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”Bristol”「歴史文化と現代 番外編㊴~Bristol Museum~」【アイルランド ワーホリ体験記#155】

 Galway293日目


 2月14日(土)

 予定通り1時40分に起床。寝不足感はあまりありません。

 まとめておいた荷物をしょって外へ。今回は前回のKarrimorのサブザックでななく、普通であればRyanairのSmall Bagの規定を超えている、大きめの鞄で行きます。このかばんは、底の部分の収納を押し込んで圧縮できるようになっており、そうすれば、40*30*20をぎりぎり満たせることが判ったからです。

 といってもかなり危なく、実験してみないといけなかったので、今回これで挑戦です。
 このかばんならかなり容量増えるし、これで春のヨーロッパ周遊大旅行を行ければだいぶありがたい。そんな実験も含めて。


 さて、2時前にGalwayの市街を歩いたのですが、金曜日の夜ということなのか、パブも閉店しているのに遊び足りない若者たちが集団で奇声を上げ、通りを闊歩していました。
 Galwayおそろしいなおい。
 
 まあティーンエイジャーか学生くらいの年齢だと、威勢を挙げることくらいでしか自分を大きく見せれないですからね。


 そんな彼らを横目に、Coach Stationへ。

 さすがにこの時間だと乗客も少ないかと思いましたが、やはり早朝便の需要があるらしく、バスは60~70%の乗車率。
 このバスはDublin Airport直行なので、今いる人たちはアイルランドに来ていて、国に帰るか、週末から旅行に行く人たちなのでしょう。

 

 GalwayからDublin Airportは2時間半以上はかかります(てかこの時、いくつか日用品を入れ忘れたことに気付いていた。やっぱ定期的に旅しないとだめだな。感覚が鈍る)。




 バスが高規格道路に入ったあたりで私は寝てしまったようで、首のすわりを何度も変えて、質の悪い睡眠をとっていると、気付いたらDublinに入っており、Dublin Airport Terminal1に到着。格安航空はTerminal2なので、1分ほど乗って降車。

 はあ、4時半やのに人多いな。

 

 人生5回目? のダブリン空港。さっとデジタル航空券をゲートにかざしてセキュリティゲートへ。

 ここも問題なく抜けて、1時間半前にDuty Freeゾーンに入りました。

 5時やのにお店には多くの人が朝食を食べたり、コーヒーを飲んだりして過ごしていました。
 賑やか。

 私は彼らをちらと見てから、奥の奥にあるLCC(ほぼRyanair)専用の乗り場へ歩いて向かって、ゲート前で待機。


 しばらく待つと搭乗が開始され、いつも通り私は最後の方の列で通ろうとします。

 懸念事項は予想通り的中し、果たして係員は私の鞄を一瞥すると、いつも置いてあるサイズチェックの台に鞄を置けと指示してきました。

 きたか。

 私は平静を装って鞄を横にして、40*30*20にきっちり組まれた台に鞄を押し込みます。

こういうやつ。これに入らずに、€75を支払わせられている人を何度も見た(というか規定を知らなかった人たちなのだろうが)

 なんとか鞄は入り(背負うベルトははみ出ていたが。あと何回も押し込んだ)、それを見た係員はしゃあないといった表情で、いけと目でいってきました。

 まあさすがに大丈夫か。しかしともかくこれで、一回り大きい鞄でも乗れることが証明されました。

 内心ガッツポーズ。


 

 しばらく待って搭乗です。
 当然自ら飛行場に降り立って乗り込むのですが、外はまだ寒く、2月の冷風が身体に染みました。

 飛行機に乗り込むと、運よく席は窓側でした。
 離陸後ダブリンの夜景を少し眺めた後、私は眠ってしまったようでした。


 

 DublinからBristolは1時間ほど。
 気づくと機体は着陸態勢に入っており、機長のアナウンスで起きた時に外を見ると、夜明けのウェールズの景色が広がっていました。
 天気は快晴。

おそらく明るいところは、Cardiff。ブリストル海峡か

 東雲の橙色の空は美しく、しばらく見入ってしまいました。

 飛行機は次第に高度を下げ、Bristol airportへ。


 Ryanair名物のハードランディングは相変わらずです。

 ところでUKとアイルランドはCTA(Common Travel Area)内なので、入国審査はなしで、預け荷物がなければすぐに空港を出られます。

 今回もすたすた歩いて、すぐ外へ。

 バスステーションをみると、Bathいきのバスも待機していましたが、せっかくなら英国4番目の都市Bristolを見ておこうと思い、£9を払って市街いきのバスへ乗り込みます。

