議論でもめがちパターンその2「今までの経験則が通用するのか、今回こそは違うのか」
というわけで、早速「議論でもめがちパターン」シリーズ第二回目。
今回とりあげるのは「今までの経験則が通用するのか、今回こそは違うのか」です。
これもほんとよくモメモメしてます。
何か問題が生じている時に、その原因を「昔からうまくいってた方法を徹底するのを最近サボってるから」とか「過去の経験則(エビデンス)を無視しているからだ」として「今までうまくいってた方法をちゃんと踏襲するようにすべきだ」とするのがいわば「今まで通り派」です。
一方で、その問題に対して「いや今回はこれまでと条件が違うから今までの経験則や伝統的手法は通用しない」として「既存の発想の枠を飛び越えた新しい発想が必要だ」とするのが「今回は違う派」となります。
(ぶっちゃけ「保守」VS「革新」と言ってしまってもいいかもしれませんけれど、この用語を使うと政治的な派閥のイメージが強すぎるので、今回はあえてこの言葉を避けることにします)
たとえば、少子化問題を考えている時に、「少子化になったのは女性が社会に出て子どもを産まなくなったからだ。だから歴史的にもずっとうまくいっていた男は仕事で女は家庭という伝統的家族観に立ち戻るべきだ」というのが「今まで通り派」で、「少子化になってきているのは世界レベルの傾向であって、女性が働ける社会を進めることは経済的にも倫理的にも意義があることであり、昔とは既に時代が変わっているのだ。だからこそ全く新しい発想での対策が求められる」とするのが「今回は違う派」です。
昔成り立ってた法則が今も成立しているとするのが「今まで通り派」、昔成り立ってた法則は今や成立していないとするのが「今回は違う派」です。
根本的に前提が異なるゆえに、意見が対立するのも当然ではありましょう。
さて、ではなぜこの対立がよく起きるのでしょう。
それは「今まで成り立ってた法則がこれからも成り立つかどうか」を確実に答えることは原理的に不可能だからです。
今まで成り立ってた法則はこれからも成り立つかもしれないし、成り立たないかもしれない。
それらを見極める確実な方法を人類は持っていないのです。
とはいえ、私たちは「明日も東から陽がのぼって西に陽が沈む」という法則が成立しているとかなりの確信を持って考えています。
この自然法則が成り立たない可能性なんて果たしてありえるでしょうか。これさえ成り立たないかもしれないと疑うなんて頭がおかしいのではないか、そう思う人がほとんどでしょう。
ところが、厳密に言えば、そうした「太陽が東から昇り西に沈む」という法則でさえも、絶対確実であるという論理的な保証はどこにもないのです。
「江草がまた意味わからんこと言い出したぞ」と言われそうなので、ここは大御所のお力を頼りましょう。18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームさんです。
ヒュームさんはおっしゃいました。
「帰納による一般化に合理的な根拠はない」と。
「帰納」というのは要は「経験則」のことです。
「これ(A)が起きた時にこういうこと(B)が起きた」という現象を何度も繰り返し経験すると、「Aがが起きた時に必ずBが起きる」という法則が常に成り立つだろうと私たちは考えます。
毎日毎日繰り返し「太陽が東から昇り西に沈む」を経験した結果、私たちは「太陽は必ず東から昇り西に沈む」という自然法則を見出します。これが帰納による一般化です。
つまりヒュームさんが言ってるのは「こうした経験則から導き出された法則に論理的な保証はない」ということになります。
これを聞いて「そんなバカな、この法則が今まで成り立たなかったことはないじゃないか」と怒る方もいるかもしれません。
しかし、よくよくその言い分を見直してみてください。
