針の穴を通す旅ーー青春18きっぷで九州を一周する ⑤
第三部 3月6日(水)
鹿児島から天草本渡へ――折口・蔵之元・牛深を経て
鹿児島中央駅――切符が使えない日の旅
3月6日、水曜日。
雨と強風。
旅の3日目にして、空はいよいよこちらに好意的とは言いがたくなった。もっとも、旅先の天気というものは、景色を美しくするだけが役目ではない。風の強さや雨の重さによって、土地の輪郭がむしろはっきりすることもある。崎津のような土地は、晴天の観光名所として見るより、雨のなかでこそ、その沈黙の深さを感じるのかもしれない。そう考えることにして、私は部屋で簡単な朝食をとった。
この日と翌日は、青春18きっぷを使わない。
九州一周の旅でありながら切符を使わない日があるというのも、いささか妙な話だが、JR区間がほんの少ししかないのである。鹿児島本線の八代―川内間は、九州新幹線の開業に伴って第三セクターの肥薩おれんじ鉄道へ移管された。新幹線が通るということは、速さを得るかわりに、旧来の路線が別の名前と別の経営のもとで生き直すということでもある。旅人はそのことを、切符の面倒くささとして知る。
鹿児島中央駅で券売機に向かい、肥薩おれんじ鉄道の連絡きっぷを、とりあえず阿久根まで買った。
降りるのは折口だが、そこまでは表示がないので、差額はあとで精算する。こういう小さな不便が、かえって旅に土地の手触りを与えることがある。すべてが無摩擦でつながる旅は快適だが、記憶には残りにくい。
今日は、鉄道、徒歩、ローカルバス、フェリー、さらに島内バスをつないで天草本渡まで入る。旅程は、いよいよ寄せ木細工のようになってきた。
折口へ――地図の端を歩く
当初の予定では、もっと早い列車で川内へ出て、天草ロマンシャトルの始発に合わせるはずだった。
だが、時刻表を見直しているうちに、途中の折口駅で降り、そこから筒田前のバス停まで歩けば、7時発でも間に合うことがわかった。こういう小さな発見に、旅程を組む者だけが知る喜びがある。人から見ればただの乗り継ぎだが、こちらには、どうにかして線と線をつないだ手応えがある。

7時発、鹿児島本線普通川内行き。
通学時間帯で多少混んではいたが、始発なので座れた。神村学園前駅で大勢の学生が降りる。
隈之城で、7時53分発の肥薩おれんじ鉄道普通八代行きに乗り換える。HSOR-100形気動車。新幹線を横目に見ながら走り出し、やがて海岸線がひらける。牛ノ浜海岸らしい海辺、高之口港らしい港。列車は海を見せる乗り物だということを、私はこの旅で少しずつ学んでいた。

折口駅で降りると、無人駅である。誰もいない駅舎で雨支度を整え、国道沿いの道を15分ほど歩いて筒田前バス停へ向かった。旅というものは、ときに観光地よりも、こういう何でもない道を歩く時間の方が濃い。
出水・天草ロマンシャトル――半ば貸切の海辺の道

9時12分、ほぼ定刻に出水・天草ロマンシャトルがやってきた。
こんなバス停で本当に停まってくれるのか、少し心配していたが、もちろん停まる。バスの運行というものは、乗る側が不安になるほど、たいてい静かにきちんと成り立っている。乗客はおじさん1人。途中でお婆さん1人の乗降があり、先ほどのおじさんも別の停留所で降りてしまったので、その後はほとんど貸切のようになった。
国道389号線をひた走る。
このバスからの眺めがまた良かった。黒之瀬戸大橋を渡るとき、橋の下に渦潮が見える。海峡というものは、地図で見るとただ海が狭まっているだけだが、現地で見ると、水そのものに筋肉があるように感じられる。潮は、静かな海を単なる風景にとどめず、そこを往来が支配してきた歴史へつなげる。

潟の漁港と板場鼻らしい地形を見ながら、私は、この740円という運賃の安さが少し申し訳なくさえ思えた。
旅の贅沢とは、必ずしも高い宿や上等な料理のことではない。こうして海辺の道を、ほとんど貸切のバスで眺める時間の方が、よほど得がたいこともある。人はつい、値段の高いものに価値があると思いがちだが、旅ではしばしばその順序が逆になる。
蔵之元港には定刻で着いた。
運転手は礼儀正しく、とても感じがよかった。旅先で出会う人の物腰は、その土地の記憶に溶け込んでいく。風景だけを思い出しているつもりでも、その風景を支えていた一人の運転手や、一人の駅員や、一人の店員の声が、じつは後景に残っていることが多い。
三和フェリー――海を横切る30分

