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【Gayおじさんの独り相撲】 炎上とFunnyの狭間。偏見に満ちたSNSを泳ぐ


画面を一枚スクロールするたびに、胃のあたりが重くなるような悪寒が走る。
今のSNSのタイムラインは、もはや情報交換の場でもなければ、緩やかなコミュニケーションのプラットフォームでもない。そこにあるのは、他者の不幸を貪り食うハイエナたちの群れと、一瞬の「バズ」のために倫理をドブに捨てた亡者たちの見世物小屋だ。

「人を傷つけてはいけない」 そんなものは、幼稚園の砂場で教わるはずの、人間社会における基本中の基本の倫理観ではなかったか。

しかし、今のSNSにおいて、その倫理観は綺麗さっぱり蒸発している。
誰かを指差し、偏見を浴びせかけ、泥を塗りたくる行為が「Funny(おもしろおかしいエンターテインメント)」として消費され、札束に換算される。炎上商法はもはや特異な手法ではなく、日々の食い扶持を稼ぐための「常態化したビジネスモデル」に成り下がった。

世間では「ネットの普及で誰もが発信者になれる素晴らしい時代になった」などと無邪気に謳われているが、現実はどうだ。

一般人が自分用の小さなメディアを手に入れた結果、露わになったのは、30年前の底の浅いワイドショーや、悪趣味な雑誌の三面記事と何ら変わらない、いや、それよりもさらに醜悪でねっとりとした大衆の悪意のマグマだった。

知性の崩壊に、もはや歯止めはかからない。 この腐り切ったSNSの海を泳ぐとき、私たちは一体何に直面しているのか。その不条理の正体を冷徹に暴き出す。


30年前から何も変わっていない――「悪口と決めつけ」のアップデート失敗

「ネットが普及し、個人のリテラシーが向上すれば、社会はより知的で寛容なものになる」

そんな希望的観測は、とっくの昔に粉々に打ち砕かれた。

かつて、平成の初期。悪趣味なバラエティ番組で素人が晒し者にされ、下世話な週刊誌のゴシップが街のキヨスクを賑わせていた時代。私たちは「インターネットがあれば、マスメディアの偏向や低俗さから抜け出せる」と信じたかった。

だが、蓋を開けてみればどうだ。
スマホという名の小型テレビ局を全員が持ち歩くようになった現代、やっていることは30年前のそれと1ミリも変わらない。いや、劣化していると言っていい。

  • 「こいつはこういう人間に違いない」という根拠のない決めつけ

  • 相手の人格や外見を嘲笑うための悪口

  • 正義の仮面をかぶった、集団でのいじめ・リンチ

これらが「ユーモア」や「社会風刺」「物申す系コンテンツ」というお洒落なガワを着せられ、タイムラインに垂れ流されている。
30年前なら「品がない」と一蹴されたはずの悪意が、現代では「エンターテインメント」という免罪符を与えられ、いいねの数やインプレッションという数字の麻薬に変換されているのだ。

人間は、テクノロジーがどれだけ進歩しようとも、根本的な残酷さや野蛮さをアップデートすることに失敗し続けたらしい。道具がスマートになっても、それを使う人間が中世の魔女狩りの時代から一歩も前に進んでいないのである。

一般人がメディアを持った地獄――「素人の悪意」が最もタチが悪い理由

かつての「悪趣味」は、まだプロの作り手(メディア)が介在していた分、どこか客観的なシニシズムや、フィクションとしての割り切りがあった。

しかし、一般人が簡単にメディアを持てるようになった現代は、その防波堤すら完全に決壊した。
プロとしての倫理観も、編集というワンクッションもない。そこにあるのは、私生活で鬱屈した一般人が、スマホの向こうで「自分が主役の裁判官」になりきって吐き出す、純度100%のドロドロとした私怨と偏見の垂れ流しだ。

「炎上すれば勝ち」
「インプレッションが稼げれば、モラルなんてどうでもいい」

彼らにとって、他人の尊厳を踏みにじることは、自らの承認欲求を満たし、小銭を稼ぐための「効率的なゲーム」にすぎない。
街で見かけた見知らぬ人を隠し撮りしてネットに晒し、「電車でこんな迷惑行為を発見」と一刀両断する。不祥事を起こした人間のSNSを特定し、家族や親族にまで凸撃して「社会正義」を執行した気でいる。

一般人がメディアを持った結果、世界が広がったのではなく、世界中が「村八分の広場」に縮小してしまった。
誰もが誰かを監視し、少しでも自分たちの「常識(という名のローカルルール)」から外れた人間がいれば、石を投げつける。そのグロテスクな光景が、今のSNSの日常風景である。

共犯者たちの罪――「受容する側」の知性が崩壊している

ここで最も深く絶望しなければならないのは、この悪趣味な見世物を生産しているのが「作り手だけではない」という事実だ。

炎上商法がこれほどまでに横行し、他者を傷つけるコンテンツが次々と生み出されるのは、なぜか。 答えは単純である。それが死ぬほどウケるからだ。
それを面白がり、クリックし、拡散し、養分を与えている「受容する側(大衆)」が圧倒的に存在し続けるからだ。

「いや、私は批判する側で見ていただけだ」などと言い訳をするな。
野馬になって見物し、面白半分にリポストし、コメント欄で石を投げているその「消費のカロリー」が、炎上タレントや迷惑系配信者の燃料になり、彼らを延命させている。

民度と程度の低いものがバズり、知的な抑制の効いた発信が埋もれていく。

このアルゴリズムの暴走を生み出しているのは、他でもない、日夜スマホの画面をスクロールして「刺激」を求めてやまない大衆の飢えた欲望そのものだ。

受容する側の知性が崩壊しているからこそ、提供されるものも最高級の毒薬になる。
「こんな低俗なものを見せるメディアが悪い」と被害者面して文句を言う人間ほど、いざ誰かが大炎上した瞬間に、真っ先にポップコーン片手に野馬の特等席へ駆けつける。
作り手と受け手が互いに悪意を投げ合い、その泥沼のなかで共依存しているのが、現在のSNSエコシステムの正体なのだ。

偏見の海を泳ぎ切るために――私たちはどう向き合うべきか

「人を傷つけてはいけない」という幼稚園児レベルの倫理観すら保てなくなった人間が、あふれかえっている。
知性の崩壊に歯止めがかからないこの時代に、私たちはどのようにこのSNSの海を泳ぎ切ればいいのだろうか。

答えは一つしかない。 「加担しないこと」、そして「無関心という名の防壁を築くこと」だ。

どれほどタイムラインで怒りの声が叫ばれようとも、どれほど香ばしい炎上が目の前で燃え盛っていこうとも、そこに「いいね」を押し、リンクを踏み、議論(という名の罵り合い)に参加した瞬間に、あなたもその泥沼の住人に成り下がる。

悪意は、それを消費する人間がいるかぎり、絶対に枯渇しない。 炎上は、それに群がるハイエナが絶えないかぎり、永遠に鎮火しない。

「Funny(おもしろおかしい)」の皮をかぶった偏見と暴威の数々に、笑って迎合してはならない。
低俗なエンターテインメントに拍手を送ることは、自らの知性の死を宣言するようなものだからだ。

画面の向こうで誰かが叩かれ、血を流している。 その見世物小屋から目を背け、スマホを閉じ、静かな現実の空気を吸い込むこと。
私たちが人間としての最低限の尊厳を保つために残された手段は、いまやそれほどまでに狭められている。

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