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【小説】Sheet1社食に左遷されたエクセルおじさん、不死鳥(ミズアブ)と世界を救うSheet1:「えっ、左遷?ノートPCより重いものを運んだことがない俺が毎日重い生ゴミバケツを運んでいます」

社員食堂の調理場には、むせ返るような熱気と、油と湿気が入り混じった重い空気が滞留していた。
「おい新生! 手ぇ止まってんぞ! さっさとその生ゴミ、裏のコンテナに運んできな!」
ステンレスの調理台の向こうから、パートリーダーの女性の甲高い怒鳴り声が飛んでくる。
「は、はいっ! すみません!」
新生は慌てて頭を下げ、厨房の隅に置かれた巨大な青いポリバケツの取っ手に手を掛けた。 ズシリ、と腕の筋肉が悲鳴を上げる。水分をたっぷりと吸い込んだ残飯は数十キロにも及び、五十肩を抱える腕の関節に容赦なく食い込んできた。
(くっ……重い……!)
数日前まで、彼が持ち上げていた最も重いものといえば、会社支給のノートPCくらいのものだった。 息を切らし、額に浮かんだ脂汗が目に入って沁みるのを瞬きでごまかしながら、床を引きずるようにしてバケツを運ぶ。
わずか3日前——。 本社のデスクでいつものようにエクセルを開いていた彼の社内メールボックスに、一通の冷たい『異動辞令』が届いた。 新生は長年、部署内のあらゆる業務を複雑な関数とマクロ(VBA)で回してきた、いわば「エクセルの職人」だった。しかし、会社が全社的にAIを搭載した最新の業務システムを導入したことで、彼が心血を注いで組み上げてきた手作りの管理シートは「属人的で非効率」「もう古い」と、あっけなく切り捨てられたのだ。
そして辿り着いたのが、この怒号と熱気が飛び交う戦場のような調理場の裏方だった。
「ぐっ……!」
勝手口へと向かうわずかな段差。疲労で足が上がっていなかったのだろう。つま先が引っかかり、ついに腕の限界を超えた。 新生はバランスを崩し、生ゴミの詰まった重いバケツもろとも、コンクリートの床へ派手に転倒してしまった。
ドシャァッ!
鈍い音とともに、床一面に大量の残飯がぶちまけられた。 大根の切れ端、魚の骨、茶色く染まったご飯粒。それらがドロドロの汁とともに散乱し、むせ返るような強烈な腐敗臭が狭い通路に充満する。
「ちょっとぉ! 何やってんのよ! ホント、どんくさくて肉体労働に向いてないわね! 役に立たないんだから、せめて邪魔だけはしないでよ!」
容赦なく飛んでくるパートの罵声が、鼓膜を鋭く叩く。 新生は床に這いつくばったまま、「すみません……すぐ片付けますから……」と震える声で絞り出した。
素手で大きな残飯をバケツに投げ込み、急いで壁際のホースを引っ張ってくる。水を勢いよく出し、油と腐敗臭がこびりついたコンクリートの床を、デッキブラシで必死に擦り落とす。五十肩の腕と腰が悲鳴を上げたが、休むことは許されない。 惨めだった。会社からは「古いシステム」として見捨てられ、ここでは「役に立たないゴミ」として扱われる。自分の人生は、もう完全に終わってしまったのだ。床の汚れを洗い流しながら、新生は視界が滲むのを必死で堪えた。
ようやく水掃除を終え、集めた残飯のバケツを引きずって、勝手口の外にある巨大な専用コンテナへと放り込む。 その時だった。
「……ん?」
コンテナの底に溜まっていた古い残渣の山が、モゾモゾと不気味に波打っていることに気がついた。 薄暗い中で目を凝らすと、そこには無数の「黒っぽいイモムシ」のような虫たちがウジャウジャと蠢き、新生が今捨てたばかりの残飯の山へ、猛烈な勢いで群がり始めていたのだ。
(うわっ……なんだこの虫……!? ハエのウジか……!? 気持ち悪い……)
背筋に悪寒が走り、新生は慌ててコンテナの蓋を閉じた。
翌朝。 出勤した新生が、次のゴミ出しの準備のためにコンテナの蓋を開けると、そこには奇妙な光景が広がっていた。
昨日自分がぶちまけてしまい、惨めな思いでかき集めたあの数十キロにも及ぶ生ゴミの山が、跡形もなく消え去っていたのだ。 (あれ……? 業者が朝一番で、もう回収していったのか?)
