田村正資『問いが世界をつくりだす』感想
草間彌生=水玉模様
先日、草間彌生が亡くなった日の新聞の見出しはこうだった。
「草間彌生さん死去 前衛美術家 水玉模様」
水玉模様。
亡くなった人を送るとき、こんなに不思議な言葉があるかしら。
こういう風には言えないだろうか。草間彌生は、水玉模様の新しい見え方を新たに創り出し、私たちに伝えた。もちろん、彼女が生まれる遠い昔から水玉模様はそこにあったのだろうけど、草間彌生のアートの後、水玉模様は「それ以上」になった。彼女にとってだけではなく、私たちにとって、そして世界にとっても。
画家が世界を見る過程で初めて見えるようにしたものがある。そしてそこで新たに見えるようになったものが、当の画家だけでなくその絵画を眼差す人々に世界の見方を教え、そしてさらに新たな仕方で世界を眼差す動機となっていく
錯覚と世界の見え方
この本は「知覚」の、とりわけ「視覚」を多く扱っている。そこから存在について考えるために、錯視とかだまし絵が登場する。本に直接は出てこないけれど、有名なだまし絵といえば、「あひるうさぎ」とか「老婆と女性」などいろいろある。やっぱり有名なのは「ルビンの盃」だろう。

盃(図)を見ているとき、人の横顔は背景(地)で、人の横顔にフォーカスしたときにはこれが裏返る。こういうだまし絵って、最初「別の見え方」に気付いていないときに、私たちにはそれを見ることができないのだけど、一度でも気付いてしまえば──カチリ──スイッチが切り替わったみたいに、もはや見ないという方が難しくなる。この話をちょっとずらしていくと、「水玉模様を見た時、草間彌生のアートを重ねて見てしまう」という状況にも繋がっていくのだと思う。
この本の中心的なテーマは、そうした知覚/視覚をベースに、世界が・ものがどんな風に存在しているのか、人間はそこで、どう世界と関わっているのか、ということを、哲学者メルロ=ポンティの思想を手掛かりに考えていくというもの。
全体としてはそうなんだけど、私はその中で、繰り返し現れて来る一つの構図、「自己忘却」という現象が特に気になった。そこから、哲学者ウィトゲンシュタインと、小説家ミラン・クンデラの二人を参照しながら考えを広げてみようと思う。
自己忘却
「忘却」の話は最初、メルロ=ポンティに先駆けた現象学の哲学者、フッサールの話の中で登場する。
「志向性によって捉えられた対象を極限まで理想化したものが、志向性の働きとは一切の関係なくそれ自体で存在するものだとみなされてしまう。……理想化された物体こそが、私たちの経験に先立ち、経験からまったく独立にそれ自体として存在するものだとみなす……志向性の自己忘却……」
話がいきなり難しくなった……のでちょっと後ずさりして、さっきの錯視に戻って考えてみるなら、最初に「ルビンの盃」という騙し絵を見せられたとする。「盃」ってタイトルも一緒に聞いたということにして、目に映ったものを、まあ盃とか壺のシルエットみたいかな、と認識する。
その後、「これって実は別の見方もできるんだよね!」と教えてもらい、眼を細めたり、首を傾けたりしてるうちに、「ああ、人の横顔だ!」と別の見え方を見つける。そうなった後から振り返ったとき、この絵は最初から「二つの見え方を持っただまし絵」だったと語りたくなってしまう。志向性──最初に「盃」というラベルがあったことや、「別の見え方もある」と教えてもらったこと、そして試行錯誤して別の見方を発見したプロセスは、そこで忘却される。
この話を、科学的な発見にも拡げていくと、よりシリアスな問題が見えてくる。志向性、つまりは何かしらの意図や目的をスタート地点において、それから実験や観測をして、経験し、構築してきた理論が、一度証明されてしまった後には、そうした最初の注目はすっかり忘れられ、人間が存在する以前も(たぶん滅亡した以降でさえも)不変の法則である、と語られるようになる。
これっておかしくない? というところで、フッサールは「現象学」によってこれに対抗していく、というお話。
自転車に乗れなかった頃のように
