フジロックは『ブルジョアによるコミューンごっこ』なのか
今週末はフジロック。
ああ、我が一年最大のハレの三日間。
当方、フジロッカーを自称し始め幾数年、
文字通り、毎年フジのために生きている。
1年間の貯金、予約、体力作り、タスク管理、
職場での人間関係まで、全ては7月末のためである。
しっかしさ、どうせさ、終わったら毎年荒れるアレが出てくんだよ。
「フジは所詮ブルジョアのコミューンごっこ」という批判。
フェスが内包するリベラル思想と、たっけえチケ代の矛盾が、きもいと。
金持ちが「Love & Peace~、戦争反対〜」なんて酒飲みながら、
そこに来れない人々の血反吐は眼中にねえんだろ、と。
んなこたーわかってんだよ!
お前の指摘は的を射ている!
しかし“所詮“とは言わせねえよ。
ブルジョアのコミューンごっこ、上等だよ。
俺らの本気のごっこ遊び、その論理基盤をパンツの中まで見せてやるよ。
どうせ今年もフジロック冷笑を見て、
そいつと対面で語り合いたい衝動を140文字に込める羽目になるんだろうから、
今年こそは先手を打ちたいんだ!… 長文でな!
「コミューン」の歴史とその最前線、
「金持ち左翼」の構造と問題と希望、
「資本主義」とか「祝祭」とか、いろんな概念をごった煮にした、
我が壮大なる【フジロック考】!
フジロッカー各位、
音楽フリーク各位、
リベラル各位、
労働者階級各位、
ブルジョア各位、
衒学者各位に、
そして、それ以外のみんなには、妙なテンションの読み物として、
この論考を送りたい。
ご笑覧あれ!
「ブルジョアのコミューンごっこ」批判は正しい
苗場の森であの三日間を過ごすと、
「なんで人間はこうやって生きられないもんかね」という投げやりな厭世が湧かなくもない。
人々は笑い、助け合い、踊り、ポイ捨てなんてもってのほか。
そこは、相互扶助と社会倫理のユートピア!
戦争反対や、環境保護、人権尊重が声高に叫ばれ、
人々は政治的「連帯」すら、その場から見出す。
しかぁーし!
そんな共同体運営は言わずもがな、三日間限定だからこそ成立している。
参加者は、食料生産も、医療も、排泄物の処理も、治安維持も、インフラの修繕も、紛争調停も、
自分たちでは担わない。
ゴミの分別や他者への配慮には参加するが、その背後では、
・主催者
・警備員
・清掃員
・医療スタッフ
・輸送業者
・自治体
・地元住民
・ボランティア が、
巨大な運営機構を支えている。
私たちは共同体の一員になるというより、
共同体の一員らしく振る舞う経験を、運営から提供されているにすぎん。
だってフェスだもん。
私たちが享受しているのは、ユートピアの気持ちのよい部分オンリーだ。
ご都合主義だ。
こんなん、「コミューンごっこ」って呼ばれても、そう不当なことじゃないさ。
ほんで、この「ごっこ」に参加するには結構、金がかかる。
2026年のフジロックの三日通し券は一般発売で5万9000円、キャンプサイト券は6000円。
ここに交通費、テントや雨具などの装備、食費、人によっちゃ宿泊費や宅配費が加わる。
最低限のキャンプ参加でも総額はおおむね9万から12万円程度になる。
宿泊施設やオフィシャルツアーを利用すれば倍増だ。
金銭だけの問題と思ったら、それも間違い。
・金曜から月曜まで仕事を休めること
・体調や家族のケア責任を調整できること
・事前に装備や交通手段を調べる時間があること
なども暗黙の参加条件といえよう。
高い金を払い、時間を確保できる人間だけが、コミューンの幸福な上澄みを啜る。
ならば「ブルジョアによる」という部分も、グゥの音も出ない真実だ。
そして、冷笑ガキの格好の餌食となるのが、フジロックの内包する政治的スタンスだ。
なんてったって、忌野清志郎だ。
筆者も大好きなATOMIC CAFEでは、右傾化する社会を憂慮する対談が目白押し。
そのくせ、その実現には、
高額なチケット、長距離輸送、大量の電力、警備、広告、物販、飲食、企業協賛、ブランド提携が不可欠。
資本主義的な巨大事業の大船。
資本主義経済においては往々にして、環境は壊したもん勝ちだし、戦争ほど儲かるものはないし、核ほどコスパの良いものはない。
その矛盾に「気づいてんのかよ、どういうつもりだよ」という指摘は素晴らしい着眼点といえよう。
フジロックは、大いなる自己矛盾の上に成り立っている。
【フジ×資本主義】ようこそ、「消費の大聖堂」へ
フジロックは1997年、山梨県富士天神山スキー場で初開催された。
台風の直撃によって二日目が中止され、翌1998年には東京・豊洲で開催、
1999年から新潟県湯沢町の苗場スキー場に定着した。
その思想的・文化的な参照元にあるのが、
我らが!英国のグラストンベリー・フェスティバル!
