見出し画像

塩のハイウェイ第4話: 芝山古墳群の埴輪が語る「さきたま」ブランドの逆流

はじめに

「芝山に並ぶ異形の埴輪たち。彼らはなぜ海を向いているのか。それは、ここが外洋の風が届く『限界点』だったからではないか。異人を村には入れず、その富と装いだけを剥ぎ取り、内陸へと繋いでいく。記録に残らない海民たちの影が、芝山の境界線から読み取る事ができます。


芝山古墳群の埴輪

芝山古墳群の埴輪は、さきたま(生出塚)産の土で焼かれています。なぜ100km離れたブランドが海辺に届いたのか?
この埴輪は、ユダヤ人みたいだとして国の重要文化財に指定され、研究が進んでいます。
明らかに渡来人の様な埴輪があるにも関わらず、芝山には独自のファッションが残されています。

顔に赤い装飾
埴輪生産跡地


芝山の「異形の埴輪」のような特徴(高い帽子、長く垂らしたもみあげ、独特の衣装)を持つ埴輪は、実は他の地域でもいくつか見つかっています。
しかし、それらが「セット」で、かつ「海に向かって行列をなす」という圧倒的なスケールで出土したのは芝山が随一です。他での出土例とその意味を整理してみましょう。

45体がズラリと並ぶ


1. 埼玉県「生出塚(おいねづか)埴輪窯跡」周辺
記事でも触れた「埴輪の供給元」である埼玉県鴻巣市周辺です。
出土例: 芝山に送られたものと同じ「帽子を被った人物」や「正装した人物」が出土しています。
ポイント: つまり、あの独特のファッションは、埼玉の職人がすでに「レパートリー」として持っていたデザインだということです。職人たちは、物流の拠点である「さきたま(行田)」や、そこに出入りする商人たちの姿をみて作ったのでしょうか。
2. 群馬県(保渡田古墳群など)
東国最大の古墳大国である群馬県も、非常に写実的な埴輪が多く出土します。
出土例: 高い帽子を被り、盾を持つ武人や、独特の盛装をした人物が見つかっています。
ポイント: 群馬は「馬の産地」の総本山です。「塩のハイウェイ」の終着点の一つとして、富が集まっていた場所。ここにも、外来の文化や「異国の風貌」を模した埴輪が存在します。
3. 「ユダヤ的」に見える理由の考古学的解釈
これらは考古学的には「ユダヤ人」というよりは、「渡来系(大陸・朝鮮半島、あるいはさらに西のシルクロード系)の服飾を忠実に再現したものと考えられています。
美豆良(みずら): もみあげに見えるのは、古代日本の貴族や武人がしていた「みずら」という髪型です。これがユダヤ教徒の「ペイオト」に酷似しているため、日ユ同祖論の根拠にされることが多いです。
胡服(こふく)の影響: 当時、シルクロードを通って大陸から伝わった「胡服(ペルシャ系の服)」が最新のファッションとして東国の豪族の間で流行していました。

4. なぜ芝山が「特別」なのか


他でも出ているのに、なぜ芝山のインパクトが強いのか。それは「並び方」と「場所」にあります。



他地域では、埴輪は古墳の周りをぐるりと囲む(聖域を守る)ように置かれるのが一般的です。
しかし芝山では、「海から来る者」を待ち構え、あるいは「内陸へ入る者」を検閲するかのように、海に向けて整列していました。

埼玉や群馬で見つかる同種の埴輪は「豪族の権威(自分はこんなに立派な服を着ている)」を象徴していますが、芝山では、その異形の集団が「物理的な境界線」として機能しているように見えます。

記録に残らない「生きた情報の終着点」

「芝山より先には入り込まなかった(入れなかった)」という仮説。

文字記録に残る「公式な使節」ではなく、塩や馬を扱う「実務的な国際商人(海民)」たちは、芝山という「海の関所」で荷を降ろし、そこから先の内海ルートは地元のネットワークに委ねる……という暗黙の棲み分けがあったのかもしれません。だからこそ、その「契約の記憶」を留めるために、芝山にだけあのような異形の集団が「行列」として残されたのではないでしょうか。

もしこれらの「異形の埴輪」が外洋から来た商人や特定の集団をモデルにしているなら、芝山が彼らにとっての「上陸の限界点」であり「契約の場」であった可能性が見えてきます。

1. 芝山は「外洋」と「内海」の境界線地形で見ると、芝山は九十九里浜の背後に位置し、太平洋(外洋)から直接アクセスできる数少ない高台です。
外洋を渡ってきた「国際商人」や「異国の技術者」にとって、芝山は最初に出会う巨大なランドマーク(古墳)だったのではないか。

ここから先(内陸側)は、複雑な入り江や利根川水系の「内海ルート」に変わります。外洋航行用の大型船から、内海用の小回りが利く船や、あるいは資料にあるような「馬」へと、物流の主体が切り替わるポイントです。

2. 「これより先は立ち入り禁止」のモニュメント埴輪が古墳の横に海を向いて並んでいたということは、彼らが「海の向こうから来た客人」を迎える列であると同時に、「ここから先(内陸)は我々の聖域である」という境界線を示していたのかもしれません。

異国の商人は、芝山で内陸の豪族(武社の国造など)と対面し、塩や馬、あるいは最新の工芸品と自分たちの持ち物を交換した。

内海(さきたま方面)へ直接入ることを許さず、芝山を「通関」の拠点とすることで、情報の独占と安全を確保していたと考えられます。

3. ユダヤ的風貌の謎と「海民」の写実

画像にある「髭の武人」や「帽子を被った人物」は、明らかに当時の「平均的な農民」とは一線を画す格好をしています。
生出塚(埼玉)の職人が見た風景: 埼玉の職人がわざわざ芝山の埴輪を作った際、彼らは「港(鷺沼や芝山の周辺)」で見かけた、それまで見たこともない異様な格好の集団をモデルにしたのではないでしょうか。

特定の民族として定住したのではなく、あくまで「季節風に乗ってやってくる期間限定の商人」であったなら、定住の記録は残りにくく、強烈な視覚的インパクトだけが埴輪という形で残った……というシナリオです。


  1. 渡来系ファッションがステイタスになった

筒袖、みづら、山高帽、髭は国際トレンド。
東国豪族にとって採用=ステイタスに繋がったのではないか。

塩運びの帰り船に積まれた埴輪は重し+ステイタス商品。というルートはどうでしょうか。

  • さきたまブランドはステイタスとして採用。

  • 服は流行を取り入れ、顔・造形は海民伝統を維持。

外来を「自分のもの」に変える力。顔も服も芝山オリジナルの埴輪こそ、東国誇りの象徴です。

芝山はにわ祭は、毎年11月の第二日曜日に、町をあげて開催されるお祭りです。
そこでは実際のメイクや服を着て当時を再現します。是非見てみたいと思います。
はにわ祭りのページ↓

https://www.haniwakan.com/matsuri/top.html


次回は、さきたま古墳のさらに奥から山の向こうを探ります。
山の向こうは、律令国家の縄張りです。今あるものを見ていては絶対に辿り着けない、「消された関」と絶対に消せない「塩ハイウェイ」を重ねて
卑弥呼の道を辿ってみます。


いいなと思ったら応援しよう!