『ホモ・ルーデンス』を読んで ~永遠に転回する遊びと文化~
概要
ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(中公文庫)を読んだ感想です。
はじめに
本書ほどの古典的名著は、人工知能に頼めば要約してくれます。従って、ここで内容を紹介する必要性は低いわけですが、一応書くことにします。
「ホモ・ルーデンス」は「遊ぶ人」という意味です。「語学の天才」のホイジンガは、色々な言語の「遊び」に当たる言葉を検討し、法律、戦争、音楽、学問等、様々な例を挙げ、それらが遊びであることを論じます。人間の営みの全ては遊びだ、というのが結論です。
本書(中公文庫)を読み始めて、分かりにくかったら、巻末の対談や解説を読むよう勧めます。理解を助けると思います。
何故、遊びなのか
ホイジンガは、様々なことについて、それらが遊びであると指摘していますが、何故、そう解釈できるのでしょうか。ある対象が何であるかとは、結局、言語の問題です。私は、冗談と笑いについての記事(下にリンクあり)で、このことについて書きました。繰り返しになりますが、簡単に説明します。
ホイジンガは、「いったい遊びの面白さというのは何だろう?」、「じつはこの迫力、人を夢中にさせる力のなかにこそ遊びの本質があり、遊びに最初から固有なあるものが秘められているのである」と書いています。また、競争や規則等の要素を遊びである理由にもしています。
しかし、「部品間の余裕」(本書94頁)という意味の場合には、面白さもなければ、競争も規則もありません。これは、「役に立たなさそう」という要素です。
AとBが学校で友達になり、BとCが塾で友達になったとして、Bを介し、AとCが友達になる場合も、ならない場合もあり得ます。
つまり、対象1にAとBの要素があり、対象2にBとC、対象3にCとDがある場合、1と2はAが共通することで仲間、2と3はCが共通して仲間です。全てに共通する要素はありませんが、1と3は、2を介して仲間になることもあります。
1が無果汁の葡萄飲料、2が葡萄の果実、3が葡萄のコンピュータ・グラフィクスの場合成立しますが、1が神、2が光、3が電磁波になると成立しません(後者は冗談として解釈されることあり)。日常的な言葉の使い方は、厳密な論理とは違います。
これは、ヴィトゲンシュタインの「家族的類似」と同じ考え方のようですが、こう考えると説明できるでしょう。
Deep Research かく語りき
「解説」で、高橋英夫氏(訳者)は、「ホイジンガの『すべては遊びなり』という結語にしても、これを裏返してみれば、人間の生活と文化は遊びと真面目のディアレクティークなのだという認識になるのではないか、ということである」と書いています(ディアレクティークはこの場合、弁証法の意味)。
私は文化を、問題の解決法が空間的、時間的にある程度広く共有され、定着したものだと考えています。加えて、ある水準以上にあることが条件でしょう。劣悪なものは一般に認められません。
そこで、ホイジンガ以降、遊びについてどう考えられているか、また、文化についてはどうか、Google の人工知能 Gemini の Deep Research に調べて貰いました。
遊びについては、やはり、ロジェ・カイヨワが重要なようです。
文化については、マリノフスキの機能主義が、文化を「人間が環境に直面する具体的で特定の問題に、より良く対処するための道具的装置」として定義する、と報告されました。マリノフスキの理論は、文化的な要素が非実用的に見えても(例:儀式、マジック、神話 )、必ず生物学的、心理的、社会的なニーズを満たす機能を持っている、と考えるようです。
更に、ポスト・モダニズムや解釈学は、文化を客観的に観察される単なる行動様式や制度としてではなく、人間が作り出し、絶えず解釈し直す「意味の網の目」や「記号体系」として捉える、とのことでした(Google 検索の AI Mode)。
遊びと文化には双方向の流れがある
ある物を、ある角度から見ると、円に見え、別の角度から見ると長方形に見えます。これは円柱です。「役に立つことが意図されている」というような面から見たり、「役に立つ意図が薄い」というような面から見たりと、複数の面から見ることで、人間の営みがよりよく理解できるでしょう。