知ってた?
グラストンベリーって70年に酪農家が持ってる牧場で始まったんだって。
初回は牛乳飲み放だったらしいよ。
1971年のグラストンベリー・フェアでは、音楽だけでなく、詩、演劇、舞踊、即興表現、神秘主義、ヒッピー文化などを混合した祝祭が構想されて、その後、反核運動や環境運動、慈善団体との関係を深めながら巨大化し、現在の国際的音楽フェスティバルへ成長したんだと。
最初、牛乳飲み放祭だったくせに。
フジロックは、これに行ったSMASH創業者の日高さん(通称:大将)がえらく感動して始まったプロジェクトらしい。
そん時すでに、その思想は「反権力」ではなく、すでに本家で形成されていた、
反商業主義と商業興行、自然回帰と巨大インフラ、自由と管理を同居させる祝祭モデルとして輸入されていたらしい。
筆者、生まれてないから知らないけど。
「同居」って言っちゃえばスッゲー!ってなるけど、
それってただのダブスタですよね。
でもね、ダブスタって資本主義の十八番なんすよ!
「同居」 a.k.a. ダブスタについて考えるとき、
ジェニー・フリンとマット・フルーっていう学者が、グラストンベリーを分析した論文がおもろい。
彼らによると、現代の音楽フェスって、反商業主義的な「カウンターカルチャーのかっこよさ」そのものを商品化する、管理された経験産業になってるんだと。
それな⭐︎
曰く、グラストンベリーって、
倫理、自然、泥、自由、若さ、神秘性が商品として組み合わされた「消費の大聖堂」なんだって。
while promoted as an ethical festival that celebrates its anti-commercial countercultural cool, Glastonbury reflects a modern cathedral of consumption. [...]
It reflects a modern managerial triumph as its romantic and mystical countercultural cool, with wellies, mud, stoic austerity all tinged with an environmental ethic, sit in a sea of merchandising.
「消費の大聖堂」における大胆なダブスタについて、
長くなりそうなので学術的論考を、
①統治性
②ウォーク・キャピタリズム
の二本立てでお届けします。
じゃんけんぽん✌️ウフフフフフ~
①フーコーの「統治性」
フジロックっておもろいのが、観客が消費者ってより「参加者」として解釈されてるとこ。
フジロッカーなら、永井純一(2006)読むまでもなく知ってると思うんだけど、
フジロックってエスノグラフィーすると、フェスの聴衆が、主催者とともに空間を作り上げる積極的な存在として意味づけられていることがわかるらしい。
つまり、繰り返しになるけど、観客は演奏を購入するだけじゃなくて、
ゴミを持ち帰り、列を守り、他人に配慮し、雨や泥に対処し、
会場の雰囲気や秩序を共同生産する主体ってことよね。
んで、筆者は思うわけ。
それ、ミシェル・フーコーの統治性(governmentality)やないかい、と。
(↓勉強が嫌いなみんなは以後※をぶっ飛ばせ)
※統治性・・・権力が人々に外から命令するだけでなく、人々が自分自身を管理し、自発的に望ましい行動を取るよう誘導する統治技術。近代的な権力は、「これをしろ」と直接強制するより、「自由で責任ある主体として、自分で正しく判断しな!」って働きかけがちなんだってさ。
フジロックってさ、
某他大型フェスみたいに警備員が参加者を監視・注意するみたいな文化薄いじゃん。
「ゴミを捨てない」「椅子を放置しない」「他人の迷惑にならない」「自然を傷つけない」「自分の体調は自分で管理する」みたいな規範が、常連、空気、友人(まあもちろん公式ガイドもだけど)により共有される。
んで、参加者は、それを外部から課された命令ではなく、
自分たちの文化、自分たちの美徳として内面化する。
It’s 自己統治!責任化!って感じ。
俺らは自由だからこそ、自分自身を統治する。
主催者の命令に従うんじゃなく、
フジロッカーっていうアイデンティティに従う。
結果、企業が望む秩序が、参加者自身の善意と誇りによって再生産される。
ん?つまり?
