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短編小説|袖口を濡らして

人生に波紋を起こす出会いは、時に小さな水面のさざめきのように静かにやってくる。そして気づけば、私たちの心は少しずつ、けれど確実に変わり始めているのだ。

第一章 沈んだ足取り

「お疲れ様です」

岸本すみれは小さく頭を下げ、オフィスを出た。

時計は午後六時ちょうど。今日も定時通りの退社だ。パート事務員の彼女には残業という概念がない。他の正社員たちがまだパソコンに向かう中、すみれだけが一人帰っていく。

二十六歳。大学卒業から四年、ずっと非正規雇用で働いている。今年も正社員登用試験に落ちた。面接官の「もう少し積極性が欲しいですね」という言葉が、まだ耳に残っている。

地下鉄の階段を降りながら、すみれはため息をついた。

「何してるんだろう、自分」

最近よく考える。毎日同じことの繰り返し。特別なスキルも身につかない。恋愛もご無沙汰。友人たちは次々と結婚していく。

切符を通し、ホームに向かう足取りは重かった。

その日は、なぜか一駅手前で電車を降りた。理由はなかった。ただ、いつもと同じ駅で降りるのがつまらなく思えただけだ。

見知らぬ駅の出口を出ると、すぐそばに小さな川が流れていた。夕日に照らされた水面が、オレンジ色に輝いている。

「こんな川があったんだ」

すみれは柵に沿って歩き始めた。両岸には遊歩道が整備され、ところどころベンチが置かれている。平日の夕方だというのに、人影はほとんどなかった。

ふと、すみれは立ち止まった。

水面がさざめいている。

風はない。空は澄み、木々も静かだ。それなのに、目の前の水面だけが、規則正しく揺れていた。

「魚かな」

でも、魚影は見えない。浅瀬には小石が敷き詰められているだけで、生き物がいる様子はなかった。

すみれはそのさざめきを、しばらく見つめていた。

第二章 さざ波の正体

翌日も、すみれは同じ駅で降りた。

特に理由はない。ただ、あの川をもう一度見たかっただけだ。

昨日と同じベンチに座る。仕事で疲れた体を休め、水面を眺めていると、また同じ場所から小さなさざ波が生まれた。

「ぱしゃん、ぱしゃん」

間隔を置いて、規則正しい音が聞こえる。まるで誰かが意図的に水面を叩いているようだ。

すみれは立ち上がり、川辺に近づいた。水面には何も見えない。風もない。魚も跳ねていない。

「不思議…」

ポケットから小石を取り出し、水面に投げ入れた。

「ぽちゃん」

小さな音と共に、波紋が広がる。

次の瞬間、驚くべきことが起きた。

対岸からも、同じタイミングで小石が跳ねたのだ。

すみれは慌てて対岸を見た。そこには誰もいない。ただの草むらと、低い柵があるだけだ。

「え?」

もう一度小石を投げてみる。

「ぽちゃん」

そして、またしても対岸から小石が跳ねた。

すみれは自分の目を疑った。幻覚だろうか。でも、確かに水面には二つの波紋が広がっている。

ひとつはすみれが投げた小石から。もうひとつは、対岸の「何か」から。

不思議な気持ちで帰宅したすみれは、その夜、久しぶりに熟睡した。

第三章 漣に遊ぶもの

それから、すみれは毎日川辺に通うようになった。

仕事が終われば、まっすぐにあの場所へ。小石を集め、水面に投げ入れる。すると必ず、対岸からも応答があった。

まるで水面を挟んだキャッチボールのよう。

最初は不思議がっていたすみれだったが、次第にそれが楽しくなってきた。投げるタイミングを変えてみたり、大きな石を投げてみたり。するとそれに合わせて、対岸の「何か」も反応を変える。