カイヨワ(やその後の研究)は、「遊びの腐敗」を問題視しているようなのですが、私は、人間がつい遊んでしまう存在であり、つい意味を求めてしまう(役に立つことをしようとしてしまう)存在だと考えています。
例えば、仏教は実用的な思想(社会運動)として始まったそうですが(哲学でもあります)、現代日本の葬式を見ていると、明らかに不必要と思われる華美な装飾(遊び)があったりします。
数学も実用が始まりだと推測されますが、最先端の現代数学の多くは実用化されていません。そのため、数学者の広中平祐氏は、「数学者に成り下がっちゃった」と冗談で言っているほどです(因みに、この時の対談相手は甘利俊一氏)。大学等の研究者で、楽しいからしているという人も多いようです。
人工知能を機能させている電子も当初は役に立つと思われていませんでした。NVIDIAは、ゲーム(遊び)向けのGPUを作っていましたが、それが人工知能に向いていると分かり、絶好調です。
人間の来歴を説明する解決方法として神話があり、その応用として歴史があります。更に、歴史を流用して小説という遊びが生まれました。
遊びから実用へ、実用的な文化から遊びへという双方向の流れがあるわけです。何が役に立ち、何が役に立たないかなどということは明確に分かることではなく、分けられることでもありません。遊びも文化もその解釈は多様に可能であり、人間が遊びや文化を作り、遊びや文化が人間を育てます。
Deep Research の最後の部分には、「この分析は、遊びの未来を予測し、その文化的価値を維持するための政策的提言を行う上での基盤となるだろう」とありました。役に立つことは腐敗だという文脈だったのに、役に立つことをするよう勧めているのです。人工知能が、人間(の知的能力、言語現象)の近似だと考えれば、面白いと思います。
人間は全てを意図できない
解釈学と機能主義は大きく違わないと思います。結局、どちらでも、文化の機能を特定し切ることはできないからです。
私の記憶では、数学者の藤原正彦氏が、一つの例として、「数学を研究する上で、子供の頃、風をどう感じたかが重要」と言っていましたが、そうしたことを意識しながら風を感じている人はいないでしょう。
人間は、役に立つと思ってすることもあれば、楽しいからしているだけということもあります。その結果がどうであるかは、時間が経過してみないと分かりません。
ここは余談ですが、研究者は第三者として観察しているだけなので、解釈し切ろうとし切るまいと余り関係ありません。重要なのは、文化を共有する人達です。
遊びという魔圏からは、人間精神はただ至高の存在へ視線をさし向けたときにだけ、釈放されるのである。ものごとを論理的に考えぬくというだけでは、そこに達するのにとうてい不十分である。人間の思惟があらゆる精神の宝を眺めわたし、その能力の達成した輝かしい偉業を検討してみるならば、いかなる真面目な判断の底にも、なお一抹の未決の問題点があるのを見いだすだろう。どれほど断固とした判断の言葉にしても、彼自身の意識の奥では、これが絶対に究極的なものではありえないとわかっているのである。
この判断が揺らぎはじめるその一点で、絶対の真面目さというものを信ずる感情は屈し去るのだ。「すべて空なり」という、古い諺にとりかわって、「すべて遊びなり」という、おそらくはやや肯定的な響きのする結語が、湧き上がってくる。
カイヨワが遊びの腐敗を言うのは、社会全体の世俗化や経済原理による過度の効率化を問題視しているのでしょう。私は、世俗化について、明確な宗教が後退しただけと見ています。
ヨーロッパのプロのサッカー選手は、ロッカー・ルームで金銭の話ばかりしているそうですが、その選手達は、試合に勝つと、(キリスト教やイスラム教の)神に感謝します。コンピュータ・ゲームで上手く行った人は、好運(聖なる次元)を感じます。人間は、聖なる次元を常に持っているのです。
経済的な効率化は、意識的に把握できる範囲で行われるため、切り捨てられた部分に重要な何かがあると、後々問題化します。これは、慎重に、漸進的に取り組むしかありません。
