言った。彼女が顔を上げる。

「それ褒めてます?」

「かなり」

「もっと分かりやすく褒めてくださいよ」

「調子乗るから嫌だ」

「けち」

また笑った。その顔を見ながら思った。

……可愛いな。

そう思った瞬間、自分の中で何かが一段ずれた。


それから、仕事の後に二人で食事をすることが増えた。最初は残業のあと。次は相談があると言われたから。その次は、彼女が仕事を一つ覚えた祝い。

理由はいくらでもあった。

一度くらいなら、ただの食事だった。

二度目も、まだそうだった。

三度目になると、自分でも少し怪しいと思った。

妻には、

「今日ちょっと遅くなる」

とだけ送った。嘘ではない。本当に遅くなる。

誰といるのかを書かなかっただけだった。

自分でも、ずるいと思った。


その夜も二人で飲んでいた。彼女が珍しくビールを頼んだ。

「飲めるの?」

「少しなら」

「知らなかった」

「先輩、私のこと何も知らないですよ」

冗談だった。でも、少し胸に残った。

店を出ると、夕立と言うには遅い時間の激しい雨が降っていた。路面を打ちつける雨音が夜の街に響き、冷たい風が頬をかすめる。彼女は傘を持っていなかった。

「入る?」

「いいんですか」

「駅までだろ」

一本の小さな折りたたみ傘に二人で入った。

肩が触れる。湿った夜の空気が二人を包み込み、狭い傘の下で、彼女の体温がダイレクトに伝わってきた。

あのオフィスで見せられた素足の白さや、酒の入った熱い吐息が頭の中で混ざり合う。たったそれだけなのに、妙に意識した。

これまで会社では何度も隣に座った。彼女が椅子を寄せてくることもあった。腕が触れたことだってある。

でも今は違った。

俺たちは仕事をしていない。それだけで、距離の意味が変わっていた。

「……寒いですね」

彼女が呟き、俺の腕にギュッと自分から身体を寄せてきた。薄手のブラウス越しに伝わる、柔らかく確かな肉体の温もり。

駅の明かりが見えてきた。ここで別れればいい。

「じゃあ」

そう言おうとした。彼女が立ち止まり、俺を見上げた。

傘の影の中で、彼女の瞳が濡れたように光っていた。いつもの「先輩」と言いながら子犬の様に寄ってくる顔ではなかった。

少しだけ開かれた唇から、白く甘い吐息がこぼれる。俺もたぶん、いつもの顔をしていなかった。

「あの……今日は……」

彼女が小さく言いかけた。その声は雨の音にかき消されそうなほど弱かった。脳のどこかで、冷ややかな理性が警報を鳴らしていた。

同じ部署の後輩だ。家庭がある。ここで手を出せば、間違いなく面倒なことになる。

明日からの仕事はどうする。会社での立場は。家庭はどうなる。いくつものリスクが頭をよぎり、引き返すべき理由なら山ほど思い浮かんだ。

だが、腕に触れる彼女の体温と、すがりつくような濡れた瞳を前にして、その理性は驚くほどあっけなく摩耗していった。

面倒なことになる。分かっている。それでも、俺を求めるこの熱を捨て去ることができなかった。

俺は言葉を飲み込み、彼女の声を最後まで聞かずに細い肩を抱き寄せた。


裏通りの小さなホテルに入り、部屋のドアを閉めた瞬間、溜め込まれていた熱が一気に弾けた。

湿った雨の匂いと、二人分の荒い呼吸。

「先輩……」

彼女が振り返ると同時に、俺は彼女の細い腰を引き寄せていた。濡れた傘を床に落とし、重ね合わせた唇から熱が溢れ出す。

会社で見せるドジで頼りない彼女の姿は、そこにはなかった。

俺のジャケットの襟を強く掴み、すがりつくように舌を絡めてくる。彼女の舌は熱を伴って俺の口内を蠢いた。同じ物を食べたはずなのに、彼女の舌は甘く、ねっとりとした官能の味がした。

「ん……っ」

かすかな甘い声が、静かな部屋に響く。彼女の口からそのまま舌を這わせ、首筋、耳朶までを何度も往復する。首筋を通過する度に彼女の漏らす声が聞きたくなり、口紅やファンデーションが落ちるのも構わず、繰り返した。

更に耳朶や首筋を軽く噛むと、一層彼女の声が甘くなるのを感じた。俺はすでに硬く、熱を持っている自分自身をスーツ越しに彼女に押し当てる。柔らかな臀部やスカート越しの太腿の感触に、俺自身の熱が更に熱くなる。

ベッドの上に彼女を押し倒すと、薄手のブラウスのボタンを一つずつ外していった。露出していく白く滑らかな肌。

会社ではいつもスーツを着込んでいた彼女の、隠されていた身体の曲線が露わになっていく。先日オフィスでちらりと見たあの素足が、今は惜し気もなく目の前に広がっていた。

酒の熱と雨の冷気が混ざり合い、彼女の皮膚の表面は驚くほど熱を帯びている。

「あの……私……んっ……っ」

言葉の先を遮るように、俺は彼女のうなじへ唇を押し当てた。首筋から鎖骨へ、そして繊細な身体の窪みへ。いつもオフィスで指示を出していた自分の手が、今は彼女の肌を確かめるように撫で上げていく。

