なぜ私は「国策としてのアニメ推進」に反対するのか―表現の自由と「フェチ」の歴史
日本のアニメを「国策」や「基幹産業」として推進しようとする動きがあるが,業界としてこの傾倒には明確に首を振るべきだと考える。その最大の理由は「表現の自由」と「創作の源泉」が損なわれるからだ。
かつて『キューティハニー』が世間の眉をひそめさせ,『機動戦士ガンダム』が勧善懲悪を排して人間の泥臭いエゴを描いたように,日本のアニメは国家や社会の「規範」からあえてはみ出し,世間の評価と戦いながら独自の進化を遂げてきた。
「俗悪なテレビマンガ」と蔑まれていた文化が世界の評価を得たのは,権力や市場の都合ではなく,クリエイターたちの「狂気的なこだわり(フェチ)」があったからに他ならない。
創作の真髄たる「フェチ」や「こだわり」は,作った人々にしか理解できないものがあり,政治的正しさや効率を求める「国策」や「AIの自己規制」と最も相性が悪い。
万人に受け入れられるクリーンな作品ばかりを求めれば,かつてのエロアニメや過激な表現の中に潜んでいたかもしれない「新しい才能や技術の芽」すら事前に摘み取ってしまう可能性を孕む。
お金や余計な指示はいらない。制約の中で磨かれてきた「フェチの塊」こそが日本のアニメの歴史であり,それを守るためにも,国家からの独立と表現の自由は決して手放してはならない。
