世界の偉人シリーズ|第25話 伊藤忠兵衛 伊藤忠・丸紅創始者 日本初のグローバル商社を構想した男
世の中には、
商品を売った人は数多くいる。
しかし、
「商品が流れる仕組み」
を作った人は少ない。
彼は工場を作ったわけではない。
発明家でもない。
政治家でもない。
それでも彼が作った仕組みは、
150年以上経った今も日本経済を支えている。
・伊藤忠商事
・丸紅
という二つの巨大総合商社の源流を作った男。
彼が売っていたのは麻布ではない。
「人・物・金・情報をつなぐ仕組み」
だったのである。
伊藤忠兵衛
伊藤忠・丸紅の源流を築いた近江商人。
日本初のグローバル商社を構想した男。
1842-1903|伊藤忠・丸紅創始者
【近江商人の家に生まれる】
1842年、
近江国犬上郡豊郷村、
現在の滋賀県豊郷町に生まれる。
家は商家だった。
しかし大店ではない。
裕福な商人でもない。
幼い頃から父親に叩き込まれたのは、
「信用は財産より大切」
という教えだった。
近江商人には有名な考え方がある。
店を失っても信用を失うな。
一度騙して儲けても、
次の商売はない。
この考え方は、
後の忠兵衛の経営思想の根幹になる。
【15歳で起業する】
15歳になると、
忠兵衛は麻布や織物を背負い、
全国へ売り歩く。
いわゆる「持ち下り商い」である。
現代で言えば、
営業マン
↓
物流会社
↓
資金管理者
↓
経営者
を一人でやるようなものだった。
しかも15歳。
普通なら学校へ通う年齢である。
しかし忠兵衛は、
全国を歩きながら、
他の商人とは違うものを見ていた。
商品ではない。
「流れ」
だった。
【長崎で世界を見る】
岡山
広島
下関
そして長崎。
当時の長崎は日本唯一の国際都市だった。
外国船が入港し、
外国人商人が行き交い、
世界中の商品が集まっていた。
忠兵衛は衝撃を受ける。
後に社史には、
「奇異の感を懐き、驚異の眼を開く」
と残されている。
多くの商人は、
外国人を見て驚く。
珍しい商品を見て驚く。
しかし忠兵衛は違った。
彼が驚いたのは、
「なぜ遠く離れた国の商品がここへ集まるのか」
だった。
モノではない。
仕組みに興味を持ったのである。
【なぜ不足と余剰が生まれるのか】
全国を歩く中で、
忠兵衛は不思議に思う。
大阪では余っている商品が、
地方では不足している。
地方の特産品は、
都市へ届かない。
なぜだろう。
当時の流通は、
生産者
↓
地方問屋
↓
大阪問屋
↓
地方問屋
↓
小売
という構造だった。
中間業者だらけだった。
忠兵衛は考える。
「なぜこんな遠回りをするのか」
実はこの発想こそ、
後の総合商社の原型だった。
【明治維新をチャンスに変える】
明治維新。
多くの商人は変化を恐れた。
しかし忠兵衛は違う。
鉄道
電信
銀行
近代物流
これらは商売の敵ではない。
むしろ商売の範囲を広げる武器だと考えた。
1872年、大阪本町に
「紅忠」を創業する。
ここが面白い。
当時の商業中心地は別の場所だった。
しかし忠兵衛は本町を選んだ。
理由は明快である。
・川港に近い
・物流に優れる
・地価が比較的安い
・将来発展すると考えた
からだった。
現在で言えば、
まだ注目されていない再開発エリアや湾岸地区へ
先行投資するような発想である。
そして彼の読みは的中する。
後に本町・久太郎町周辺には、
伊藤忠
丸紅
住友系企業
などが集積し、
日本最大級の商業地帯へ発展していく。
「日本の商都の心臓部」
とも呼ばれるエリアである。
忠兵衛は商品だけを見ていたのではない。
商売が集まる場所。
人と物と金が流れる場所。
その未来まで見ていたのである。
【商売は菩薩の業】
忠兵衛には有名な言葉がある。
商売は菩薩の業。
売り買い何れをも益し、
世の不足を埋めるもの。
彼は利益を否定していない。
しかし利益だけを目的にもしていない。
商売とは、
不足している場所へ届けること。
必要な人へつなぐこと。
そう考えていた。
だから彼は、
問屋ではなく「つなぐ仕組み」
を作ろうとしたのである。
【教育への情熱】
成功した後、
忠兵衛は故郷へ戻る。
普通なら隠居生活である。
しかし彼は違った。
村長となり、
教育改革に力を入れる。
理由は単純だった。