但し、悪影響を無視した競争相手によって短期間で圧倒されてしまうことを危惧し、それなら自分達も、という脅威の往還があります。解決が難しいというより、終わることのない問題ですが、結局、能力を高めるしかないでしょう。
「資本主義に対抗して遊ぶ」というのでは、最早遊びではありません。何がより重要かを考えなくなると、文化も遊びも腐敗します。能力が高ければ、役に立つことを楽しくでき、楽しくしているだけのことが役立ったりします。
非合理的跳躍
遊び―真面目、この概念の永遠の転回のなかで、その精神のめくるめくのを感ずる者も、論理的なもののなかには見つけ出すことのできなかった支えを、倫理的なもののなかにふたたび見いだすのである。
これについては疑問です。人間は、倫理的な判断(徳性)をすることもあり、合理的な判断(知性)、美的な判断(身体性)をすることもあります。決断は一般に、予想であり、期待であり、信、賭け、アニマル・スピリット、非合理的跳躍です。
知徳体の三面は、より高度に均衡していることが重要なのではないでしょうか。
遊びの面白さを説明できるか
「遊びの面白さ」、「人を夢中にさせる力のなかに」ある「遊びの本質」とは何でしょうか。説明できると思っていますが、ここまでにします。
私はゲームが好きなので、「ゲーム(遊び)とは何か」という記事を書かないわけにはいかないと思い、書き始めました。しかし、流石に、本書とカイヨワの『遊びと人間』くらいは読んでからにした方がいいと思い直した次第です。
『遊びと人間』は未読なので、ゲームとは何か、その面白さの謎を書くのはまだ先です。本記事と宗教についての考え方(下にリンクあり)を踏まえた記事になるでしょう。
「遊び」の対義語は「真面目」なのか(追記)
うっかり忘れていましたが、ホイジンガ(オランダ人)が、遊びと真面目を対にしているのは納得できません。
Google検索の AI Mode 等で調べたところ、日本語で、「遊び」の対義語は、文脈に因るとしながら、「仕事」、「勉強」、「労働」、「本気」が挙げられました。真面目の対義語は、「不真面目」、「いい加減」、「軽薄」で、妥当なところです。
オランダ語の遊び、spel(名詞)、spelen(動詞)の対義語は、werk(仕事、労働)、studie(勉強)、「真面目(に、な)」は、serieus、serieuze、や、ernstige でした。
日本語で「ふざける」の対義語は、「真面目(にやる)」、「真剣(にやる)」、「まじめに取り組む」と、こちらの方が納得できます。「戯れる」の対義語も、「真剣(になる)」、「まじめ(にする)」、「打ち込む 」でした。
オランダ語でも、「ふざける」に当たるオランダ語は grappen(冗談を言う)、stoeien(もみ合う)で、対義語には、serieus zijn(真面目にする、真剣である)がありました。
「戯れる」は、spelen(遊ぶ)、stoeien(格闘)、dartelen(戯れる)で、対義語は、serieus zijn(真剣である)、werken(働く)でした。
遊びと真面目の語の関係は、譬喩としてなら、対になり得るものの、正対はしていないでしょう。真面目の対義語は、「ふざける」の方が自然です。遊びは真剣になりますが、「ふざける」や「戯れる」は、全く真剣になりません。
「遊び」の「役に立つのか分からない」という面と、文化の「役に立つことを目指している」という面を対で考えるのが妥当ではないでしょうか。
確かに、未知への一歩は、それが役に立つか否か不明であるため、「遊び」です。ただ、それは解釈の次元であって、当事者は役立つようにと思っていることもあります。どちらも(ほぼ)ホイジンガの言葉ですが、「全ては遊びなり」より「永遠に転回する遊びと文化」の方が適切でしょう。
余談ですが、著述家、評論家の西部邁さんには、『生まじめな戯れ』という著書があります。ただ、これは敢えて矛盾する表題にしたものと思われます。
他で気になったこととして、既に指摘されているようですが、「予言」の語は、「預言」が適切ではないかと思います(例えば227頁)。
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チップを貰った人は実在するのでしょうか。note の都市伝説、幻のようですが、有難く戴きます。