繊細さと自尊心の間(エルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナー)
1880年、エルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナーは、ドイツ帝国バイエルンのアシャッフェンブルクに生まれました。幼い頃から美術への関心を示しつつも、両親は正式な教育も望んだため、1901年にドレスデン工科大学で建築学を学び始めます。大学では製図やデッサン、美術史なども履修でき、ここで同級生のフリッツ・ブライルと親交を深めました。キルヒナーとブライルは当時のアカデミックな芸術に飽き足らず、自然の中でのスケッチや革新的な絵画を模索するラジカルな思想を共有しました。やがてキルヒナーは建築より純粋美術に情熱を感じ、在学中から油彩画の制作を始めます。
25歳となった1905年、キルヒナーはブライル、そして同じ建築科の同窓2人との4人で芸術家グループ「ブリュッケ」を結成しました。ドイツ語で「橋」を意味するこの名は、哲学者ニーチェの言葉に触発され「古い因習から未来へと架け橋を作る」という彼らの抱負を象徴しています。伝統的なサロン芸術への反発から生まれたブリュッケは、特定の画風や主義に縛られない自由な若手芸術家の集団でした。ただし、グループ結成当初、他の3人は本格的な絵画制作の経験がほとんどなく、「勢い」で始まった集団でもありました。それでも彼らは「古い権威に安住する力に対し、我々若者は行動と生活の自由を闘い取る」という趣旨の宣言文(木版画)を発表し、新しい芸術表現への決意を示しました。この木版の宣言はキルヒナー自身が制作したもので、ドイツ伝統の版画技法を現代に甦らせる意図も込められていました。実際、キルヒナーはアルブレヒト・デューラーの木版画を敬愛しており、それを大胆に簡略化し、躍動感ある線描で現代的に再構築しようと試みています。ブリュッケのメンバーたちは強烈な原色や粗削りなタッチを用い、従来にない表現主義的作風で協働制作を開始しました。
ブリュッケとしての活動はまず、ドレスデンの労働者地区にあった旧肉屋をアトリエとして使うことから始まりました。このアトリエは絵具やキャンバス、本が雑然と置かれたボヘミアン的な空間で、在学中の建築学生の住まいとは思えないような自由奔放な雰囲気だったと伝えられています。ブライルは後に「まるで本物の芸術家のロマンチックな棲み家のようだった」と語っています。さらに興味深いのは、このスタジオが単なる制作の場にとどまらず社交と実験の場でもあったことです。キルヒナーたちは美術学校的な厳格さを嫌い、専門モデルではなく身近な友人知人を裸婦モデルに招いては即興的なデッサン会を開きました。スタジオには頻繁に若い男女が出入りし、全裸で過ごすことや自由な交友(時に恋愛関係)も日常茶飯事でした。規範にとらわれず「生と芸術を一致させる」ことを理想としたキルヒナーは、こうした奔放な暮らしぶり自体が新しい創造の源泉になると信じていました。彼はまた「芸術とは物事の見かけを描くのであって客観的正確さを描くのではない。むしろ新たな外観を創造するのだ」と述べ、独自の感性に忠実な表現を追求しました。
そして、こうした制作と生活が一体化した環境から、瑞々しい作品群が生まれます。初期の代表作には、木版画「裸婦たち(Nackte Tänzerinnen)」(1909年)があります。荒削りな黒い輪郭線で舞台上の豊満な裸婦群を踊るように表現したこの作品には、キルヒナーのアトリエで繰り広げられた活気ある情景が色濃く投影されています。また、油彩画では、当時の恋人を描いた「座る女」(1907年)が特に有名です。