そう思うしかなかった。しかし、不思議なことにあの鼻を突く悪臭は一切なく、代わりにコンテナの底には、雨上がりの森を思わせる、深く香ばしい匂いのする「サラサラの土」がふんわりと積もっていた。
その日の夕方。 勝手口にけたたましいディーゼルエンジンの爆音が響いた。
「ちわーす、産廃でーす!」
色褪せた作業服を着た若者が、バインダーを片手に気怠そうに入ってきた。だが、勝手口を見回して首を傾げる。
「……あれ? おっさん、今日の生ゴミ、出てないっすね」
新生は不思議そうに目をパチクリとさせた。 「え? 生ゴミなら、今朝早くに君のところのトラックが回収してくれたんじゃないのかい?」
「は? 何言ってんすか。うちの回収ルートは夕方のこの時間だけっすよ。朝なんて絶対に来ないっす」
「でも、今朝見たらコンテナの中は空っぽだったよ……?」
「いやいや、そんなわけねぇって」 若者は怪訝な顔をして、新生の横を通り抜け、裏にある巨大な専用コンテナの蓋を勢いよく開け放った。
「ほら、やっぱり回収なんか……う、うおおおぉぉぉっ!!?」
若者は言葉を失い、鼓膜をつんざくような悲鳴を上げて数歩飛び退いた。手にしていたバインダーが床に転がり落ちる。
「な、なんだこれ!! キモっ!! 気持ち悪っ!!」
新生も慌ててコンテナの中を覗き込んだ。 薄暗いコンテナの底。そこには生ゴミの姿はなく、代わりに無数の「黒っぽいイモムシ」のような虫たちが、ウジャウジャと波打つように蠢いていた。
「うわぁ……生ゴミ放置したせいで、デカいウジが大量発生してんじゃん! 最悪……害虫スプレー!!害虫スプレーどこ?!?!?」
顔を引きつらせて後ずさりする若者。しかし、新生の目は、不気味に蠢く虫の群れと、その下に広がる「サラサラの香ばしい土」に釘付けになっていた。
(悪臭が……まったくない。それに、私が昨日捨てたあの重い残飯が、水分ごと完全に消えている……?)
「……待ってくれ」
新生は、虫を駆除しようと厨房へ向かおうとする若者の腕をガシッと掴んだ。
「ちょっと、何すか!」 「君……昨日私がここに捨てた数十キロの生ゴミが、跡形もなく消えているんだ。誰かが運んだわけじゃないなら……もしかして、この虫たちがたった一晩で生ゴミを全部食べて、この土に分解してしまったんじゃないか……?」
「はぁ!? 虫が何十キロもゴミを食うわけないっすよ! いいから早くスプレーを……」
「お願いだ!」 新生は若者に向かって、深く頭を下げた。 「頼む、スプレーはしないでくれ。殺さずに、何日か……何日かだけでいいから、このまま観察させてくれないか?」
会社から「不要なシステム」として切り捨てられた自分が、惨めな思いをして運んだ生ゴミ。それを、この名も知らぬ虫たちが「豊かな土」という新しい価値に変えてくれたのかもしれない。新生には、どうしても彼らを殺すことなどできなかった。
若者は、必死に頭を下げる初老の男と、コンテナの中で蠢く大量の虫を交互に見比べ、ドン引きしたように顔をしかめた。
「……はぁ。意味わかんねぇ。……まぁいいっすよ。ぶっちゃけ、俺はあんなキモい虫の群れ、絶対にトラックに積みたくないし」
若者は床に落ちたバインダーを拾い上げ、パンパンと土を払った。
「俺の会社が回収する契約になってるのは、あくまで『生ゴミ』っす。虫と土は管轄外。……それに、ゴミがないなら手間省けるんで。じゃあ、とりあえず今日も『生ゴミを回収した』ってことにして、伝票にハンコだけもらいますね」
若者は自分に都合の良い言い訳を並べ立てると、逃げるように伝票処理を済ませて走り去っていった。
翌日の夕方。 「ちわーす……」 恐る恐る勝手口にやってきた若者は、新生が昨日新しく放り込んだ大量の残飯がどうなったかを確認するため、おそるおそるコンテナの蓋を開けた。
「……ウソだろ」
若者の口から、呆然とした声が漏れた。 昨日、あんなに山盛りになっていたドロドロの生ゴミが、またしても綺麗に消滅している。残っているのは、昨日よりも少しカサを増した香ばしい土と、丸々と太って活発に動き回る虫たちだけだった。
「……やはりそうだ。この子たちが、生ゴミを食べて土に変えているんだ」 横に立つ新生が、震える声で呟いた。
「マジかよ……たった一晩で、あんな量のゴミを……? すげぇな、この虫……」 若者は気味悪さを忘れ、コンテナの底で無心に命の循環を回し続ける小さな生き物たちを、食い入るように見つめていた。
次の日も、その次の日も。 若者が夕方にやってくると、二人は必ずコンテナを開け、「今日も消えてる」「どんどん土が増えていくな」と不思議そうに観察し合うようになった。
ある日の夕方。いつものように空っぽになったコンテナを確認し、伝票にハンコを押した若者が、ふと口を開いた。
「……おっさん。俺、トモヒロ」
「えっ?」
「名前。毎日ここでサボらせてもらってんのに、名乗ってなかったなって思って」
照れくさそうに頭を掻く若者に、新生は少し驚き、それから汗に塗れた疲れた顔を綻ばせて優しく微笑んだ。
「……私は新生だ。よろしく、トモヒロ君」
「おう、よろしく新生さん。じゃ、今日も回収したことにして帰るわ」
誰からも不要とされた男と、どこか投げやりな態度で仕事をする若者。そして捨てられるはずの生ゴミ。 暗い勝手口の片隅にあるこのコンテナの前で、虫たちの不思議な生態を通し、年齢も立場も違う二人による「秘密の共犯関係」が、静かに、だが確実に結ばれていた。


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