蔵之元港から牛深港へは三和フェリー。
片道490円。第二天長丸、総トン数577トン。車なしの旅客は私一人だった。船内は快適で、車から降りた乗客が次々と上がってくる。海の交通というものは、鉄道ともバスとも違い、一度、土地の連続性を断ち切る。陸地を走っていた移動が、急に水の上へ変わる。たった30分の船旅であっても、そこには一種の「切り替わり」がある。
雨はまだ、ぱらつく程度だった。
デッキに出て海を眺めた。対岸の牛深が近づくにつれ、港に掛かる牛深ハイヤ大橋が見えてくる。陸から見れば橋は橋でしかないが、海から見上げると、それは町の入口の印のように見える。港町には、陸路とは別の顔がある。
30分は短い。だが、短いからこそ海峡の通過として記憶に残る。長い船旅は日常になり、短い船旅は場面になる。
牛深港に着くと、道の駅・海彩館の流れる生け簀に無数の鯛が泳いでいた。
港町では、魚が“食べ物”である前に、“生き物”としてそこにいる。当たり前のことだが、都市生活をしていると、魚は切り身でしか見なくなる。その生々しい当たり前にふれると、旅は少しだけ身体の感覚を元へ戻してくれる。
牛深から本渡へ――山の中を行くバス

牛深港バス停10時37分発、本渡バスセンター行きの九州産交バス。
始発なのに3分遅れでやってきた。乗客は最初、私一人。しかし途中から病院通いや買い物帰りの老人たちが何人も乗り降りした。地方バスの役割というものは、旅人を運ぶことではなく、そこに暮らす人々の生活を支えることにある。そのことを、こういう車内の静かな乗降が教えてくれる。
天草と聞くと、海に囲まれた島々のきらめいた景色を想像しがちだが、実際には山の中を走る時間の方がずっと長い。
わずかに早浦が見えるくらいで、あとはひたすら山と谷である。島とはいえ、そこに人が住み続けてきた以上、生活圏は必ず内陸へも伸びている。海だけを見ていると、土地の半分しか見ていないことになる。
1時間26分のち、終点の1つ手前、天草市民センター入口で降りた。

目指すは苓州屋。人気店で、私が最後の席だった。寒かったので、はまゆうランチのかけそばを選ぶ。いなり2個、小鉢、そば粥が付いて950円。ここの流儀では、七味ではなく柚子胡椒を入れる。これが思いのほか蕎麦に合った。入れすぎると強すぎるが、ほんの少しなら、熱い汁の輪郭がきりっと立つ。土地の調味料というものは、土地の料理の中でだけ、じつに自然な顔をする。
そのまま本渡バスセンターまで歩き、ホテルサンロードに荷物を預ける。
名前だけ聞けば少し古びたビジネスホテルのようだが、実際には意外にしゃれていて、対応もスマートだった。旅では、名前や外観の印象と中身が食い違うことがあり、その小さな裏切りがなかなか愉しい。
天草ぐるっと周遊バス――キリシタンの海辺へ

13時10分、本渡バスセンターから天草ぐるっと周遊バスに乗る。
約4時間のガイド付きツアーで1,000円、ただし入場料別。値段だけ見れば信じがたいほど安い。事前にネット予約しておいた。参加者は16人。平日の、しかもこの天気で、これだけ人が集まるのかと思う。旅人は見えないところに潜んでいて、こういう時だけ急に顕れる。

最初は天草コレジヨ館。入場料200円。
聖イグナチオ・ロヨラのメダイ、西洋古楽器のレプリカ、天正少年遣欧使節団が持ち帰ったグーテンベルク印刷機のレプリカなどが並ぶ。だが、私の印象に最も強く残ったのは、印刷機の背後に偶然写り込んだ「ラテラノ大聖堂御幸図」のことだった。天草の使節たちが馬上で進む姿が描かれているという。撮影禁止の壁画が、展示の構図のなかで偶然背景になっているというのも面白い。本物はヴァチカン図書館のシクスト5世の間にあるそうで、そう思うと、天草という小さな土地が急にローマへつながる。土地の歴史とは、外へ開いていた時代の記憶をどれだけ残しているかでもある。
つづいて、世界遺産の崎津集落へ。
このころには雨が強くなり、絶好の撮影スポットから見えるはずの集落も霞んでいた。羊角湾に面した「海の上のマリア像」もほとんど見えない。だが、見えないから価値がないというものではない。雨に隠れた風景には、むしろその土地の秘匿性があらわになることがある。
バスを降りて集落を歩く。
風は強く、雨は横殴りで、文字どおりたたきつけてくる。鉄川与助による1934年築の崎津教会は、外観こそ見られるが内部は撮影禁止である。畳敷きの教会という特異な空間を、写真で持ち帰れないのは惜しいが、むしろその「写せなさ」がこの場所の性格を表している気もした。潜伏キリシタンの記憶は、何でも可視化すればよいというものではないのだろう。
崎津諏訪神社の石段には、雨が滝のように流れていた。
1805年に潜伏キリシタンが発覚した「天草崩れ」の舞台である。ガイドは危険と見て本殿への案内を断念したが、私はひとりで上がった。世界遺産は教会単体ではなく、集落全体である。そのことを考えると、どうしても上から町を見ておきたかったのである。