ブリュッケ結成から間もない1906年、キルヒナーたちはドレスデン市内の展示室を借りて初のグループ展を開催しました。テーマは彼らが熱心に取り組んでいた裸婦像で、夜な夜なアトリエで描かれた奔放な裸婦画が中心に据えられました。しかし一般の評価は冷たく、最初の展覧会は来場者もほとんどなく失敗に終わります。それでも彼らはめげずに活動を続け、8年足らずの間にドイツ各地で約70回もの展覧会を開催して徐々に知名度を高めました。キルヒナー自身、この頃から木版画・エッチングなど版画制作にも力を入れ始め、粗い線と高いコントラストを活かした表現を多く生み出しています。彼の版画作品は大量に複製できる利点を活かし、前衛芸術の宣伝と普及にも役立ちました。
1907年から1911年にかけて、キルヒナーたちは夏季休暇を利用してモリッツブルク湖畔やバルト海のフェーマルン島へ何度も遊泳旅行に出かけました。そしてそこで自然の中で裸のモデルをスケッチし、水辺で戯れる男女を明るい色彩で描いた一連の油彩画は、ブリュッケの理想とする原始的で奔放な生活をそのまま映しました。例えば「モーリッツブルクの水浴者たち」では、生き生きとした筆遣いで裸の男女が湖で遊ぶ様子が描かれ、都会文明から解き放たれた官能的で健康的な生命力が表現されています。これらの作品には当時ドレスデン民族学博物館で目にしたアフリカ・オセアニアの原始美術からの影響もうかがえます。キルヒナーは「西洋文明の薄皮の下に潜む強大で時に破壊的な力」を信じ、芸術によってそれを解放できると考えていました。いわゆるプリミティブ(素朴)な異文化美術は、それを体現するものとして彼にとって魅力的であり、造形の単純化や荒削りな彫刻表現にも示唆を与えました。

1911年、キルヒナーは他のブリュッケの仲間とともにドレスデンを離れ、当時芸術の都として躍動していたベルリンに移住します。ベルリンでは刺激的な都会生活が待っており、キルヒナーの関心もそれまでの裸婦像から都市の群衆へと移っていきました。さらに彼はベルリンで運命の女性エルナ・シリングと出会い、1912年から生涯にわたってパートナーとなりました。エルナは元ダンサーで、華やかな都市の夜を知る女性でした。キルヒナーはエルナやその姉妹、友人たちをモデルに街娼や踊り子を題材とした作品を多数制作し始めます。
ベルリンに移ってからのキルヒナーの画業は円熟期に入り、1913年頃には「街の情景(Straßenszenen)」シリーズと呼ばれる一連の都会絵画を手がけました。代表作の一つ「ベルリンの街路」は、夜の大通りに立つ高級娼婦と黒服の紳士たちを描いた作品です。紫やピンク、青といった不自然な色の肌や陰影が用いられ、ざんざんとした筆触と歪んだ遠近法で群衆のざわめきと不穏な空気が表現されています。群衆の男性たちは顔の判別も難しいほど匿名的な「塊」として描かれ、一方で中央の女性たちだけが際立つ色彩と表情を持つことで、見る者の視線は都会に生きる孤独な個人へと誘導されます。当時のベルリンは繁栄と退廃が混在する大都会であり、キルヒナーはその魅惑と不安を自らの内面になぞらえるようにキャンバスに焼き付けたのです。

個人的な充実の一方で、ブリュッケの仲間との関係は悪化の一途を辿ります。キルヒナーはグループの結束を取り戻そうと『ブリュッケ年代記』という文書を執筆し1913年に発表しましたが、その内容が自画自賛的で独善的だとして仲間たちは激怒しました。彼らはキルヒナーの態度を「自己中心的すぎる」と非難し、ついに同年ブリュッケは解散に至ります。結成からわずか8年での瓦解でした。解散後、キルヒナーは孤独な個人芸術家として独立を余儀なくされます。しかし、皮肉にも、1913年は彼にとって初の個展がエッセンのフォルクヴァング美術館で開かれ、画家として一人立ちする転機ともなりました。以降、彼は自身の名声確立に執心し、評論家の評価にも神経を尖らせるようになります。後年、彼が「ルイス・ド・マルサル」という偽名で自分の作品評を執筆し世間に発表したのは、この時期芽生えた自己顕示欲と評価への不安の表れと言えるでしょう(実際に1920年代、彼は複数の芸術雑誌に架空の評論家名義で自作を称賛する記事を寄稿しています)。キルヒナーのプライドの高さと繊細さは、こうしたエピソードからもうかがえます。