英国とは思えない快晴

 Bristol空港はどうやら高台にあり(どこの空港も大体はそうか)、バスは坂を下って街へ向かういくのですが、坂の上から見る都市の景観がとてもよく、旅の良さを改めて実感したのでした(好天やからやろうけど)。

 それにバスのアナウンスの英語が、アイルランドと全然違って笑いそうになりました。特にtの子音の発音がきつくて、「next stop」が来るたびに、発音すげーなおい、と思っていました。

 

 数十分後、私はTemple Mead stationで降車。

 Bristolの駅は思った以上に立派で、どうやら19世紀にテューダー様式で建てられた美しい駅舎で、当時開通したGWRの終着駅として作られたそうです(始発はロンドンのパディントン駅)。

現役の交通のハブとなる駅で、ブルネルという技師によってGWRの開通とともに竣工した
周りには教会っぽい建物も多かった
Temple Gate
Bristolの朝。交通量はそこそこ

 私はここから少し歩いて、St Mary Redcliffe Churchへ。

エリザベス1世がこの教会を訪れた際、イングランドで一番美しい教会といわしめたそうな

 入場無料でしたが、中は撮影禁止だったため、文章で。

 現在この教会が建つ場所には、サクソン人の時代からキリスト教共同体の拠点があったとされ(つまり11世紀のノルマンコンクエスト以前からあったということ)、当時からブリストルは重要な港湾都市でした。
 12世紀から15世紀にかけて現在の教会が建設され、今に至るまで様々な歴史上の人物が寄進したり、かかわりを持ったりしてきました。

 まず六角形の珍しい入口のポーチから中へ入り、振り返るとマシュー号と呼ばれる大きな帆船のレプリカが見えます。これは、イングランド王の支援を受け、ニューファンドランド島やノヴァスコシアなど、大西洋を回って北米を発見した、イタリア人航海者、カボットが乗っていたものでした。
 カボットはここブリストルから出立し、マシュー号もこの教会の近くで作られましたようです。
 カボットは1497年にヘンリー7世から公認の支援を受けて出立しました。テューダー朝の開祖であるヘンリー7世は、大航海時代において他国に競合しようと、カボットを雇用したのです。


 またこの教会はロマン主義の詩人とも大変深いかかわりがあります。現在では初期ロマン主義の詩人とされるも、当時は極貧の中17歳でヒ素をあおって自殺した早熟の天才、トーマス・チャタートンは、この教区内で生まれ、レッドクリフ教会の美しさの中で詩作に没頭したといいます。
 (浅学のため、チャタートンはこの時初めて知った。ワーズワースも評価していたらしい)。

 サミュエル・テイラー・コールリッジや、ロバート・サウジーといった詩人は、ともにここで結婚式をあげてもいます。

 祭壇には、イギリス絵画の嚆矢とされるウィリアム・ホガースのの祭壇画もあり、まさにイギリスの文化芸術の粋が集まった教会といえるでしょう。


 教会入り口の近くの展示部屋には、エリザベス1世の等身大の木彫もありました。

イギリスでも有数の壮麗なゴシック建築と称されるだけある

 教会の中はとても静かで、ステンドグラスもその明かりを部屋全体に放っていました。
 ヴォールトの天井、バシリカ式の作りで、中はゴシック教会のものでした。


 さて、ここを後にして私はさらに歩くことに。
 旧市街やカボット塔まで行って、10時頃にブリストルの博物館に入館しようという算段です。

River Aivon。運河になっていて、水上フェリーもあった
朝の散歩は気持ちいい
アイルランドとは違う街並み
Queen Square。1831年の選挙を巡る暴動で周囲が焼き払われたところ
中央に立つのはウィリアム3世の騎馬像。周囲にはかつて市長公邸などがあったが、暴動で失われたという

 空腹だったので、Subwayで軽く朝食をgrabしてから、Old Townの方へ。
 ここが予想以上によくて、St.Nicolas Marketも伝統を感じる趣でした。

少し勾配のある坂の上に、尖塔
振り返って
近代の石造りの建築沿いに、市場が準備されていた
小路もまたよかった
向こうは教会。車道に囲まれた中にある、こじんまりとした旧市街
Coverd Market
昔の荷車だろうか
尖塔も多い

 ひとしきり見て回った後、ブリストルの歴史を感じつつ、また町を登ります。Bristol、なかなか勾配がある町です(いい港町の証左)。
 私はこの時すでに、Bristolええやんと思い始めていました。

