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【連載小説】愛しておくれ(第一話:春の目覚め)

第一話:春の目覚め


四十二歳の訪問看護師・佐藤佳代は、移り住んだ静岡で、担当患者・真司の息子として現れた蒼佑そうすけと二十年ぶりに再会する。蒼佑は大学時代、当時付き合っていた恋人・大翔ひろとの友人であり、佳代が密かに恋に落ち、恋が始まる前に恋心を胸の内にしまい込んだ相手だった。再会をきっかけに、京都で過ごした青春の日々がよみがえっていく。認知症の父を抱え、離婚の末に息子と離れて暮らす蒼佑。過去の結婚に傷を残し、土地を変えて生き直そうとしてきた佳代。別れ、後悔を抱えた二人は、いくつもの季節を越えて、終わったはずの春の続きをもう一度静かに見つめ始める――。
これは、一人の女性が愛と喪失を経て、自らの人生を選び直していく物語。



四月の歓迎会には、独特のざわめきがある。生ぬるい熱気と笑い声が、店の天井近くに溜まっている。私はそこから少し離れた一番隅の席に座っていた。中ジョッキに入ったレモンサワーを一口ずつ喉に落としていく。私が持ち上げて口に運ぶ度に、氷が触れ合って音を立てる。

「佐藤さんって、飲める人ですか?」

不意に声をかけられて前を見ると、今日新しく入ってきた看護師の女性だった。たしか松本さんと言っただろうか。

「強くはないですけど、お酒は好きです」

「私と同じタイプですね」
三十代と思しきその女性はふふっと笑った。
その時、机に置いてあった松本さんのスマホがブー、ブー、っと一定のリズムで振動を繰り返す。

「もしもし?…うん。うん。やっぱり無理?わかった」
そう言って彼女は電話を切り、こちらを見る。

「ごめんなさい。今日、子どもを夫に任せて出てきてるんですけど。やっぱり寝かしつけができないみたいで…」

「小さいお子さんいらっしゃると大変ですよね」

「本当はもっとお話したかったんですけど。またお昼でも是非」
そうやって、松本さんは嵐のように去って行った。

松本さんの空いた席に、施設長が入ってくる。

「どうだった?今日の人」

「感じ良くて、しっかりされていそうな人だと思いました」

「じゃなくて」
「新しい訪問の人。溝端みぞばたさん」
施設長は小さな声で、耳打ちするようにその名前を口にする。

「ああ!えっと…、認知症はだいぶ進行してますね。私のことを、元の恋人だと、そう勘違いされていました」

「そう…。自分の終わりが近づくと、一番執着していた場所に戻るというかなんというか。人って本当に不思議よね」

「…そういうものですか」

「案外ね」
施設長は目の前の芋焼酎に視線を落とした。マドラーを一回、くるりと回す。氷がカランと音を立てる。

「直腸癌のステージⅣだから。いつ急変してもおかしくはないわ」
昼間に見た、あの穏やかな顔が脳裏に浮かぶ。
紗江さえ」。愛しそうに呼んだ、その名前とともに。

「奥様はもうお亡くなりになられてますよね」
「そう」
「それなのにお家でのお看取りにこだわられる理由って、なんなんですかね」
「それは…、私にもわからないけれど。ご本人ですら、もしかしたらもう説明すらできないのかもしれないし」
施設長は芋焼酎をゴクリと飲み込む。
隣の卓では誰かが頭を打ったようで、「いってぇー!」という大きな声と笑い声が沸き起こっている。この場に、酷く場違いな私たちの会話だけが溶けずに残っている気さえする。

「そういえば、あなた関西出身でしょ?なんでわざわざ静岡に?」
「あ、えぇと…。それはですね…」
少しだけ、考えるふりをする。

「私、実家が琵琶湖の近くなんですね?」

「うん」

「静岡には浜名湖があるじゃないですか?」
施設長は数秒黙ってから、声を立てて笑った。
その後少し私を睨む。

「なによ、それ」

「半分は本当です」

「…じゃああと半分は?」

「秘密、です」
施設長はもう一度、「なぁにそれー?」と笑って終わった。

「さっきの話に戻るけどさ。
ねぇ。知ってる?
女ってね。関係を持った男の数だけ、心に蛇を飼うんだって。
一度でも関係を持った男に、死ぬまでエネルギーを吸い取られ続けるってそういう言い伝えがあるらしいのだけれど」
また施設長は、マドラーをクルクルと回す。

「蛇を飼うのは、女だけなのかしらね」


居酒屋から私は自分が住むマンションまで歩いて帰る。春の夜風は酔って火照った頬には程良くひんやりしていた。駅前のネオンが滲んでいる。

…蛇、か。

私は心の中に巣食う蛇に思いを馳せる。
過去に関係を持った人間の数だけ。
その定義に従うのであれば、私が飼っているのは二匹だ。
大学時代に付き合った恋人と、元、夫。
けれど、どちらも今は私の中で大人しく眠っているように思える。
たまに寝返りを打つくらいで、牙を剥くこともない。
…二匹。本当に、そうなのだろうか。

信号待ちで立ち止まり、私は夜空を見上げた。
よく見ると、黒い空の中で薄雲がゆっくりと流れている。
思い出というものは、死んだふりが上手だ。もう終わったと思った頃に、何食わぬ顔で息を吹き返す。

昼間、真司さんの家の玄関で。息子さんが奥から出てきた瞬間、私の時間もまた、音を立てて動き出してしまった。

「お世話になります」
そう言って頭を下げた男の顔を見て、私は呼吸の仕方を忘れた。蒼佑くんだった。二十年以上、会うこともなかった名前が、心臓の内側で音を立てた。
大学二回生の春、人知れず私が恋に落ちて、始まりもせずに終わった恋。
まさしく、その人だった。

二十年以上ぶりに見た彼は、少し疲れて痩せこけていて、それでも笑うとあの頃のままだった。私は看護師の顔で会釈を返す。その胸の奥では別の誰かが泣き出していた。
部屋に戻り、鍵を閉める。電気のスイッチに手を伸ばそうとして、止める。暗い玄関の扉に背中を預けたまま、深く息を吐く。

春は苦手だ。何かが始まる季節だとみんな信じて疑わないから。

始まりはいろいろなものを呼び起こす。二十年以上前に終わったはずのものまで、平気な顔で芽吹いてしまう。
私は靴も脱がず、その場にしゃがみ込んだ。そして、ようやく小さく笑った。

…まいったな。まだ、いたんだ。
心のどこかで。あの、三匹目の蛇が。

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