1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発しました。この時、キルヒナーは以前から軍隊への恐怖を抱いていたにもかかわらず、自ら志願してドイツ軍に入隊します。背景には、招集を受け入れるよりは自発的に従軍先を選んだ方が良いとの判断や、一種の愛国心もあったとされています。彼は予備砲兵連隊の運転手訓練に配属されましたが、軍隊生活は繊細な芸術家の心身を蝕み、極度の緊張と不安からやがて神経衰弱(戦争神経症)を発症します。1915年7月、訓練中のキルヒナーの様子を不憫に思った教官の尽力もあり、彼は正式な前線配属を前に一旦召集解除となりました。しかし安心したのも束の間、その直後に重度の精神障害を起こし、年末にはフランクフルト近郊の療養施設に入院する事態となりました。
この時期のキルヒナーの精神状態は、1915年に描かれた「兵士としての自画像」に象徴的に表れています。画面には軍服を着た自画像のキルヒナーが描かれていますが、彼の右腕は肘から先が血まみれで切断され、そばには過去に自身が好んで描いた裸の女性モデルが青ざめた顔で立っています。実際にキルヒナーは戦場で負傷したわけではありませんでしたが、しかし、彼はこの絵で「絵筆を握る右手を奪われる」という悪夢的な喪失感をあえて描き出しました。自由奔放に創作してきた自分が、戦争という圧倒的な現実の前でいかに無力であるか――その恐怖と虚脱を示したのです。絵の中でキルヒナーは戦場ではなく薄暗い画室に立っています。軍服は着ていても、もはや創作の場であるはずの画室で自分の手は切り落とされ、キャンバスには何も描けない。背後の裸婦モデルは創造力の象徴とも読めますが、彼女も生気を失ってこちらを見つめています。この痛ましい自己像から、キルヒナーが内面的に感じた深い無力感がひしひしと伝わってきます。

療養生活に入ったキルヒナーは、一時絵画から離れますが、それでも絵への執念は捨てきれませんでした。療養先では医師からアルコール中毒や睡眠薬依存の診断も受け、身体的にも精神的にも不安定な状態が続きました。しかし不思議なことに、一時帰宅が許可されるとキルヒナーはふらふらの体でアトリエに戻り、夢中で絵を描きました。1916年にはフランクフルトの画廊で作品展が開かれると多くの作品が売れ、経済的に持ち直すとともに自信も多少回復します。ところが同年末に再び深刻な神経発作を起こし、ベルリン市内の別の療養所に緊急入院するという悪循環に陥りました。
転機が訪れたのは1917年です。知人の勧めで、スイス人医師ルシウス・シュペングラー博士がいるアルプスの保養地ダボスで治療を受けてみることになったのです。ダボスではシュペングラー博士の指導のもと、山中のスタフェラルプにある山小屋での療養生活が始まりました。すると、その山小屋生活の中で不思議なことに気力が戻り、キルヒナーは高山の風景画のために筆を取り始めました。「この高い山々はきっと私を助けてくれる。私は世界の中に残り、この世界のために生きたい」キルヒナーはそう明るい言葉をシュペングラー博士宛ての手紙に記し、「アルプス生活の幕開け」と後に称される創作の再出発を果たしました。
