「また会おうね」
「いってらっしゃい」
夫を仕事へと送り出す。その時にふと見せた心配そうな表情を、咲はあえて無視した。
まだ触れられると痛い。だから見ないふりをする。
忙しくしていれば考えなくてすむ。
いつも以上に丹念に家事をこなしていく。
皿もシンクも、必要以上に磨き上げた。
何かを消すみたいに。
いつもだったら、仕事にいくために、慌ただしく家を出ていかなければならない。だから家事も必要最低限だった。
でも今なら追われる仕事もない。
代わりに追ってくるのは深い悲しみ。
気が付くと、家事の手は止まって虚空を見つめて考えていた。
あのとき無理をせずに休んでいたら。もっと早く病院に行っていたら。
あの子は今もわたしのお腹の中にいてくれたのかもしれない。
気づけば右手がお腹に当てられていた。
こんなこと考えても意味がない。
止めよう。
もっと前向きにならないと。
そうでないと、夫にも親にも心配をかけてしまう。
咲は自分の頬を両手で軽く叩くと、しばらく手をつけずに放置し、山にしてしまった手紙に向かった。
通販の会社が送って来た広告。クレジットカードの利用明細。
そして友達からの手紙。
気力を振り絞って開封すると、中から出てきたのは、小さな手編みの靴下だった。
頭では思った。
かわいい。心を込めて作ってくれたんだね。
でも心をよぎった思いは、正反対だった。
――耐えられない
心が握りつぶされ、呼吸もままならない。
ぎゅっと瞑った目の奥が、真っ赤に染まる。
考えたくない。もう失ったものに手を伸ばして、自分で自分の首を絞める行為はしたくない。考えれば考えるほど、自分の中にいたあの子の空間に、凍えた風が吹き抜けていく。
咲は自分の周りにある世界を遮断するように、頭を手で覆った。
もう何も考えたくない。
そう思ったときだった。
咲の耳に届く声があった。
子犬の上げる寂し気な鳴き声。
近所にも子犬を飼っている人はいない。
それに声の近さからいっても、子犬は自分の家の庭にいる様子だ。
子犬が助けを求めて、わたしを呼んでいる。
咲が玄関のドアを開けると、子犬のふかふかした白い体がうずくまっているのが見えた。
植木鉢の奥に頭を突っ込むようにして、怖い世界から自分を守ろうとしてる。
「わんちゃん、どうしたの? お母さんはどこ?」
咲が声をかけると、子犬が振り返り、目のあった咲に尻尾を振り始める。
「こっちにおいで。一緒にお母さんを探そうか?」
咲が手のひらを子犬の前に差し出すと、くんくんと匂いを嗅いだ後、ぺろりとなめた。
「抱っこしてもいい?」
咲が子犬のお腹の下に手を入れても、子犬は黙っていた。
そっと抱き上げた体は、暖かくて柔らかい毛に覆われていて、子犬独特のにおいがした。
赤ちゃんは甘い母乳の香り。
子犬は母犬に包まれて眠った体温と、草の上で眠った、まだ世界にすり減らされていない命の香り。
咲はその愛おしさに、子犬をぎゅっと胸に抱きしめた。
子犬もそれに応えるように、顔を咲の胸にうずめて「くーん」と鳴く。
「とってもかわいい子だね。どこからやって来たの?」
咲が問うと、子犬は顔を上げ、咲の鼻先をペロリと舐めた。
「ヤダ、くすぐったいでしょう」
伸びあがって、さらに顔を舐めようとする子犬に、咲が笑い声を上げた。
だがその笑い声は、次第に泣き声へと変わっていった。
こんな風に、あの子をこの腕に抱きしめたかった。
たくさんしてあげたいことがあった。
じっとわたしを見つめてお乳を飲むあの子は、どんなに可愛かったことだろう。
甘い香りのあの子の匂いを嗅いで、一緒に眠りたかった。
あふれ出した思いが涙となって溢れ、泣き声を抑えることができなかった。
子犬のふかふかのお腹に顔をうずめ、抑えていた気持ちを吐き出すしかなかった。
びっくりした様子の子犬はしばらく固まったように動かなかったが、しばらくするとばたばたと暴れだし、涙を流し続ける咲の顔をじっと見つめていた。
そして熱い舌で「もう泣かないで」と訴えるように、涙を舐めていく。
ため込んで抑え込んでいた心の痛みは、激しい濁流となってあふれ出した。
でも流れきってしまえば、そこにあるのはしばしの放心だった。
「急に泣き出してごめんね。びっくりしたよね」
咲は子犬の頭を撫でながら、自分の本当の願いを受け止めて、胸の中の大事な宝箱の中にしまった。
子犬が顔を上げ、元気よく「ワン」と鳴く。
それに応えるように、母犬の大きな鳴き声がした。
子犬は道の先に現れた母犬を見つけると、叫び声のような歓声を上げて駆けていく。
「お母さん、見つかった良かったね」
声をかける咲に、子犬が振り返り、母犬も咲を見上げる。
――うちの子がお世話になりました
――バイバイ、お姉ちゃん。
そんな声が聞こえてきそうだった。
咲は手を振って犬の親子と別れ、家の中に戻る。
机の上には、ついさっき拒絶した、友達の手紙が開かれたままになっていた。
封筒からは、小さな赤ちゃんの靴下と一緒に、袋に入れられた何かがあった。
そっと手に取る。
すると香ったのは心を癒すラベンダーの香りだった。
小さなレースで覆われた枕のようなサシェ。
手紙には友達からのメッセージが書かれていた。
――あなたと生まれてくる赤ちゃんが、心穏やかでありますように
咲はラベンダーのサシェを胸に抱きしめた。
あの子を育んだ自分を誇りに思おう。
わたしの元に来てくれたあの子を、これからも大切に思い続けよう。
「わたしのところに来てくれてありがとう。いつか、また会おうね」
咲の耳に、囁く声が聞こえた気がした。
――また会おうね、ママ。
〈了〉

「香りは、思い出を消さない。
そばに置いてくれる。」
次の香りは「タイム」です。
どんな物語を運んできてくれるのか、森の本屋の木陰でお待ちください。