上から見下ろした崎津の入り江は、雨に打たれて鈍い色をしていた。だが、その鈍さの中に、海と信仰と生活が密着してきた時間がにじんでいた。晴れていればもっと美しかっただろう。しかし、雨の中で見たからこそ、この土地が「隠れる」ことと深く結びついてきた歴史を思わずにいられなかった。
ハルプ神父の墓、崎津資料館みなと屋。
ほとんどの参加者は雨を嫌って早々にバスへ戻ったが、私は集合時刻ぎりぎりまで集落を回った。ヘビーデューティーのレインパーカが、ここで十分に力を発揮した。旅では、装備の良し悪しがそのまま見える景色の量を決める。
その後、大江教会へ。

風雨はさらに激しかった。1933年、ガルニエ神父が私財を投じて建てたロマネスク様式の教会堂。ここも内部は撮影禁止。私はつい、海外の教会では撮影可能なところが多いのに、なぜ日本ではこうも禁じられるのかと考えてしまう。だが、おそらくそれは、鑑賞のための空間というより、いまなお祈りの場として守られているからなのだろう。ガルニエ神父の墓、ルルドの聖母像、ルルドの泉。足元はぬかるみ、滑りやすく、ガイドが案内を控えたのも無理はない。こういう場所では、自己責任という言葉が急に具体的になる。
大江教会の下の天草ロザリオ館にも立ち寄る。入場料300円。
潜伏キリシタン関連資料が展示されているが、ここも撮影禁止なので、細部はすぐに記憶からこぼれていく。だが、展示の内容そのものより、コレジヨ館とロザリオ館とで、天草のキリシタン史の扱い方が微妙に違うことの方が印象に残った。一方は交流と学問、もう一方は潜伏と受難。天草の歴史は、その両方を抱えている。
午後5時、本渡バスセンターへ戻るころ、ようやく雨が上がり、少し日が差した。
終わり際になって天気が回復するのは、旅の定石のようでもある。恵まれなかった1日だったとも言えるが、そういう天気の不首尾まで含めて、この日の天草は私の中に深く沈んだ。
本渡の夜――旅の中の一点豪華主義
ホテルにチェックインし、夕食に出る。
途中、天草信用金庫本店前に立つ鈴木三公像を見た。鈴木重成・重辰父子は、島原の乱の後の荒廃した天草の復興に尽くし、石高半減を成し遂げたという。天草の歴史は、四郎だけではない。むしろ乱後の復旧に尽くした人々の営為の方が、この土地の持続には切実だったのだろう。
夕食は、本渡港近くの奴寿司。

事前に電話で予約しておいた。立派な店内で、カウンターに通される。おまかせ12貫6,000円。ウニ、タイ、アオリイカのウニ塩、ブリの漬け、石垣鯛の焼きじめ、車えびのレア、金目鯛、赤身のヅケ、中トロの炙りヅケ、コハダの昆布じめ、クエ、カンパチのニンニク炙り、生サバの柚子胡椒。

この店の寿司は、醤油に頼らず、炙りや漬け、塩や薬味でそれぞれ味が完成している。私はこのところ、寿司については海外の方が斬新でうまいのではないかと思うことがあった。だが、ここでは、その考えが少し修正された。日本にもまだ、独創性を失わぬ店がきちんとある。この日の雨風の果てに、この一食が待っていたことが、なんだか少し有難かった。
歩数は15,096歩。
鉄道があり、バスがあり、フェリーがあり、土砂降りがあり、キリシタンの集落があり、最後に寿司があった。旅の1日としては、ずいぶん濃い部類に入るだろう。
小結――海の周縁に沈んだ記憶
この日の旅は、九州の周縁にある土地の記憶をたどる1日だった。
鹿児島から第三セクター鉄道に乗り、無人駅で降り、人影のない道を歩き、半ば貸切のローカルバスに揺られ、フェリーで海峡を横切り、さらに島のバスで山の中へ入っていく。その移動のあり方自体が、すでに「中心から離れる」経験だったように思う。
そして、その先にあった天草は、単なる島の観光地ではなかった。
そこには、ローマへつながる記憶があり、隠れ続けた信仰があり、風雨の中でなお立つ教会があり、海辺の小さな集落に沈殿した生活があった。歴史とは、首都の年表の中だけにあるものではない。むしろ、こうした周縁の土地にこそ、中央の政策や宗教や戦乱の影が、より深く、より長く残ることがある。
雨と強風はたしかに厄介だった。
だが、もし晴天であったなら、この日の天草はもう少し観光地らしく見え、もう少し軽やかに記憶されたかもしれない。風にあおられ、雨に打たれながら歩いたからこそ、崎津も大江も、ただ美しいだけではない、何かを耐えてきた土地として胸に残った。
そう考えると、この日の悪天候は、旅の不運であると同時に、土地の本質をこちらに近づけるための、ひとつの装置でもあったのかもしれない。