「この法則が今まで成り立たなかったことはない」という主張はすなわち経験則ですよね。「経験則から導き出された法則が必ず成り立つとは言えない」という主張に対する反論に「経験則」を持ち出してしまうと、いわゆる循環論法という論理的誤謬に陥ってしまいます。いわば「経験則は正しいから正しいんだ」と主張してるのにすぎないわけです。
経験則自体の正しさの根拠を聞いているのにその根拠が経験則しかないのであれば、それは堂々巡りであって、十分な根拠はないと言わざるをえません。
経験則から導き出された一般法則が裏切られる例として、有名な鶏小屋の寓話があります。
ある鶏小屋で、ある日賢い一匹の鶏が「大変な法則を発見した!」と叫びました。
彼は言います。「毎日毎日朝になるとこのお皿の中に餌が出てくる。この法則が今まで誤りだったことはない。これまでずっと観察してきたが朝には欠かさず餌が出てきているんだ。つまりこの世界には朝になると餌が出てくるという自然法則があると考えられる」と。
この「大発見」に興奮で湧き上がる鶏の群れ。「さすが学者鶏さんはすごい」などと大絶賛です。
ところが、次の朝、鶏小屋の主人がつぶやきます。「うむ、この鶏たちもよく育ったし、そろそろ食べごろだな」と。
あわれ鶏小屋の鶏たちは食肉として出荷され、大発見だったはずの「毎朝餌が出てくる法則」も突如成り立たなくなったのでした。
まあまあ皮肉っぽい寓話ですけれど、なかなかに示唆に富んだ話ではあるでしょう。
人間視点で見ればこの鶏たちは非常に滑稽な法則の発見で喜んでいるわけですが、確かに鶏視点で見れば別に特段間違った帰納的推論をしているわけではないのです。
だからこそ、「今まで成り立ってきた法則はこれからも成り立つはずだ」という考え方がいかに脆いものか、私たちも本当に「この話の鶏ではない」と言えるのか、を突きつけてくる耳が痛いお話です。
念のため注記しておきますと、これは「経験則は必ず間違っている」という話ではありません。あくまで「経験則が必ずこれからも成り立つとは言えない」という話です。
だから、結果として経験則が引き続き成り立つ可能性を否定するものではありません。
ただ、あまりにも繰り返し体感してきた経験則は、私たちは無意識のうちに「常識」として脳にべっとりと練り込んでしまっていますから、「常識」を「必ず成り立つとは言えない」と言われただけでもなんとも落ち着かない不快な気持ちにさせられてしまうのです。
この帰納的推論の弱点は「ヒュームの呪い」などとも呼ばれますが、大変に素朴なツッコミであるにもかかわらず、とてつもなく反論が難しい難問なのです。
こういう悪魔的なツッコミを思いつくなんて哲学者ってのはほんとやらしいですよね。
で、本題に戻りますと。
ヒュームさんがぶっこんできた通り、「今まで成り立ってた法則がこれからも成り立つかどうか」はたとえ自然法則であってさえも厳密には論理的保証がないわけです。
これが自然法則の話ならまだしも、もっと条件が複雑、かつ、時とともに変容する社会的な問題に関する話であれば、なおさら「何がこれから通用する法則なのか」に不透明感や曖昧さが出てきます。
ここで、「今まで通り派」も「今回は違う派」も互いに相手の前提を覆すことが原理的にできないからこそ膠着状態に陥りやすくなっているのです。
もっとも、「ヒュームの呪い」なんて抽象的な話であって現実的な視点ではないと感じる方もいるでしょうから、あえて「ヒュームの呪い」をガシガシ踏んづけながらの現実的な説明も追加しておきましょう。
「法則がずっと成り立ってきていること」も「ずっと成り立つと感じられていた法則が崩れ去ったこと」もどちらも私たちは経験的にたくさん知っています。つまり、経験則が時に成り立ったり時に成り立たなかったりしてきたという経験則を私たちは持っています。
たとえば、江戸時代の人に尋ねてみれば江戸幕府がずっと続くだろうと思っていたでしょう。同様にローマ帝国の人に尋ねてみればローマ帝国はずっと続くだろうと、古代エジプトの人に尋ねてみればファラオの時代はずっと続くだろうと、思っていたことでしょう。
