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資料#6|なぜ名将は敗れたのか ~戦国武将の敗戦に見る兵法~

敗北は戦場ではなく「判断」で始まる

歴史を振り返ると、名将であっても大敗を喫しています。
しかしその敗北の多くは、
戦場の偶然ではなく、開戦前の判断によって決まっていました。

孫子はこう言っています。

 勝兵先勝而後求戰
 敗兵先戰而後求勝


勝兵は先ず勝ちて而る後に戦い、
敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む

つまり、
勝つ軍は、勝てる条件を作ってから戦う。
負ける軍は、戦ってから勝とうとする。

日本戦史にも、この原則から外れた瞬間に起きた敗北が多々あります。

ここでは有名な3つの戦いから、
名将がなぜ敗れたのかを考察します。


1 桶狭間の戦い

今川義元の敗北

1560年、
今川義元は2万5千の大軍で上洛を目指しました。
対する織田軍の兵力はわずか2,500。
戦力差は歴然でした。

なぜ開戦したのか

義元は

・ 駿河・遠江・三河を支配
・ 東海最大の大名

でした。
彼にとって織田信長は
取るに足らない存在だと見ていました。

つまり、敵を弱者と見ていました


開戦の判断

信長は
圧倒的な兵力差があり、
正面から戦えば勝てないことを承知していました。

そこで間者を放ち、
今川軍の状況を逐一報告させました。

そこに朗報が入ります。
今川軍、桶狭間で休息中。

・酒宴
・軍は数キロにわたり分散
・義元本陣兵数は2~3000人

完全に油断した状態でした。
信長は千載一遇のチャンスと見て奇襲します。


孫子の言葉

「兵は詭道なり」

戦争とは相手を欺くことである。
また孫子は、

「実を避けて虚を撃て」

と言いました。
信長は、

・大軍(実)を避け
・本陣の油断(虚)を突いた

のです。
信長が奇襲をかけようとしたとき、
豪雨が降り始めました。

数キロにわたって伸びきった兵力
酒宴で油断していた本陣
もの音は豪雨に消され
兵力差はほぼ互角

今川義元は
あっけなく討ち死に。

巨大な今川家はその後急速に衰退しました。


経営への示唆

企業でも

・ 大企業がスタートアップ企業を軽視
・ 新技術を無視

した時に同じことが起きます。

強者は、
弱者を見誤った瞬間に敗北するのです。


2 三方ヶ原の戦い

徳川家康、人生最大の敗北

1573年、武田信玄は京に向けて進軍。
いわゆる「西上作戦」です。

信玄の目的は、
京都に進み織田政権に圧力をかけることでした。
従い家康の浜松城は目的外。
そこで横目で見ながら進軍しました。

家康家臣は、兵力差から籠城を進言しました。
しかし家康は、
このまま見ているだけでは大名の威信が傷つく。
遠江の国衆や豪族が武田側に寝返る可能性もありました。

信玄はそれを計算して、
城攻めを避け、家康をおびき出したのです。
家康は浜松城から出撃し、三方ヶ原で正面衝突します。

しかし、武田軍3万、徳川軍1万。
武田の騎馬隊に総崩れとなり
結果は、徳川軍の壊滅的大敗となりました。


なぜ開戦したのか

家康の家臣の多くは「籠城すべき」と
進言しました。

しかし家康は、

・名誉
・政治
・面子

に追い込まれていました。

孫子はこう言っています。

利而誘之、乱而取之
「利を以て之を誘う」

信玄は、家康の利益や状況を計算したうえで
仕掛けました。
そして、家康はこの仕掛けに乗ってしまいました。

これは、
「政治的理由」の戦争でした。


開戦時の言葉

家康は出陣に際し、
「武田を討たずして城に籠るは恥」
と言ったと伝えられています。

孫子の言葉

「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」

敵を知り、自分を知れば危険はない。

家康は

・武田軍の強さ
・自軍の戦力差

を知りながら
感情で戦ってしまいました。


敗戦後

家康は命からがら浜松城へ逃げ帰ります。
この時の有名な逸話が、「しかみ像」です。

敗北の屈辱を生涯忘れないため、
家康は自分の悔しい表情の肖像画を残しました。


経営への示唆

企業でも

・社長の面子
・世間体
・社内政治

で負ける戦いをすることがあります。
しかし孫子は、

感情の戦争を最も危険としています。
勝負は戦う前から決しているからです。


3 長篠の戦い

武田騎馬軍団の崩壊

1575年、
武田勝頼は徳川家・長篠城攻めに出陣しました。

そこへ
織田信長・徳川家康連合軍約3万8千が到着します。

戦いは
武田軍の壊滅で終わりました。


なぜ開戦したのか

武田勝頼は、
長篠城という敵地奥深くまで入り込んでいました。
そこに信長・家康軍が到着し待ち構えました。

父・名将・武田信玄の後継者である勝頼は、
もし、敵を前にして撤退すれば

・家臣の士気低下を招く
・同盟勢力が離反する
・武田騎馬軍団は最強

という気持ちがあり
戦わずして撤退という選択肢は取れませんでした。

そして勝頼は、
武田軍の象徴は騎馬軍団だ
と正面突破を選びます。

開戦時の状況

対する信長は

・馬防柵
・鉄砲隊
・三弾撃ち

という
新しい戦術を準備していました。
武田軍2万に対し、待ち構えて秘策を用意した
織田・徳川軍3万8千。
結果は明らかでした。

孫子の言葉

「善く戦う者は、これを勢に求めて人に責めず」

名将は

個人の武勇ではなく
戦争の構造(勢)で勝つ。

武田軍は

• 武勇
• 騎馬突撃

に依存していました。
しかし信長は、
戦闘システムを作っていたのです。

敗戦後

武田家は主力武将を失い
その後急速に衰退します。

そして1582年、武田家滅亡。


現代の経営への示唆

企業でも

・優秀な営業
・カリスマ経営者

に依存すると危険です。
強い会社は、仕組みで勝つ。

これが孫子の兵勢篇の思想です。


まとめ

名将が敗れる理由

戦史を見ていくと
敗北には共通点があります。

1. 敵を過小評価した
2. 感情で戦った
3. 古い戦い方に固執した
4. 情報戦で負けた

孫子はこれを

「敗軍の将は戦う前に敗れている」

と言っています。

敗北は戦場で起きるのではない。
判断の段階で始まっている。

これが
孫子の兵法が2500年読まれ続ける理由です。


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