本の方はここからハードコアな存在論に入っていくのだけど、そっちは本文にお任せするとして、私はページを一気にすっとばし、中盤のウィトゲンシュタインの話にジャンプしたい。というのも、そこで述べられてる問いには、私が日々取り組んでいる「文章を書くこと」のヒントがあると思えるから。
「自転車に乗れなかったときとちょうど同じようにふらつく」ことはできますか? やろうとしても、身体は勝手にバランスを取り始めて、「実は乗れる人が乗れないふりをしている」動きになってしまう。楽器が弾けなかった頃の間違い方で間違うこと。英語に耳が慣れていない頃に聞こえていただろう「ペラペラペラ」という意味を為さない音で聴くこと。まだ横顔が見えないときの見方で騙し絵を見る事。
出来なかったことが出来るようになると、「出来なかった頃」の感覚は失われてしまう。まるで最初から、何の困難もなく可能だったみたいに思えてしまう。ちょっと哲学の言葉も置いておこう。
ア・ポステリオリに生じたものがかえってア・プリオリにあるかのように思いなされる。
ただ忘却するだけでなくて、その過程が無かったみたいに「思いなし」される、というのがここでのポイントだ。
ウィトゲンシュタインと美的判断
いい洋服の何たるかを知っているひとが仕立て屋で洋服を試すとき、どういうことを言うか。「これならぴったりした丈だ」「これは短すぎる」「これはせますぎる」コートが自分にぴったり合うとき、かれは嬉しそうな様子をするだろうが、是認のことばはいかなる役割も演じていない。
ネットや雑誌を見て、このコートめっちゃカワイイ/カッコいい! と思ったとしても、私はすぐにポチったりはしない。ユニクロとかで既にサイズ感を知っているのなら通販でもいいけど、コートは高い買い物になるし、一度は実物に袖を通してみたいな、と考えるのは私だけではないと思う。実際にお店で着てみると、引用のように、「短すぎる」「せますぎる」と、鏡をみながら細かな判断が生まれてくる。色が明るすぎるとか、襟の毛足が首にちくちくする、なんてこともある。
そんな風に次々試していって、これだ! と最後に選んだものは、最初に欲しかったものとまるで違っていたりする。私は昔、メルトンのピーコートが欲しくって、けれど着てみたらかなり重たくて、絶対肩こっちゃうな、と断念、代わりにふわっと軽いダウンコートを買うに至った。
ここでのポイント:私たちの価値判断は、最初に抱いたクリアなイメージに近づけていく、というやり方では進まない。実際に試して、「しっくりくるか/こないか」つまりはポジティブ/ネガティブの二値の判断を繰り返すことによって行われる。逆から言い換えると「しっくりくる」結論は、試す前から明確に記述は出来ず、あれこれ試行錯誤する中で初めて現われて来るということ。
評価がいかなることのうちに成り立っているのかを記述することは、難しいばかりでなく不可能である。
言葉の経巡り
古田徹也さんの『はじめてのウィトゲンシュタイン』という本を読んで、講演を聴きに行ったことがある。テーマは、「言葉の魂」。「言葉に魂が宿っている」とはどういうことなのか。
「魂」とはいってもオカルティックなものではなくて、私たちが言葉を使うときに、そこに汲み尽くせない豊かさを感じたり、言葉以上の背景を見たり、ある表現へと愛着を感じたりすることが、どのようにして起きるのかという話だ。
古田さんはそれを、同義語であったり、冗長性という側面から語り出す。あることを記述する方法は一通りではい。シンプルな例を挙げるなら「寒い」は「凍えそう」「冷える」とか様々な言い換えができる。「しばれる」なんて方言を使うことだって出来る。
逆に、一つの語が、沢山の異なる意味が持つこともある。「Order」という英単語には、お店での「オーダー」=注文だったり、「オーダー」メイド=指示、Fate Grand Orderなら(人理を修復するための聖杯探索の)「使命」の意味も出てくる。