運河の主要停留所か
少し登ると、Bristol Cathedralが(まだ入場時間外だった)
中々の質量で荘厳な建物
隣りには修道院時代の門楼の遺構もあり、Bristolは現代都市という側面以上に、イングランドの歴史を体感できる場所だと気付いた
これが大聖堂のファサードか
こちらはCity Hall
GateとCathedral
かつてはこの門が主要な入口だった
現代ビル群も見える
City Hallと大聖堂

 観光客とランニングする地元民など、都市の日常を感じつつ、さらに上へ。

この坂の上にブリストル博物館がある。眼前の塔は記念碑的な塔

 上りつつ左に折れて、カボット塔へ。
 これは、先ほどのカボットのニューファンドランド島発見から400年を記念して、1897年に建てられたそうです。

公園を登って塔へ
当の麓からはブリストル遠くに広がる丘陵地帯が見渡せる
19世紀末の建造物
まだ青空
リスがそこら中にいて、観光客が餌付けしようとしていた

 いい公園で、犬の散歩をしている人もいました。

 さて、町へ戻って、Bootsで買い物をしたら、時刻は10時頃に。

Will's memorial Building
このあたりの街もいい。右手が博物館兼美術館

 10時ちょうどに入館。
 ここの1階にはまず、大英博物館にもあったアッシリアや古代エジプトの遺物が展示されていました。
 私は2階へいって(2階はMineralや恐竜などの地球史だった)、さらにその上の絵画エリアへ(他には陶磁器も多かった)。

 ラファエル前派関連の、19世紀イギリス絵画にまず出会います。

ジェームズ・ティソ『別れ』(1871年)油彩・キャンバス
新古典主義とされるフランスの画家による作品。はさみと手すりは、離別の象徴であるが、ツタやヒイラギは、最終的なハッピーエンドを観客に示唆するものだという。ティソはドガといった人物とも親交があり、第1回印象派展への出展も打診されていた。二人は非常にファッショナブルな格好をしている
ダンテ・ガブリエル・ロセッティ『ルイザ・ルース・ハーバートの肖像画』(1858-59)油彩パネル
1831年ブリストル生まれの女優、ルイザは舞台で成功をおさめ、ロンドンの劇場の監督も行っていた。1858年から60年にかけてはロセッティのモデルをつとめた。ロセッティは彼女を、彼が理想とする美学で描出した。ボリュームのある神、ふっくらとした頬、そして異常なほどに強調された力強い首などである
フランク・ディクシー『慈悲のない美しい淑女』(1902)油彩・キャンバス)
美しい丘陵地帯、見事に研磨された甲冑を身にまとった騎士は、兜を脱いで腕を劇的に投げ出し、並外れた体躯の馬に騎乗した女性を見上げ、身をかがめて顔を近付けてくる女性に応えようとしている。
この場面は、1819年の上梓されたロマン主義の詩人、キーツの作品から着想を得ている。ヴィクトリア朝時代、騎士道への憧憬は一般化していたが、ディクシーはさらに、ラファエル前派のロセッティが残したような、ファム・ファタール的な女性像に焦点をあてて、この絵を描いた
エドワード・バーン=ジョーンズ『庭の中庭:いばら』(1894)油彩・キャンバス
ラファエル前派創始者の一人、バーン=ジョーンズは、生涯『眠れる森の美女』の物語に魅了されていたという。6人の若い女性が、織物や水汲みの途中で突然眠りに落ちた様子を描いている。しかし狭い絵画全体の中で彼女らはまるでフリーズのように、みな異なった様相で、しかし計算され、美しく布置されている。バーン=ジョーンズは、親友のウィリアムモリスとともに、こういったフリーズのようなステンドグラスも多く残した
ジョシュア・レイノルズ卿『ハニーウッド夫人と娘』(1784年)油彩・キャンバス
第2代デヴォン伯爵の長女が、夫と移住した際に家族へ送られた二重肖像画で、デヴォンの居城に飾られていた。レイノルズのこの肖像画は当時絶賛され、母子の健全な関係を示す作品だが、多分に形式的なのは、アカデミズムの権化であるレイノルズらしい
トーマス・ゲインズバラ『アン・レイボーン』(1763)油彩・キャンバス
珍しい装飾をまとった服を着た彼女は、新婚の際に肖像画をゲインズバラに依頼し、作成されたと考えられている。ゲインズバラは肖像画家として生計を立てていたが、本当は風景画の方が得意であり、愛好していたことで知られている
トーマス・ローレンス『ウィリアム・ヘンリー公爵』(1792)油彩・キャンバス
この等身大の肖像画は、肖像主がブリストルの要職についた時に、市から、ブリストル出身である当時最高の肖像画家になっていたトーマス・ローレンスに依頼したもので、長らく市長公邸(マンションハウス)に飾られていたが、その建物自体は、1831年のブリストル暴動で焼失した。
彼は当時の貴族同様、グランドツアーを行い、イタリアやドイツと云った町を訪れていた。彼はローレンスが絵画のアカデミズムに則り肖像画を描いたことを、歓迎しただろう
ローレンスといえば、ナショナルギャラリーの『レッドボーイ』が非常に印書的だった
ジョージ・スタッブス『馬と犬 トリム』(1783)油彩・マホガニー
スタッブスは18世紀において、富裕層や馬などといった動物の絵画を、多く描いたことで有名(ナショナルギャラリーにも大型の馬の絵画がある)。これもその中の一点のように見えるが、実はこの犬の存在は、大西洋貿易で行われた、非人道的な奴隷貿易の醜さを暗示しているという
ジョン・コンスタブル『南西から見たマルバーン・ホール』(1809)油彩・キャンバス(紙)
コンスタブルは肖像画の依頼を受け、マルバーン・ホールと呼ばれる公園が見える邸宅に滞在した。彼は肖像画を描きながら糊口をしのぎ、生来風景画家であることに徹した。この習作は後に、某かによって塗り重ねられている