フーコー的統治性は、祝祭自治の美点であると同時に、
主催者が負担すべき清掃・警備・管理の一部を参加者へ移転する仕組みになっているぅ!?
(キィーー!それってただの権力側に都合いい犬じゃん!という本末転倒アナキストが筆者の大脳の端っこに顔を出したり出さなかったりするよ)
もちろんね、この自立心そのものが偽物だとか無駄だとか言いたいわけじゃないよ。
でもさ、それらが運営コストの削減とブランド価値の向上に使われていることも、同時に真なのさ。
SMASHにとっちゃ、フジロッカーは消費者であると同時に、商品価値を作る労働者ってこと。
ウケる。
情動労働(affective labor)における共同生産(co-production)者です。
こんにちは。
毎年「苗場ただいまぁ」なんてTwitterで腑抜けた声を出しているこの俺こそが、フジロックという商品を作っている。
んで、フジロッカーがせっせと片棒を担いだブランディングの、金銭的利益を得るのは、企業様である。
開催主体のSMASH!企画・制作にはHOT STUFFとイープラス!壮大な興行・流通システムよ!いつもありがとう!
他にも、アパレルとのコラボ、アーティストとの限定商品、Amazon配信と企業活動に大忙し!いつもありがとう!
大規模文化産業として当然の運営!
じゃんじゃん儲けてほしい!
ハーイ!おいらダブスタフジロッカーです!こんにちは!
②ウォーク・キャピタリズム
そもそも、なんで資本主義カンパニーたちが、リベラルなこと言えるわけ?
クレイジーな仲間を紹介するぜ。「ウォーク・キャピタリズム」!
つまり、「SDGs流行ってますよね、LGBTQA+流行ってますよね、支持して換金しましょう!」って奴らのこと。
※ウォーク・キャピタリズム(Woke Capitalism)・・・企業が環境、人種、ジェンダー、LGBTQ、反差別などの進歩的価値を支持し、それを経営戦略やブランド構築に組み込む現象。
そりゃあ、企業が社会的課題に関与しないよりはずーーーーっっとマシですよ。環境対策や差別撤廃が企業活動へ入り込むことは、我々が願ってやまないこと。
しかし政治的価値が商品価値へ変換されることにモヤッとするめんどい人もいるんですよ。ここに。
はたして、フジロックというパッケージされた経験商品は、ウォーク・キャピタリズムから完全に自由か、そうでもなかろう。
環境保全や平和を訴える側面がある一方、
イベント全体はチケット販売、広告、物販、輸送、配信、飲食、観光によって成立している。
ここでは、批判的政治が市場の魅力を高めるコンテンツとして包摂されうる。
ま、ここまで申しましたが、
貨幣経済である限り、自由市場である限り、この手のビジネス構造から逃れる手はないんでねえの。
大企業だ!大プロジェクトだ!って目くじらたてる潔癖症は、
逆に論理的一貫性を欠くこともあるってことを、忘れてはいけない。
実際、グラストンベリーは1981年に核軍縮運動CNDとの提携を始めたんだけど、
そんとき、主催者マイケル・イーヴィスは
「適切に運営すればフェスティバルは収益事業になり、その利益を運動へ提供できる」
とか説明している。誰に向けた説得なのかは分からんが。
んで、1981年には約2万ポンドがCNDへ寄付された。
つまり、反商業主義と収益事業は、後から偶然衝突したんじゃないっぽい。
むしろ、グラストンベリーの政治的発展は、最初からその矛盾を抱えていた。
金の亡者であることと、主義を以て利益を成すことは雲泥の差だ。
2026年フジロックが、Noga ErezやFather of Peaceに手を出さなかった、という事実を、我々はもっと評価してもいいんだよ。
呼べば金になった。
アイデオロジーより、本質を個々に考え、言動を起こす姿勢を、筆者はフジロック運営から見出している。
ややこしや、ややこしや、
資本主義から俺らは永劫、逃れることはできないのさ。
【フジ×コミューン】制度になる前に消えようぜ!