1918年、戦争が終結する頃には、キルヒナーは晴れてスイスでの永住許可を得てダボス近郊フラウエンキルヒ村の山荘「イン・デン・レーエルヒェン」に移り住みます。彼は一階に部屋を借り、後に上階も借り増して住居兼アトリエとしました。キルヒナーは友人に宛てて「レンブラントの仕事場のように美しいグラウビュンデン(当地の州)の古い家に住んでいるよ」と書き送り、山暮らしの充実ぶりを語っています。完全に健康を取り戻したわけではありませんでしたが、モルヒネの量も徐々に減らしていきました。
また、アルプスでの生活は、キルヒナーの人間性にも良い変化をもたらしました。大戦後はドイツからの観光客も減り、山村の人々と交流しながら静かに制作に打ち込みました。キルヒナーはこの地元の農民たちの生活に深く魅了され、自ら進んで村人と交流しました。蓄音機(グラモフォン)を持っていた彼は村の若者に西洋音楽を聴かせて喜ばれたりもしました。彼は「ここの人々は誇り高い。大きな愛情をもってなされる過酷な労働、動物への接し方(動物を虐めるのをまず見かけない)――そうしたことが彼らに誇りを与えている。多くの場合、仕事は愛情をもって行われ、その手の動きにも表れている。それが顔つきにも気高さを与え、人付き合いにも繊細さをもたらす。この地では民主主義が現実となっている。人の言葉に重みがあり、扉を開けたまま寝ても何も心配のいらない所だ。私はここに居られることが本当に幸せで、せめてもの恩返しに精一杯働いて作品を作りたい」と綴りました。こうした手紙からは、自然と素朴な生活への賛美にあふれたキルヒナーの新たな価値観がうかがえます。それは同時に、戦争で傷ついた自身を癒やし再生させるための拠り所でもあったのでしょう。
制作面でも好調でした。1919~20年には健康が回復し、スイスやドイツ各地で展覧会が開かれて評判も高まりました。農村の労働や祭り、アルプスの四季折々の風景など、新天地ダボスでの題材は尽きず、彼は喜々として絵筆を走らせました。代表作としては、深い峡谷と紅葉を描いた「秋のザーティヒ渓谷」や「教会のあるダボス」が挙げられます。それまで人物主体だったキルヒナーの作品に、雄大な山岳風景が数多く加わったのはこの時期です。ただし単なる風景画ではなく、彼独特のデフォルメと色彩感覚で抽象性を帯びた表現になっています。色面は互いにくっきりと輪郭づけられ、原色に近い色同士が強烈なコントラストを成す「新様式」が確立しました。

一方で、1920年代のキルヒナーは自身の評価を高めることにも熱心でした。ドイツでは彼を含む表現主義は戦後すぐ新即物主義など新しい潮流に押され気味で、忘れられつつありました。そのため、キルヒナーは前述の筆名ルイ・ド・マルサルを用いて雑誌に自作批評を載せ、自分の芸術の正当性を訴えるという前代未聞の自己プロデュースも行っています。また、1921年にベルリンで大規模な作品展が開かれ好評を博した際には自らも現地を訪れ、評論家や若手芸術家たちと交流しました。
1923年にはパートナーのエルナもベルリンから呼び寄せ、ダボス近郊のヴィルトボーデンという場所に新居を構えます。日記には「我々の新しい小さな家は本当に素晴らしい。ここから人生の転機が始まるだろう。全てを整理し、この家は可能な限り質素で美しく親密なものにしなければ」と綴られています。この家からはフラウエンキルヒ村とスタフェラルプの山並みが見渡せ、キルヒナーはその風景を題材に多くの作品を描きました。静かな家庭生活に恵まれた一方で、彼は1926年に旧友ロットルフから「新しいグループを作らないか」と誘われましたが丁重に断っています。もはや彼にとって芸術運動の旗振り役となることより、孤独でも自分の内面的ヴィジョンを追求する方が大事だったのでしょう。この頃から彼の画風はさらに抽象化を増し、人間や風景も分解された形と色彩によるパターンとして表れるようになります。