しかし、それらが結局永遠に続くことはなかったことを私たちは知っています。
それでもなお、昨日と同じ明日が続くだろうと、基本的に私たちは考えます。なぜならそれでほとんどの場合うまくいくからです。改札にICカードをタッチすれば開くと信じているし、蛇口をひねれば水が出ると思っています。そしてそれは毎日繰り返し正しくあり続けてきています。
これを今更疑うのは難しいし、疑う意味も必要も感じられないでしょう。それが普通です。
繰り返しのパターンをあえて帰納的に一般化して、「常識」や「習慣」として身につけて日常の行動を省力化することが、ある種の「学び」であり「大人になる」ということでもあります。
これらの「学び」なくしては、生存も生活も社会の維持もおよそおぼつきません。
このように、私たちは「法則がずっと成り立ってきていること」も「ずっと成り立つと感じられていた法則が崩れ去ったこと」もどちらもよく知っています。
どちらの例も豊富に知っているからこそ、その時々に応じてどちらでも自分に都合のいい例を引っ張り出すことができてもしまうのです。
このような事情により、つまるところ、「今まで通り派」も「今回は違う派」もどっちの立場であっても一理ある主張が必ずできてしまいます。
「法則は今まで通り成り立っているのに社会が変わってしまったことが問題なのだから社会のあり方ややり方を元に戻すべきだ」とか「過去にこういうエビデンスがあってこの法則は今も通用するはずだからこのエビデンスに従って行動しよう」とするのが「今まで通り派」。
「社会が変わったことでもはや法則も変わってしまっているのだから対応策も臨機応変に変化させるべきだ」とか「刻一刻と状況が変容する世の中でそのエビデンスが得られた時点と現在の条件はすでに異なっており、もはや同じ法則が通用するとは限らないのだからそのエビデンスにこだわってもしかたがない」とするのが「今回は違う派」。
なんか、どっちも「そう言われるとそうかも」って、なりますよね。
困ったことにどっちが結局のところ正しいのかは、未来予知能力でもない限り、はっきり言えないのです。
そして、私たちには未来予知能力はもちろんありません。
このように、決して決着がつきえない対立だからこそ、それぞれがそれぞれの信念に基づいて、好きなように自説を強弁することができてしまいます。
これが、あちらこちらで議論がモメモメする構図なわけですね。
このモメモメパターンも、前回の「原因は内にあるか外にあるか」と同様に、原理的にどっちも否定しきれないために生じる永遠の難題です。
それでもなお、できる限り不毛な対立に陥らないようにするためにできることがあるとすれば、「私たちには絶対確実な未来予知能力はない」という「常識」を今一度思い起こすことでしょう。
それはどんな専門家であってもなお、そうなのです。
「法則が今まで通り成り立ってる」と考えるにせよ、「法則は既に変わってしまった」と考えるにせよ、最終的にはどちらも絶対確実な保証はない「ギャンブル」であることを双方ともに自覚していれば、対立論者を「ただの愚か者」と断じることも少なくなるのではないでしょうか。
もっとも、江草が言っている「私たちには絶対確実な未来予知能力はない」という「常識」も今までそうだったからという「経験則」に過ぎませんから、明日の朝起きたらなぜかみんな未来予知能力を身に着けているという可
能性も否定はできません。
うん。「ヒュームの呪い」ほんとやらしいですね。
【参考文献】
「ヒュームの呪い」のネタ元はこちらの書籍『科学哲学の冒険』から。
「ヒュームの呪い」以外にも帰納的推論の弱点として「グルーのパラドクス」というのが紹介されてたり、とても面白い一冊です。
江草の本稿での説明は正直かなり拙いと思うので、もっと正確な議論を知りたい人は本書をぜひご参照ください。
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