ただしこれ、日本語訳ではばらばらの意味に見えるけど、英語話者からしてみれば、最初にOrderという語の「秩序正しさ」みたいな、意味とイメージが一体になった核があって、各々の意味はそこから派生したもの、みたいに感じるだろう。日本人が「法」という漢字からイメージの塊を受け取るみたいに。
「言葉の魂」の力を感じ、育てていくには、言葉の「経巡り」という行為が大事になる。
『ねえ、Aさんって、ひとことで言うとどんな人?』
友達のことをそんな風に訊かれて、どう言えばいいか考えていく。(優柔不断なやつ……違うな……弱弱しい……それも違う……)そんな風に表現を探していって、そうだ!「あいつはね、優しすぎるやつなんだよ」。コートの例と同じように、試行錯誤を経て「しっくりくる」表現を見つけ出す。
この話を聞いていて、私はとても嬉しくなった。なぜならそれは、小説を書いたり、短歌を作ったりする際、私が毎日のように行っていることだったから。
だけど同時に、一度文章が確定してしまえば過程は忘却されてしまう。印刷された確定稿では、「経巡り」のプロセスは消えてしまう。はじめからその表現を目指していたかのように。「この彫刻ははじめから石の中に埋まっていて、私はそれを彫り出しただけ」なんて名言も思い出す。ここでも、ア・ポステリオリからア・プリオリへの「思いなし」が働いている。
それは未規定の「可能性」を失って、言葉が死ぬこととも捉えられる。ウィトゲンシュタインの著書が少なかったのは、そうして言葉の意味が固着化されてしまうことへの恐れがあったのかもしれない、というようなことを古田さんは言っていて、これも印象的だった。
ミランクンデラと偶然の忘却
ひとたび成立してしまうと、この愛は運命のように見えるが、最初の出会いの日はまったく偶然なものだ
ミラン・クンデラの小説を読んだことがある人なら、この一節を読んだ瞬間にかれのことを思い出すだろう。須藤輝彦のクンデラ論『たまたま この世界に生まれて』は、こうした「運命と偶然」について深く論じた本だ。
偶然が内面化されることで運命へと変わりうること。またそのことに価値を置こうとする態度……
私が面白いな、と思ったことは、メルロ=ポンティとクンデラの二人ともが、この偶然と運命の関わりを、「愛と歴史」という二つを重ねて論じていること。
歴史というものもまた、それが進行しているときには偶然の渦中にあるのに、通り過ぎた後の記述を読むと、初めから決まっていた運命のように語られる。
メルロ=ポンティは、偶然性と関連する限りで捉えられた可能性を、過去のなかにはっきりと見出すことが困難でありながら、実現されたときには過去の歴史を首尾一貫したかたちで総括するような創発的なものとして捉えている。
知覚することが即ち「存在の創設」となり、同時に世界が存在するものとして「創り出される」──というのがこの本の大きな論点だ。ここでいう「創発」の営みそれ自体に、メルロ=ポンティは良し悪しを見ていないと思うのだけど、クンデラの方はそれに伴う「忘却」に対して、悲劇の音色を聴きとっているように私には思える。
『笑いと忘却の書』という小説は、ある一枚の写真ではじまる。革命の日、チェコの新たな指導者が市民に向かって語りかけている場面だ。寒い日で、同志のひとりクレメンティスが自分の帽子を指導者の頭にかぶせてやる。その演説の写真は何千万枚も焼き増しされ、教科書に乗り、ポスターでも繰り返し使われて歴史のイメージとなった。
その四年後、クレメンティスは反逆罪で告発され、絞首刑にされた。情宣部はただちに彼を<歴史>から、そして当然あらゆる写真から抹殺してしまった……クレメンティスのものとして残っているのはただ、ゴットワルトの頭のうえに載っかった、毛皮のトック帽だけになってしまった。
これはとても恣意的に、歴史が「改竄」され、独りの人物がそこから「抹殺」された話だけれど、歴史の忘却はもっと様々な位相で起こっている。歴史はとっても「硬い」ものであり、「思いなし」の力が強く働くためだ。
例えば、パレスチナ解放機構のアラファト議長は、イスラエルとパレスチナの和平が、史上かつてなく近づいたとされるオスロ合意に際し、記者から「イスラエル側に撤退する意志はないのでは?」と問われてこう答えた。
