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【Gayおじさんの独り相撲】 手のひら返しの『コンプライアンス遵守』 ─だけど、守らないといけないことは今も昔も変わらない─


「コンプライアンスのせいで表現の幅が狭まっている」 「今の時代、昔のような尖った企画は通らない」
「それでも私たちは、この厳しいコンプライアンスを遵守しながら、面白いコンテンツを作り続けている」

SNSを開けば、映像制作者、YouTuber、インフルエンサー、果てはかつては下世話な笑いを量産していたメディア関係者までが、こうして声高に「コンプライアンス遵守」を掲げている。

その姿を見ていると、背筋が凍るような気味の悪さと、吐き気がするほどの偽善を感じずにはいられない。

彼らの物言いの裏側にある本音は、透けて丸見えだ。
「本当はコンプライアンスなんか鬱陶しいけれど、それを華麗にクリアして、なおかつ面白いコンテンツを作っている俺たちって、優れていて素晴らしいでしょ?」
そんな自画自賛のポーズと、世間に対する媚びへつらいが、その言葉の端々からプンプンと臭ってくる。

だが、大前提として言っておきたい。
コンプライアンスという言葉が現代の免罪符のように持て囃されているが、「守るべき倫理観」など、今も昔も1ミリも変わってはいない。

彼らが大騒ぎしているコンプライアンスの正体とは、新しい時代の高尚なルールなどではなく、ただの「幼稚園児でも分かる当たり前の常識」でしかないのだ。

幼稚園児でも分かる「当たり前の倫理」を、なぜ今さらドヤ顔で語るのか

「コンプライアンス」「法令遵守」と聞くと、何か難解な法解釈や、企業法務の専門知識が必要であるかのように勘違いする者がいる。特に、頭の弱いクリエイター気取りたちはそうやって言葉を難しく言い換えたがる。

だが、少し頭を冷やして考えてみべきだ。私たちが守るべき一線とは、次のような極めてシンプルなものに過ぎない。

  • 他者に無用な迷惑をかけたり、不当に傷つけたりしてはならない。

  • 目の前の食べ物を粗末にしてはならない。

  • 人が嫌がるような暴言や嫌がらせをしてはならない。

  • 性別、外見、職業、年収、出身地などで、その人をひとまとめにして決めつけたり、見下したりしてはならない。

どうだろう?
これらは新しい時代のコンプライアンスでも何でもない。私たちが小学校に入る前、いや、幼稚園の砂場で泥団子を作っていた頃に、親や保母さんから耳にタコができるほど言われてきた「人間としての基本のキ」ではないか。

人を傷つけてはいけない。
物を大切にしなさい。

そんなもの、道徳の教科書の最初の一ページに書いてある当たり前のことだ。

それを、いい大人が「コンプライアンスの遵守」などという仰々しい横文字に変換し、さも「俺たちは時代の最先端の厳しいルールと戦っている」と言わばかりの顔で語っている。その姿が滑稽であることに、なぜ彼らは気づかないのか。

「タガが外れていた時代」を、勘違いの黄金期と呼ぶ滑稽さ

彼らが「昔はよかった、何でもできた」と口を揃える時代があった。
お茶の間では他人の尊厳を踏みにじるようなドッキリが平然と放送され、ネットの動画や深夜番組では、食べ物を粗末に扱ったり、特定の属性を笑いものにしたりするコンテンツが「面白い」ともてはやされていた。

だが、それは「表現の自由が許されていた黄金期」などではない。 単に、コンテンツの制作サイド、そしてプラットフォームの「タガが外れていただけ」の暗黒期にすぎない。

倫理的にアウトなこと、人間の尊厳を踏踏みにじるような暴力や差別は、その当時から「やってはいけないこと」として確実に存在していた。法律に触れようが触れまいが、人道的に許されないことは昔から許されていなかった。

ただ、当時はネットの拡散力が今ほど強くなく、被害者の声が社会全体に届きにくかったり、コンプライアンスを問う世論(あるいは告発のシステム)が未成熟だったりしたため、「見なかったこと」にされていただけだ。

ルールが厳しくなったのではない。 今まで野放しにされていた無神経な暴走が、ようやく「可視化され、許されなくなった」だけなのだ。

それを「表現の自由が狭まった」などと被害者面して嘆く連中は、要するに「他人の痛みを踏み台にし、誰かを傷つけることでしか笑いを作れなかった自分たちの無能さ」を、時代のせいにしているに過ぎない。

なぜ彼らは手のひらを返したのか:コンプライアンス遵守の裏にある「ただの保身」

では、なぜかつてはタガを外して暴れていたような連中や、それを面白がっていたメディアが、今になって急に「コンプライアンス遵守!」とクリーンな仮面をかぶり始めたのか。

理由はあまりにも生々しい。

訴訟や炎上による「金銭的・ビジネス的な不利益」が怖くなったから、それだけだ。

倫理観がアップデートされたわけでもなければ、他者への優しさに目覚めたわけでもない。ひとたび誰かを不当に傷つければ、即座にSNSで特定され、スポンサーが降り、過去の動画や番組がすべて収益化停止に追い込まれ、場合によっては億単位の損害賠償請求や社会的抹殺が待っている。

要するに、彼らが守っているのは「人権」でも「コンプライアンス」でもなく、自分たちの財布のひもと、安全なビジネスの継続である。

「炎上して稼ぎが減るのは嫌だ」
「企業の案件が来なくなるのは困る」

その保身の動機を隠すために、「コンプライアンス」という大義名分を盾に取っているのだ。

ビジネス的に不利益になるから「仕方なく」従っているだけなのに、あたかも自分たちが高い倫理観を持って自発的にそれを実践しているかのように振る舞う。その「手のひら返し」の姿勢こそが、最も不誠実で、コンプライアンスの本質を踏みにじっていると言えまいか。

変わらないものを「守る」ことに、言い訳はいらない

私たちが生きていく上で、あるいは何かを表現し、世の中に発信していく上で、本当に必要なものとは何だろうか。

それは、企業やプラットフォームに言われて渋々従うような「形骸化したコンプライアンスのチェックリスト」ではない。
また、SNSの顔色を窺いながら「炎上しないように言い訳を並べ立てる保身の技術」でもない。

他者に対する最低限の敬意。 誰かの痛みに想像力を働かせる知性。
そして、人を傷つけたり、踏みにじったりしなくても、面白いもの、美しいもの、心を揺さぶるものを創り出そうとする表現者としてのプライド。

それらは、時代がどう変わろうとも、SNSのアルゴリズムがどう進化しようとも、1ミリも変わることはない。幼稚園児でも分かる、人間としての「当たり前の原則」だ。

「コンプライアンスが厳しいから表現が制限される」などと、愚痴をこぼすのはもうやめにしろ。
規制のせいにしている時点で、お前の表現力の引き出しが最初から空っぽであると告白しているようなものだ。

ルールを守ることは、誇らしげに看板に掲げるような偉業ではない。息をするのと同じように、ただ「当然のことを、当然に守る」だけのことである。

言い訳がましいポーズは捨てろ。 私たちは、ただ人間として当たり前の線を踏み越えずに、己の表現に向き合えばいいだけの話なのだから。

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