 イギリス絵画を見た後は、イタリアルネサンス、フランドル、そして印象派の絵画を見ていきます。

ジョヴァンニ・ベッリーニ『キリストの煉獄への降下』(1475-80)油彩・羊皮紙
輝く白い服を着たキリストが、煉獄の門へと入ろうとする姿を描いている。ベッリーニはヴェネツィア派の先駆者
ムリーリョ『この人を見よecce homo』(1660-70)油彩・キャンバス
Ecce homoは新約聖書の中で、ローマの総督ピラトが、十字架刑の直前、茨の冠をかぶせられたキリストに向かって放った言葉で、この場面は広くキリスト教美術の題材になっている。
大英博物館にも、その茨の1本という聖遺物をおさめた作品があった。
ムリーリョは17世紀スペインが世界の覇権を握った時代の画家
ヤン・ステーン『台所の室内』(1665)油彩・板絵
この絵画はおそらく台所というより、居酒屋の外側の部屋を描いていると考えられており、ハンターと思われる男性は、給仕の女性に卑猥な身振りをしている。背後にいる男はニタリと笑っている。
ヤンステーンは17世紀オランダ黄金時代の画家で、新教徒のオランダでは、アカデミズムではなく、風俗画として絵画が発達した。彼も日常画を多く残した。他に有名なフランドルの画家には、レンブラントやフェルメールがいる
ルーベンス『四福音記者』(1626)油彩・板絵
4つの福音書とは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのこと。この福音書をもとに、聖餐と呼ばれる礼拝中に、キリストの血と肉と表す、パンとブドウ酒を摂取するという最も重要な儀式が確立された。この習作は、その聖体拝領を題材にしたタペストリーの制作を、スペイン国王フェリペ2世の娘イザベルから、ルーベンスが拝領した際のものとされている。習作の中には、4人が、鷲、牛、獅子、天使といった象徴と一緒に描かれ、左右にはソロモンの柱がある。この雄大な構図がタペストリーに昇華される予定で、彼はこの構想を、イギリスフランス両国からの依頼もあるなか、こなしていたとされる
彼は芸術家としてだけではなく、あらゆる言語を操る外交官としても当時活躍していた。彼がのちの芸術家に与えた影響力は、計り知れないものだった
リュシアン・ピサロ『ラ・フレッテ』(1924)油彩・キャンバス
私たちは川下の位置から、ゆっくりと蛇行しながらこちらが向かってくる、浚渫船を見ている(※浚渫=しゅんせつ とは河川などに堆積した土砂やヘドロを、除去する工事のこと)。左岸には視界を遮る木々が繁茂し、背景の穏やか丘陵地帯は、視線と自然と明るい水面へと向けさせる。川岸の赤い屋根の建物が絵画にアクセントをくわえ、浚渫船の垂直に伸びる機構と、右岸のはっきり伸びる木の影が、絵画全体に安定感と均衡をもたらしている
リュシアン・ピサロは、印象派の画家、カミーユ・ピサロの息子で、1890年にイギリスに移住したが、その後も定期的にフランスに滞在していた。この作品も1923年末から1924年秋にかけてフランスを訪れた時のもので、ピサロは新印象派の画家として、村落の静かな情景を描いている
リュシアン・ピサロ『七面鳥』(1893)油彩・キャンバス
彼は自宅の庭園に座る若妻、エステルを描いている。印象派によって考案された、光を忠実にとらえるための「筆触分割」を用い、戸外のまばゆさを正確にとらえている。原色に近い色を斑にうつという筆触分割により、地面は紫色に近い見事な光の反射を表現している
アルフレッド・シスレー『村の入り口』(1870年代後半)油彩・キャンバス
下草が生い茂る土手の道に、二人の女性が歩いており、その奥には赤い屋根の家がある。絵画の中央には巨大な樹木がそびえたち、その背景には教会などの建物がうっすらと見えていて、全体は薄い雲がかかった青空に覆われている。少し複雑な構図と云えるが、シスレーは初夏の爽やかな雰囲気を、滑らかな筆致で伝えようとしている
シスレーは英国出身の両親のもと、パリで生まれ、生涯パリで過ごした。彼は今でこそ初期印象派の重要人物だが、存命中は絵画を売ることに非常に苦慮したことで知られている