商売より人材が大事。
どれだけ仕組みを作っても、
最後は人で決まる。
現在の伊藤忠や丸紅に残る
人材重視の文化は、ここに源流がある。
【なぜ彼は大失敗しなかったのか】
伊藤忠兵衛の人物伝を読んでいると、
あることに気付く。
渋沢栄一のような破産危機がない。
松下幸之助のような倒産寸前の苦境もない。
中内功のような大失敗もない。
だからといって、
失敗が無かったわけではない。
15歳から始めた持ち下り商いでは、
・売れ残り
・代金未回収
・相場下落
などは日常茶飯事だった。
当時の近江商人は掛売り(ツケ)が当たり前である。
商品を売っても、
代金が回収できなければ利益は消える。
忠兵衛は若い頃から学んだ。
利益よりも先に、
資金を回収すること。
信用を守ること。
これこそが商売の土台だと。
さらに明治初期になると、
綿花や織物の価格は大きく乱高下した。
多くの商人は相場で一攫千金を狙う。
しかしその一方で、
多くの商人が破産していった。
忠兵衛自身も相場変動による損失を経験している。
しかし彼は、
「相場で儲けるより流通で儲ける」
という道を選んだ。
ここが重要である。
彼が見ていたのは商品の値段ではない。
商品が流れる仕組みだった。
さらに海外取引においても同じだった。
当時の日本企業には、
・外国語
・国際金融
・海外物流
のノウハウがほとんど無い。
輸出入では契約トラブルも起きる。
価格変動も激しい。
当然、失敗も経験した。
しかし忠兵衛は失敗を隠さない。
うまくいかなければ撤退する。
資金を回収する。
そして別の機会に挑戦する。
無理に成功したことにしない。
ここに彼の強さがあった。
明治維新後には、
銀行
鉄道
鉱山
などへ進出して巨万の富を築いた実業家もいた。
もし忠兵衛が同じように勝負していれば、
もっと巨大な財閥になっていた可能性もある。
しかし彼は違った。
規模より信用。
短期利益より継続。
を選んだのである。
派手さはない。
しかし結果として、
幕末
明治維新
西南戦争
日清戦争
という激動の時代を生き抜いた。
そして後に、
伊藤忠商事
丸紅
へとつながる事業基盤を築いたのである。
忠兵衛は勝負師ではなかった。
観察者だった。
全国を歩き、
市場を見て、
情報を集め、
確信を持ってから動く。
だから爆発的な成功談は少ない。
しかし致命的な失敗も少ない。
多くの起業家が一攫千金を夢見て消えていく中、
彼は一歩ずつ市場を観察し、
一歩ずつ信用を積み上げた。
その堅実さこそが、
150年以上続く商社の礎となったのである。
【戦っていた相手】
忠兵衛が戦っていたのは、
他の商人ではない。
本当に戦っていたのは、
・情報不足
・物流の非効率
・地域間格差
・市場の分断
・人と人を隔てる距離
・世界を知らない閉鎖性
だった。
だから彼は歩いた。
全国を歩いた。
そして世界を見た。
彼が作ろうとしたのは商店ではない。
「つながる仕組み」
だったのである。
【これは戦略だったのか】
結果だけ見れば、巨大商社の成功譚。
しかし彼の行動には一貫した型がある。
現場を見る
↓
不足を見つける
↓
余剰と結びつける
↓
物流を作る
↓
信用を積み上げる
↓
取引を拡大する
さらに、
地方
↓
大阪
↓
長崎
↓
海外
と視野を広げていった。
つまり忠兵衛は、
商品を売っていたのではない。
人
↓
物
↓
金
↓
情報
を結び付けていたのである。
現在の総合商社の原型が、ここにある。
【まとめ】
伊藤忠兵衛は、
近江商人では終わらなかった。
長崎で世界を見た少年は、
日本中の産地と市場を結び、
やがて世界と日本を結ぶ構想を抱いた。
彼が売っていたのは麻布ではない。
人だった。
情報だった。
信用だった。
そして市場と市場を結び付ける仕組みだった。
「つながる仕組み」
だった。
現在の伊藤忠商事や丸紅は、
彼が描いた構想の延長線上にある。
忠兵衛は、
商人ではない。
問屋でもない。
日本で最初に総合商社という発想を持った男だったのだ。
次回予告
世界の偉人シリーズ|第26話 松本 清
マツモトキヨシ創業者
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