数週間前には、この合意だって誰も想像しなかった。ベルリンの壁が崩れたことを忘れないで
誰も起こると思っていなかったようなことが起こる。その渦中にある現在では、事態がどちらに転ぶかはまるで分らない、あやふやな状態が広がっている。しかしいったん「歴史」として記述されれば、その感覚は忘れられる。ベルリンの壁は壊れるべくして壊れ、オスロ合意は失敗すべくして失敗した。年表の記述は更に短い。ベルリンの壁崩壊。オスロ合意失敗。
思いなし
二人の人物とメルロ=ポンティの交差について考えてみた。ウィトゲンシュタインの忘却=思いなしは、美的判断や創作行為に関わるもので、クンデラの方は、恋の感情や歴史の認識に関わるものだった。まるで異なって聞こえるこの二つが、メルロ=ポンティの、それも知覚の存在論というこれまた出発点が異なる思想で、ぎゅっと束ねられたことが面白かった。
あいまいで未規定な過程を経て、なにかが発見され/創られる。けれどそれが見出された後では、それは初めからそこにあったかのように思いなされ、あいまいだったことも、その過程も忘却される。
このことが私にとってはとても興味深く、そしてとても大切なことを語っているように思えた。
結果と過程
「結果だけでなく過程が重要なんだ」という言葉は良く聞くけれど、それはどうしたって、結果が出せなかったときの、一つの言い訳であり慰めであるという影から出られない。
けれど、その「重要」という尺度の中に、既に偏りがあるんじゃないか。まだ結果の到来していない可能性の中で味わう、不安や期待の心はどこにいったのか。「結果だけでなく過程の中にも同じほどの喜びがある」と言い換えたのならどうだろう。
小説の素敵な一行目を書けた日に、きっとそれが傑作になるだろうと胸をわくわくさせて眠りにつく時とか、恋をして明日その相手に告白をする前夜、不安の苦さと期待の甘さの味が舌の上でぐるぐるして眠れないときのこと。
そうした感情は短くしか続かず、結果は長く残る。忘却は必ず起こるし、私たちはそのように促されてもいる。過程よりも結果、という価値観は、結果に到達した後ではひっくり返せない。少し脱線になるけど、私が執筆の過程であらゆる生成AIを使わないと決めているのもこのことに繋がる。というか、過程の価値が忘却されているからこそ、AIでそれを吹っ飛ばすことに問題がないとみなされているのかもしれない。
この本を読んだ私が/誰かなら、世界の曖昧さ、未規定さに今までよりも注意を払うようになるかもしれない。けれど、大勢としては、より安定した世界観に、メルロ=ポンティ的な世界把握は敗北し続けるようにも思える。
だから問題は、必ず忘却が起こる世界の中でどう生きるか、ということにシフトする。
この本を読んでどうするべきか
それでどうするべきか、という結論に入って、まあ私の論は大概が「小説を書こう!」という呼びかけで終わるのであって、今回もそうなる。
なるのだけど、今回はいつもよりちょっと胸を張れる。ウィトゲンシュタインの項目で触れたように、小説を書く中での推敲、言葉の「経巡り」は、世界へ「注意」を払うことそのものだと思えるから。そしてクンデラの項目で触れたように、小説とは忘却されゆく儚い痕跡を残すことが出来るものだ。すごい!
この本を読んで、具体的に試みてみようと思うこと:何かを書いているとき、その瞬間瞬間にもっと「注意」を振り向けることはできないだろうか。「しっくりくる」比喩を探しているときの思考の流れでも良いし、手を止めて少しぼんやりしている時間でもいい。それをもっと、リアルタイムに、「今書いている」舞台のパフォーマンスみたいなものとして捉えてみる。そうした意識が、過程にもっと積極的な喜びを見つける助けになるような気がしている。
そんなことを書いてみて、今さら気付くのだけど、私はこの本に書かれたメルロ=ポンティの、「未完成で、問いかけに対し開かれた世界」の姿を、少しずつ触れ、手探り探検していくようなその把握の営みを、いちばんの最初から、なんだかすごく楽しそうなものだと感じていたのだった。