その指先の動きに合わせて、彼女は小さく身悶えし、熱い息を俺の首筋に吹きかけてきた。

「あ……っ、そこ……ダメ……っ」

オフィスで「分かりました」と笑っていた時の声とは、全く違う濡れた声。彼女のタイトスカートを脱がせ、下着のラインに指を滑らせる。すでに溢れ出していた蜜が、俺の指先を熱く濡らした。

「すごい……濡れてるぞ」

「恥ずかしい……です……」

本当に恥ずかしそうに顔を覆う彼女の手を解き、指を絡め合わせる。酒なのか興奮なのか羞恥なのか、彼女の顔は真っ赤になっている。

俺はその真っ赤になった顔と濡れた目を見ながら、絡め合った彼女の指を一本一本舐めていった。

おかしなボールペンの持ち方をしている人差し指。
すらりと長い中指。
女性的な繊細さを感じる薬指。
飲み物を飲むときに立つクセがある小指。
ここまで指を攻められるのは初めてなのか、彼女の強烈な視線を感じる。

ただ、俺のもう一方の手は
彼女の内部を攻め続けており、彼女の熱と蜜はさらに高まっていく。


自分の服を脱ぎ捨て、彼女の脚を大きく開かせた。

引き締まった太ももを掴み、柔らかく湿った深みへと限界まで硬直した自分を深く押し込んでいく。

「あぁ……っ、んん……!」

貫いた瞬間、彼女は背中を反らせ、俺の首に強く腕を回してきた。締めつけるような熱い肉腔が俺を包み込み、奥深くで固く絡みつく。一度押し通すと、背徳感と快楽が混ざり合い、頭の中が真っ白になった。

先端が彼女の最奥に達しているのを感じる。ピストンをしなくても放出してしまいそうなほど、肉と蜜の密度が一体となって俺に襲いかかる。

やがて、俺か腰を動かしだすと、ベッドが軋む音に加え、二人の激しい吐息が部屋を満たしていく。

「先輩……もっと……奥まで……っ」

「……キツいな……」

腰を動かすたび、彼女の小さな悲鳴のような甘い声が耳元で跳ねた。汗ばんだ肌と肌が擦れ合い、濡れた摩擦音が部屋の中に響き渡る。

指導する側と、される側。

その立場を完全に脱ぎ捨て、ただの男と女として貪り合った。彼女の身体の深い熱に包み込まれるたび、頭のどこかで罪悪感が疼く。

妻の顔、家庭の風景、明日からのオフィス。

けれど、彼女が俺の背中に爪を立て、「先輩」と甘く掠れた声で囁くたび、その罪悪感すらも身勝手な快楽へと変わっていった。

限界まで高まった熱が弾ける直前、俺自身を引き抜く。それど同時に、彼女も大きく身体を震わせた。彼女の秘めた茂みから柔らかの曲線を描く腹部、女性的な豊かさを持つ胸部まで、大量の白濁が迸ったのはその直後だった。


抱き終えたあとも、彼女は俺の腕の中で荒い息を吐きながら、愛おしそうに俺の胸に顔をうずめていた。越えてしまえば、驚くほど薄い線だった。

ずっと手前にいるつもりだったのに、振り返れば、いくつもの小さな理由を並べながら、とっくにその線の近くまで歩いてきていたのだと思う。


次の出勤日。

会社はいつも通りだった。

電話が鳴りプリンターが動く。誰かが朝の挨拶をする。

俺もいつも通りパソコンを立ち上げた。何も変わっていない。

そう見えた。

「先輩」

声がした。顔を上げる。彼女が書類を持って立っていた。

いつもと同じだった。

「これ、分からないです」

俺は一瞬だけ彼女を見る。

「どれ」

いつもと同じように答えた。彼女が椅子を持ってくる。俺の隣へ座る。

距離も、いつもと同じだった。

「ここなんですけど」

書類を指差す。俺は説明しようとして、手を止めた。

彼女の髪から、微かにシャンプーの匂いがした。

昨日の夜、ホテルのバスルームで嗅いだ、あの匂いだった。そして、書類に添えた指。舌を指に絡めて動かす度に何度も身体を震わせていた。

昨日までなら、気づかなかった。周囲では誰もこちらを見ていない。

同僚は仕事をしている。電話が鳴る。誰かが誰かのつまらない冗談に笑う。

彼女も何事もなかったように書類を見ている。

「先輩?」

「ああ、ごめん」

俺は書類へ視線を戻した。

「ここはね」

説明を始める。彼女が頷く。昨日までと何も変わらない朝だった。

ただ、彼女の椅子が、ひどく近かった。


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