話をちょっとフーコーに戻そう。
なんでこの統治性とやらが、ありがたく購入されてんの?
というと、まあひとえに、「コミューンやりたいから!」と言っても…
過言か笑
だって、俺、疲れてんだもん。
コンクリートジャングルで、転んでも誰も手を差し伸べちゃくれない。
男だからとか、女なのにとか、くだらんラベリングに抑えられて、
時刻表、御社、与党、広告をスキップ、ホルムズ海峡、請求書、ミサイル、
ばーーーーーーか!
音楽聴いてお酒飲んで踊れば、全部、無関係さ!
みんな友達さ!肩組んで踊ろうぜ!
月が綺麗だなあ、あ、雨降ってきた、明日は涼しいかもしれないなあ。
そんな日々を、本来過ごせるはずなんだ、人間だもの…
平たく言えば、
競争、所有、自己責任、等価交換を中心とする日常社会とは異なる関係を、実践したい!既存社会を今すぐ変えるんじゃなくて、今!誰もいないとこで!社会作っちゃお!
という衝動が、フジにおける統治性に人々が高い金を出す源泉になっている。
とりま、この「別の社会を、いま・ここで先取りする」という発想は、
社会運動論では予示的政治(prefigurative politics)っていうんだ。
まー、コミューンという活動の基盤になる概念だよ。
※予示的政治・・・革命後の未来社会を待つのではなく、運動が目標とする平等、水平性、参加型民主主義、相互扶助、非暴力といった社会関係を、現在の運動組織や日常実践の内部で先に実現しようとする政治。目的と手段を切り離さず、「自由な社会を作る運動は、それ自体が自由でなければならない」と考える。カール・ボッグスによる初期の定式化以来、この概念はニュー・レフト、アナーキズム、フェミニズム、環境運動、占拠運動などの分析に用いられてきた。
世界中どこでも、自然のど真ん中で開かれるフェスには、
少なからずこの「予示的政治」の要素はある。
「でも奥さん。コミューンってうまくいかなかったんでしょ?」
そうさ。うまくいかなかった。
うまくいかなかったなりに、研究進んでるからさ。
歴史と一緒に、音楽フェスが現代のコミューン的立ち位置にある論理基盤とか説明するから、そこ座れ!オルァ!