「今日も来てくれたんだね」

すみれは声に出して言った。返事はない。けれど、水面が静かにさざめいた。

ある夕暮れ、すみれはふと対岸に目をやった。

そこに、小さな影が見えた気がした。

人ではない。動物にも見えない。ただの木陰かもしれない。でも、すみれには分かった。あれが小石を投げる「何か」なのだと。

「漣の精霊みたいなものかな」

すみれは独り言ちた。そんな存在がいるわけないと、頭では理解している。だが、不思議と怖さはなかった。むしろ、心が温かくなる感覚だった。

帰り際、すみれはベンチに座り、川を見下ろした。

「また明日」

そう言って立ち去ると、背後で水面がさざめいた。

第四章 おさえこんだ気持ち

「岸本さん、これ違うわよ。もう何度目?」

上司の冷たい声が、オフィスに響いた。

すみれは小さく頭を下げた。

「すみません…」

データ入力を間違えていた。朝から集中できていなかったせいだ。

「気をつけてね。あなた、このままじゃ正社員はムリよ」

その言葉に、すみれの胸が締め付けられた。

昼休み、同期の友人・美香が声をかけてきた。

「すみれちゃん、大丈夫?」

「うん…ただちょっと、ミスしちゃって」

「そっか…あのね、実は私、来月から総務部に異動になるの。昇格も決まったみたい」

すみれは笑顔を作った。

「おめでとう!すごいね」

「ありがとう。すみれちゃんも、きっとすぐに…」

言葉は途切れた。二人とも知っている。すみれの正社員登用は、もう何年も見送られていることを。

家に帰る途中、スマホに母からのメッセージが届いた。

「来週のお父さんの誕生日、帰ってきて?久しぶりに家族で食事しましょう」

すみれは返信しなかった。実家には半年以上帰っていない。兄は医者になり、妹は海外留学中。親の期待に応えられるのは、すみれだけではなかった。

「私なんて…」

心の底で何度も呟きながら、すみれは川辺へと足を向けた。

今日も水面はさざめいている。小石を投げると、対岸から応答がある。

すみれはベンチに座り込み、水面を見つめた。

「私、本当はもっとできるはずなんだ」

漣は無言だった。ただ、静かに揺れている。

「でも、何をやってもダメで…何も変わらなくて…」

涙がこぼれた。すみれはそれを拭いもせず、ただ水面を見つめ続けた。

「あなただけが、私と遊んでくれる」

漣は、少しだけ大きくなった。

第五章 雨の日の川辺

週末、雨が降った。

すみれは傘を差して、川辺に立っていた。

周囲には誰もいない。雨足は強く、傘を叩く音が耳をふさいだ。

それでも、水面はさざめいていた。雨粒に紛れながらも、確かに規則正しく波紋を作っている。

「今日も来てくれたんだね」

すみれは小石を投げることができなかった。両手は傘を持っていたし、雨に打たれる水面に小さな波紋は見えないだろう。

ただ、立ってみていた。

びしょ濡れになりながら、すみれは水面を見つめていた。

すると不思議なことが起きた。

水面に、文字のような模様が現れたのだ。

雨粒の中で、一瞬だけ。でも確かに、そこにはメッセージがあった。

「また、あした。」

すみれは目を瞬いた。その模様はもう消えていた。幻だったのかもしれない。

でも、心の中では確信があった。漣が、自分に話しかけたのだと。

帰り道、すみれは久しぶりに胸がいっぱいになる感覚を覚えた。

「明日も来るよ。約束する」

小さく呟いた言葉が、雨音に消されていった。

第六章 変わり始めた日々

次の日、すみれはいつもより少し早く目覚めた。

カーテンを開け、朝日を浴びる。久しぶりに自分で朝食を作った。食パンとコーヒー。特別なものではないけれど、温かい食事が体を温めた。

会社に着くと、上司がすでに席についていた。

「おはようございます」

「あら、岸本さん。今日は早いのね」

少し驚いた様子だった。すみれは緊張しながら、思い切って言った。

「あの、昨日のデータ入力のミス、申し訳ありませんでした。それで、もし良ければ…」

すみれは自分で考えた入力ミスを防ぐためのチェックリストを差し出した。

「これ、私が作ってみたんですけど…ご迷惑でなければ、部署で使っていただけないかと…」

上司は少し驚いた顔をしたが、チェックリストに目を通すと、小さく頷いた。

「これ、いいわね。シンプルだけど、ポイントを押さえてる。みんなに共有しましょう」

予想外の反応に、すみれは戸惑った。

昼休み、同期の美香が席にやってきた。

「すみれちゃん、チェックリスト考えたんだって?すごいじゃん!」

「そんな大したものじゃないよ…」

「いいや、すごいよ。私なんて考えもしなかった。ねえ、今日、仕事終わりにちょっとお茶しない?」

すみれは嬉しさを隠せなかった。

「うん、行く!」

仕事も、いつもより集中できた。データ入力のミスもなく、新しい案件にも手をつけることができた。

帰り道、美香とカフェで話した後、すみれは川辺に立っていた。

水面はいつもより穏やかだった。でも、確かにさざめいている。

小石を投げると、対岸から応答があった。

そして、水面に一瞬、光が跳ねた気がした。

「ありがとう」

すみれが呟くと、水面が大きくさざめいた。

第七章 ゆっくり、ゆっくり

夏が過ぎ、秋が深まってきた。

川の水量は少なくなり、すみれが最初に漣を見つけた場所は、今では浅瀬になっていた。

それでも、すみれは通い続けた。

今日、会社では正社員登用の二次試験の日程が発表された。すみれの名前も候補者リストにあった。上司は「今回は期待してるわよ」と言ってくれた。

休日には実家に帰り、久しぶりに家族と食事をした。父の誕生日を祝い、母の料理を食べ、兄の医者としての活躍話を聞いた。

「すみれちゃんも、頑張ってるわね」

母の言葉に、少し照れた。大きな変化ではないけれど、少しずつ、自分の居場所を見つけている気がする。

今日も川辺に来た。水量が減り、漣はほとんど見えなくなった。でも、すみれは分かっていた。

「もう、ひとりじゃない」

静かな水面に向かって、すみれは小さな声で言った。

「あのね、私、少しだけど変わったと思う。まだまだだけど…」

ポケットから小石を取り出し、水面に投げ入れた。

「ぽちゃん」

そこに広がる波紋は、前よりもずっと大きく、そして優しかった。

対岸からの応答はない。でも、それでも良かった。

すみれは自分の波紋を見つめながら、静かに微笑んだ。

「ゆっくり、ゆっくりでいいんだよね」

河原に腰を下ろし、すみれは夕日に染まる空を見上げた。来週から、新しいプロジェクトが始まる。美香と二人で任されることになった。緊張するけど、少し楽しみでもある。

水面を最後に見つめると、小さなさざ波が立った。

すみれは立ち上がり、深呼吸をした。胸の奥が温かい。

「ありがとう」

振り返らず、すみれは歩き出した。背中には夕日の光と、小さなさざ波の音が続いていた。

彼女の心に広がる漣は、もう消えることはないだろう。

ゆっくりと、でも確かに、新しい波紋を描きながら。

(おわり)

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瀬尾高史@優しいAI短編小説 いただいたチップは、我が家のペットのごはんのグレードアップにつながります。応援していただけたら嬉しいです。