しかし、1930年代に入ると、キルヒナーは徐々に健康面の不安を再燃させます。ヘビースモーカーだった彼は1930年頃から肺を患い、また長年使用してきた鎮静剤やモルヒネの後遺症もあってか、体力の衰えが目立ちはじめました。一方で芸術家としての評価は高まり続け、1931年にはベルリン芸術院の会員に選出されます。ただ、1933年にドイツで成立したナチス政権により彼の運命は決定的に暗転しました。ヒトラー政権は近代美術を敵視し、特に表現主義など前衛芸術を「退廃的」と断じて排除し始めます。キルヒナーも例外ではなく、彼がせっかく得た芸術院会員の座はわずか2年で辞任を余儀なくされました。さらにナチス政府は1937年、大規模な「退廃芸術展」をミュンヘンで開催し、国内の前衛美術作品を嘲笑・糾弾の的にしました。キルヒナーの作品も600点以上がドイツの公立美術館から没収され、そのうち32点がこの展示会で晒しものにされたのです。
この報せは、遠くスイスで静かに暮らしていたキルヒナーにとって大きな精神的打撃となりました。ドイツ国内では彼の名誉は地に落ち、作品は売ることも叶わなくなります。彼はハーゲマン博士への手紙で「ひどい噂が聞こえてくる…20年かけて築いた文化的成果が美術館で破壊されている。我々がブリュッケを立ち上げたのは真にドイツ的な芸術を国内で興そうとしたからなのに、それが今では非ドイツ的だと言われる。いったいどういうことか。本当に参ってしまう」と嘆いています。ナチスの宣伝相ゲッベルスは表現主義者たちを「精神病者か詐欺師」と罵りました。自らが青春を捧げた芸術が祖国で否定され、踏みにじられる現実に、キルヒナーは深く心を痛めました。それでも彼は創作を止めませんでした。追放状態の身ながら1936年にはバーゼルで大規模な回顧展を開きますが、批評は賛否が分かれ、ますます不安を募らせます。
ナチスの圧力に加え、身体の不調もキルヒナーを追い詰めました。50代半ばになると、慢性的な肺疾患に加え関節リウマチの痛みや不眠にも悩まされ、鎮痛薬などが処方されましたが効果は限られていました。心身の衰弱が進む中、1938年3月には隣国オーストリアがナチス・ドイツに併合されます。この知らせは、スイスに逃れている自分もいずれ侵略の魔の手にかかるのではないかという強い恐怖をキルヒナーに抱かせました。実際、彼は万一に備えて自宅の作品を自ら破壊し始めたと伝えられています。完成した油絵を絵具で塗り潰したり、木彫や版画の版木を焼いて処分しようとした形跡が残っているのです。創作者として自らの分身のような作品を手にかけねばならなかった彼の心境は、察するに余りあるものがあります。
そして、1938年6月15日、ついにキルヒナーは自決という最悪の選択をします。フラウエンキルヒ近郊の自宅前でキルヒナーは拳銃自殺し、その生涯を終えました(享年58歳)。
最愛のパートナーであったエルナはその後もこの家に留まり、第二次世界大戦終結後の1945年に亡くなるまで彼の作品を守り続けました。
キルヒナーの人柄は、自由奔放でありながらも繊細で、自尊心が強い反面孤独を恐れるという二面性を備えていました。若き日には自然の中で裸体生活を送り、アトリエで仲間と愛欲と創作の日々を送る奔放さがあった一方で、自分の評価や芸術の意義に人一倍こだわり、認められないと感じれば偽名を使ってでも世に訴えようとしました。また、戦地で心を病んだ後は山中の静寂に救いを見出し、素朴な村人との交流に人間の本当の豊かさを感じるという精神的成熟も遂げています。彼の人生は、近代の激動に振り回されつつも芸術によって自己を探し続けた旅路だったと言えるでしょう。
