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資料#9|戦国武将の大敗事例 ~耳川の戦い・沖田畷の戦い・三方ヶ原の戦い~

戦国時代は、
名将たちの勝利の物語として語られることが多い。

しかし歴史をよく見ると、
本当に優れた武将ほど、大敗を経験している。

なぜなら戦争とは、

一度の判断の誤りが
全軍の崩壊につながる世界


だからである。
孫子はこう言っている。

 知彼知己、百戦不殆。

彼を知り己を知れば、
百戦して危うからず。

しかしこの言葉の裏には、
もう一つの意味がある。

敵を知らず、
自分も知らなければ、

一度の戦いで滅びる。

戦国史には、
その典型例がいくつも残されている。

ここでは三つの戦いを取り上げる。

・耳川の戦い
・沖田畷の戦い
・三方ヶ原の戦い

いずれも

有力大名が壊滅的敗北を喫した戦い

である。

そしてそこには、孫子が警告した
戦争の原則違反が見えてくる。


耳川の戦い
~情報を軽視した敗北~


1578年、九州の覇権を争っていた
二つの軍があった。

・島津軍
・大友軍

大友家当主・大友宗麟は、
キリスト教大名としても知られ、
当時の九州最大の勢力を誇っていた。

一方、薩摩の島津義久は、
まだ九州南部の勢力にすぎなかった。

兵力では大友軍が圧倒的に多い。

ところが戦場となった
耳川の戦い
では結果が逆になる。

島津軍は、

釣り野伏せ

という戦術を仕掛けて
大友軍を欺き、勝利したのだ。

これは

①わざと敗走する
②敵に追撃させる
③そこを伏兵が左右から包囲する

という戦法である。

追撃した大友軍は
次第に隊列が崩れ、
ついには完全に包囲された。

結果、大友軍は壊滅する。

この敗北の原因は明確である。
敵の戦術を理解せず、
敵の罠に嵌ったのだ。

孫子は言う。

 故不知彼而知己,一勝一負。

敵を知らなければ
勝ったり負けたりする。

しかし大友軍の場合、

敵を知らないだけではなく
自軍の優位を過信していた。

つまり、

情報軽視と慢心

である。

この戦いの教訓は明確だ。
情報を軽視した組織は、必ず罠にかかる。


沖田畷の戦い
~慢心が招いた壊滅~


1584年、九州では

・龍造寺氏
・島津氏

が激しく争っていた。

肥前の大名・龍造寺隆信は、
「肥前の熊」と呼ばれる猛将である。

一方、島津側の指揮官は、島津家久。

戦場となったのが
沖田畷の戦いである。

兵力は、
龍造寺軍 約2万に対して、島津軍 約6千
圧倒的な兵力差があった。
普通に考えれば、龍造寺軍の勝利である。

しかし島津軍は

湿地帯に陣を構え、
敵を誘い込んだ。

龍造寺軍は

兵力の優位を信じて正面攻撃

を行う。
しかし湿地では
兵が密集し、動きが取れない。

そこへ島津軍が側面から突撃する。
戦場は大混乱となり、
龍造寺隆信は討死。
軍は壊滅した。

孫子は言う。

 勝兵先勝而後求戦。

勝つ軍は勝てる状況を作ってから戦う。

島津軍は

・地形
・兵力
・戦術

すべてを計算していた。
一方、龍造寺軍は

兵力だけを信じて戦った。

これが敗北の原因だった。
この戦いの教訓はこうである。

勝っているときほど、戦場は見えなくなる。


三方ヶ原の戦い
― 若き武将の焦り ―


1573年、
遠江で「三方ヶ原の戦い」が起きる。
対峙したのは、武田軍 対 徳川軍。

武田軍の総大将は、武田信玄。
徳川側は、若き徳川家康である。

当時の武田軍は、
戦国最強と言われていた。

この時の武田軍兵力は、25,000。
対する徳川軍は織田援軍を含めて11,000。
さらに、兵力差以上に武田軍には

・史上最強の武田騎馬軍団の機動力
・野戦の経験値

があった。

家康軍家臣は籠城を進言した。
本来なら徳川軍は城に籠もるべきだった。
しかし家康は出撃する。

結果は惨敗。

徳川軍は壊滅し、
家康は命からがら浜松城へ逃げ帰った。

孫子は言う。

 将有五危。

将軍には五つの危険がある。
その一つが

必死(勇みすぎ)

である。

将軍に勇気は必要だ。
しかし、
勇気だけでは戦争に勝てない。

家康はこの敗北から学び、後に
慎重な戦略家
へと変わっていく。


戦国大敗の構造


この三つの敗北には共通点がある。

戦名    敗北原因
耳川    情報軽視
沖田畷   慢心
三方ヶ原  焦り

戦争の敗北は

能力不足ではない。

ほとんどの場合

判断ミス

である。


孫子を体現した戦い


敗北の反対には
孫子の原則を守った戦いがある。

代表例が、桶狭間の戦いだ。

1560年、
大大名・今川義元に対し、
尾張の小大名・織田信長が奇襲を仕掛けた。

この時の兵力差は、
今川軍25,000に対して織田軍は2,500。

しかし結果は、
大軍は崩壊し今川義元は討死。
兵力的には劣勢の信長が勝利した。

これは孫子の言う

兵は詭道なり

を体現した戦いだった。


最も孫子を戦術に取り入れ体現していた武将


日本史の中で、
孫子の思想を象徴的に体現した武将は誰か
と問われると、

多くの人は、

・織田信長
・徳川家康

を思い浮かべるだろう。

しかし戦略思想という点で見るなら
最も孫子に近い人物は

武田信玄

である。
 
※注釈
孫子の思想を最も深く理解し、
国家戦略として完成させた武将は徳川家康である。
それについては「資料7」で詳しく解説している。

信玄の軍旗には

風林火山

と書かれていた。
これは孫子の兵法「軍争篇」の一節である。

 疾きこと風の如く
 徐かなること林の如く
 侵掠すること火の如く
 動かざること山の如し

これは

機動戦の原則

を表している。

武田軍が強かった理由は
兵の勇猛さではない。

戦争の原理を理解していたこと

にあった。


現代経営への教訓


この構造は、
現代経営でも同じである。

耳川型
市場調査をしない参入

沖田畷型
成功体験による慢心

三方ヶ原型
焦った事業拡大

企業の失敗もまた

判断の失敗

から起こるものである。


核心メッセージ


戦争は勝利だけで語られる。
しかし本当に学ぶべきなのは

敗北

である。
勝利には偶然がある。
しかし、

敗北には必ず原因がある。

孫子の兵法とは
勝つ方法ではなく

負けない方法

を教える書なのである。


まとめ

戦国時代の敗北も、
現代経営の失敗も、
本質は同じである。

市場調査もせずに参入して勝てるだろうか?

成功体験に慢心し、市場や業態を無視した戦略が通用するだろうか?

競合に触発され、感情的に格上企業と対決して勝てるだろうか?

この三つの敗戦はそれを語っている。
孫子の兵法とは戦いの書ではない。
負けないための書である。

大将は常に冷静に、
戦場に合わせ陣形を組み、
徹底して情報を集め、
勝つべくして勝つ戦いをするべきである。

それが、
孫子の兵法の本質なのである。


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