長編小説 『苔夢』 君が代の秘密 三十八
十五章・上
マチュピチュの頂にそびえる見張り小屋の周辺で、宇宙と大地が交錯する圧倒的なエネルギーの奔流を浴びながら瞑想の深淵へと入り込もうとした二人だったが、その日の精神状態では、もはやそれ以上意識を深く沈めることはできなかった。
全身の毛穴から吹き出すような異次元の波動と、高地の厳しい環境、そしてここまでの長い道のりで蓄積された肉体的な疲労が、これ以上のトランス状態への移行を静かに拒絶していたのだ。
「……ふう」
チカヒロは深く息を吐き出し、張り詰めていた意識をそっと現実の地上へと引き戻した。
無理に瞑想を続けるのをやめ、幾分リラックスしたモードに切り替えた彼は、その場に立ち上がって周囲の景色を見渡してみた。
眼下に広がるインカの段々畑、観光客たちの楽しげなざわめき、そして雲の合間から差し込む眩しいアンデスの陽光。
世界遺産の壮大な景色をぼんやりと眺めていた、
その時だった。
――視界の隅、遺跡の古い石壁が入り組む通路の向こうを、ひとりの人物が横切った。
「……え?」
チカヒロの動きが、文字通りピタリと凍りついた。
見間違いではない。今の影は、間違いなく見慣れた、しかし「絶対にここにいるはずのない」人間の後ろ姿だった。
その人物は、チカヒロが息を呑む間もなく、次の瞬間には古い石壁の陰へとスルリと身を隠し、そのまま消えてしまったのだ。
(おい、嘘だろ……? なんであいつがこんなところに……?)
脳裏に湧き上がったのは、強烈な戸惑いと、現実感を完全に喪失したような眩暈だった。
あまりの衝撃に言葉を失い、ポカンと口を開けたまま固まっているチカヒロの異変に気づき、隣に立っていたケリーが不思議そうに首をかしげた。
「……どうしたの、チカヒロ? そんなに変な顔をして」
ケリーは大きな瞳をパチパチとさせながら、心配そうな、そしてどこか茶目っ気を含んだ顔で、チカヒロの表情をのぞき込んできたのだった。
(まさか……あんなところに、あのモンタナの原住民の爺さんがいるわけないよな……)
脳裏に過った信じがたい幻影を、チカヒロは必死にかき消すように頭をブンと振った。
ペルーの秘境、天空の要塞マチュピチュの遺跡群。
北米の広大な荒野に暮らすはずのあの老人が、どうしてこんな地球の裏側の山奥にいるというのか。完全な見間違い、
あるいは旅の疲れからくる幻覚に違いなかった。
「どうかしたの? 本当に真っ青な顔をしてるけど……」
心配そうに覗き込んでくるケリーの瞳を見つめながら、チカヒロは慌てて引きつった笑みを作り、何事もないように首を横に振った。
「い、いや……! 何でもない、大丈夫だよ! ただの気のせいだったみたいだ」
そう言ってごまかすと、これ以上あの幻影について追究されないよう、チカヒロは急いでリュックサックの紐を締め直し、下山の支度を整え始めた。
太陽はすでに傾き始め、マチュピチュの山頂には冷たい夕暮れの気配が忍び寄り始めていた。
名残惜しさを残しつつも、二人は険しい石段を降り、麓へと続く下山の道を歩き出す。
不思議なものだ。あんなにも心臓をバクバクさせ、息を切らして一歩一歩を這うようにして登ってきた往路は、途方もなく長く感じられたというのに、いざ帰路につくと、世界がまるで巻き戻しかのように驚くほどスルスルと後方に流れていく。
(なんで、帰り道というものは、こうもあっという間に時間が過ぎていってしまうのだろう……)
足元で砕ける小石の音を聞きながら、チカヒロは沈みゆく夕日を背に受けて山道を下っていった。
頭の片隅には、先ほど石壁の裏へと消えていった「あの老人」の残像がこびりついたまま――。
明後日に迫った夏至という圧倒的な運命の日を前に、静寂と緊張を孕んだアンデスの夜が、音もなく二人の足元へと忍び寄っていたのだった。
