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蓮如上人のお手紙 自問自答

平生業成。

不来迎。

……まあ、普通に聞いたら、

何のことだか、さっぱり分かりませんよね。

仏教の言葉は、
時々、入口で人を追い返してしまいます。

ですから今日は、
思い切って簡単に考えてみます。

まず、

平生業成。

これは何か。

私は、

「極楽浄土へ行くパスポートを、もう今いただいている状態」

と考えると分かりやすいと思っています。

極楽往生というと、

人が亡くなってから、

「さて、この人は極楽へ行けるのでしょうか」

と審査されるようなイメージを持つ方もいるかもしれません。

でも、浄土真宗はそうではない。

阿弥陀さまの本願を信じ、
信心が定まったなら、

死んでから往生が決まるのではありません。

たった今。

生きているこの身のままで、

「往生は定まりましたよ」

という身になる。

これを、

平生業成

と味わえばよいと思います。

平生とは、

普段、生きている今。

業成とは、

往生の大事が定まったということ。

つまり、

生きている今、もう行き先は定まっている。

そこで次に出てくるのが、

不来迎。

これも難しい。

亡くなるとき、

「阿弥陀さまは、本当に迎えに来てくださるのだろうか」

「ちゃんと来迎してくださるだろうか」

と心配する。

でも、

ちょっと待ってください。

もうパスポートを持っているじゃないですか。

往生がすでに定まっているのなら、

臨終のときになって、

阿弥陀さまが来てくださるかどうかを心配して、
往生の成否を確かめる必要はない。

これが、

不来迎ということです。

もちろん、

「阿弥陀さまは迎えに来ない」

という意味ではありません。

来迎を待たなければ、往生が決まらないのではない。

そこが大事なのです。

パスポートを持っているのに、

空港へ行くたびに、

「本当に私は入国できるでしょうか」

と震えているようなものです。

いやいや、

あなた、

もう持っていますよ、と。

それが信心です。

だから浄土真宗では、

臨終の一瞬だけが大事なのではありません。

死ぬ間際に心を整えられるか。

念仏を称えられるか。

立派な最期を迎えられるか。

そこに救いが懸かっているわけではない。

認知症になるかもしれない。

意識を失うかもしれない。

念仏を称えることすらできないかもしれない。

それでも大丈夫。

なぜなら、

往生はその瞬間に初めて決まるのではないからです。

平生に、すでに定まっている。

これほど安心できる教えはありません。

私は思います。

平生業成とは、

死後の話だけではない。

今を安心して生きるための教えです。

行き先が定まっている。

だから、

今日を生きる。

仕事をする。

家族と暮らす。

失敗する。

腹を立てる。

悩む。

笑う。

そして、

南無阿弥陀仏。

死ぬ間際まで、

往生できるかどうかを心配し続ける必要はない。

もう、

パスポートをいただいているのです。

ですから、

平生業成。

生きている今、
往生が定まる。

そして、

不来迎。

臨終の来迎を、
往生の条件として心配しなくてよい。

難しい言葉ですが、

私はそんなふうに受け取っています。

阿弥陀さまは、

「最後までちゃんとできたら救う」

とおっしゃっているのではありません。

もう、まかせなさい。

その安心の中で、

今日もまた、

この娑婆を生きていけばよいのだと思います。

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