 印象派までの絵画を見終えた後、私は中二階のようなスペースがあることを発見し、その部屋に入ると、再び絵画の部屋が広がっていました。

 どうやらここは、ブリストル生まれ、あるいはブリストルに縁のある画家を展示しているらしく、何度か回った後、何点か撮影して記録しました。
 美術学校的なものもあったようですが、正式な組織ではなく、1820年代美術運動はブリストルで盛んでしたが解散、多くの芸術家がロンドンに移住し、ブリストルとしての結束は失われてしまったようです。

ジョセフ・ウォーター『Sea Mills, Bristol』(1844)油彩・キャンバス
Sea MillはBristolとRiver Avonの河口のちょうど中間にある地点で、ローマ時代の港と18世紀の廃棄された港がある場所。後述する他のブリストルの画家の影響下にある作品
フランシス・ダービー『Sunset at Sea after Storm』(1824)油彩・キャンバス
Francis Darbyは1824年、ロイヤルアカデミーにこの作品を出展し、名声を得ることに成功した。トーマス・ローレンスはこの作品を£100で買い上げ、その値段は元の値段の二倍にあたった。絵画の下半分は非常に暗く見えづらいが、筏と船員たちが、沈む夕日を眺めているのが見える
エドワード・バード『The Departure of London』(1815)油彩・キャンバス
家族の長男の出発の、差し迫った様子を描いた一枚。彼は首都ロンドンへ職業生活のため故郷を離れ、運が良ければ人財産を築こうとしている。窓台にいる少年が、熱心に窓の外を指差して、乗り物の到着を伝えている
William West『The Israelites passing through the Wilderness, preceded by the Pillar of Light』(1845)油彩・キャンバス
イスラエル人が奴隷状態にされていたエジプトから、神の啓示によって抜け出すという、「出エジプト記」、小さく描かれたモーセの前に光の柱が現れ、神がイスラエル人たちを導いている。この時代、既にこういった壮大な宗教画を描くことは、old- fasionedなこととされており、この絵画が、ブリストルの画家達において、最後に描かれれる空想的な主題のものとなった
Samuel Colman『Sunday Morning, Going to the Church』(1832)油彩・キャンバス
Colmanとその妻は、Bedminsterの新しくできた教会の信者で、いつも礼拝にいっていた。通りには礼拝に向かう家族連れなどがおり、pavementには物乞いをする子供と母親が対比的に置かれている。彼らに施しを与える紳士は、何かを訴えるかのように教会を指差している
James Johnson『Redcliff Stree, Bristol』(1821)油彩・キャンバス
Redcliffの教会へ向かう道は狭く、時に汚く多くの宿泊所や居酒屋などが櫛比していた。小路や中庭が入り組む人口密集地帯でもあり、木造の建物とジョージアン様式の建物が混在していた中で、当時の多くの画家は活動していた

 絵画を見終え、他の部屋には磁気や、日本中国の展示もありました。

 時刻は1時間ほど経っており11時頃。
 そろそろBathへ向かいましょう。とはいえ、電車で10分なのですが。


 美術館から駅は少し距離があり少し遠いなと感じたのですが、面倒なので歩いて駅へ。

 駅につくと、私はアプリ(Trainline)で乗車券を買ってすぐに電車に乗り込みます。時刻は11時32分発。


 しかし電車はかなり混みあっており(土曜日でロンドン行きだからか、若者も多かった)、立ちに。

 まあ10分だけなのでいいでしょう。


 Bath到着後は、まずRoman Bathに訪れる予定です。


 長くなったので、とりあえずここまで。

 それでは!


 

 


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