時は1960年代〜70年代、
場所はアメリカやヨーロッパ、日本も。
既存社会から離脱し、別の生活様式を作ろうとするコミューン運動が広がった。
いわゆる「ヒッピー」の大活躍。
彼らは大量消費社会、核家族、賃労働、私有財産、官僚制、軍産複合体、性道徳、都市生活におりゃーっと反抗した。
選挙で政権を取るんじゃなく、生活そのものを変えようと、
共同所有、自給農業、共同育児、フリースクール、無料診療所、菜食、自然建築、性的解放などを実践。
既存社会の外部に新しい社会を作ろうとした。
この戦略は、フィリップ・ヴァルマイアーの言葉を借りれば、
「批判としての離脱」(exit as critique)である。
つまり、社会を言葉で批判するだけではなく、そこから離れ、別の制度で暮らすこと自体を批判の手段とするってこと。
コミューンは、私有財産、賃労働、性別分業から部分的に離脱し、代替的な生活制度を構築するように試みたんだ。
でも、コミューンはしばしば失敗した。
なぜなら、理念を生活に変えた瞬間、抑圧がどこから生まれるのかが露呈したから。
自由恋愛を掲げても、性的な決定権は男性に偏ったし、
家父長制を否定しても、料理、掃除、育児、看護などのケア労働は女性へ集中した。
(まじふぁっく by ギャルミサンドリスト)
権威を否定しても、カリスマ的指導者や古参メンバーが非公式な権力を持った。
私有財産を否定しても、土地を購入する資金を持つ者が発言力を得た。
平等や自由を掲げたコミューンの内部でも、家事・ケア労働の女性への偏重や、土地取得能力を持つ中産階級への依存が再生産された。
形式的な役職を廃止しても、権力そのものが消えるわけではない。
権力は不可視化され、責任の所在だけが曖昧になった…
アホやねー。
コミューンは資本主義から離脱しようとしたけど、土地、収入、医療、教育、食料、法制度との関係を完全には断てなかった。
まあそりゃそう。人間には生活があるんだもの。
むかつくのはもう一つの側面で、
そもそも仕事を辞め、農村へ移住し、土地を取得できること自体が、中産階級的な経済資本や文化資本に支えられていたってとこ。
予示的政治で、いくら未来社会を現在に先取りしようとしたって、
その構成員は所詮、資本主義的な能力主義、ジェンダーロール、所有感覚、承認欲求を身体化しちまってんのさ。
ダセー。
だから外部へ逃げたはずの共同体の内部で、外部の社会構造が再演される。
じゃあ、コミューン構想の大敗は、おとなしく既存社会で生きろって意味しちゃうかっていうと、それも違う。
一段ずつ上がればいいんだよ。
一つの回答が、アナーキスト作家ハキム・ベイの一時的自律空間、
『Temporary Autonomous Zone』、通称T.A.Z.。
長期的なコミューン作れないなら、とりま一旦は短期間でやればいいじゃん!っていう、端っこにフジが霞んで見えそうな主張。
※T.A.Z.・・・国家や市場を恒久的に打倒し、固定された解放区を作ろうとするのではなく、権力の監視や制度化を一時的に逃れる空間を出現させ、捕捉される前に消滅させる戦略。
永続的な革命政府を作れば、それ自体が官僚制と抑圧を生む。
恒久的なコミューンを作れば、内部に所有関係と権力関係が発生する。
ならば、解放は恒久化しない。
数時間、数日間だけ現れ、制度になる前に消えようぜ!
(っていう、なんか、それ私週末に友達と家でやってますけど、みたいな。)
まあもっと、アナキズム的な感じで、
フェスティバル、レイヴ、海賊放送、即興的な占拠、秘密の集会などが、そのモデルになるんでないかな。
定住型コミューンの重い生活実験を、短期的で移動可能な祝祭へ変換するっていう。
お察しの通り、
本論考では、T.A.Z.の風下に、音楽フェスがあると主張しようと思う。
日常的な職場、都市、家庭、学校から離れ、山中に一時的な町が出現!
貨幣経済や企業運営はあるかもしんないけど、人間関係の規範は一部変化!
知らない人と空間を共有し、自然に従い、身体を泥や雨へ開く!
これが、コミューンの失敗から学んだヒッピーやアナーキーたちが、それでも食らいついた理想郷への階段の、0.1段目だとしたら、
「ごっこ」を本気でやっても、いいんじゃないかと思えやしないか。
【フジ×金持ち左翼】社会の縮図という絶望
さて、もう1万字書いている。
やる気のない学部の卒論くらいにはなってきた。
こんなとこまで読んでるやつはいないだろう。
ここで本題だ!
「ブルジョアによる」という批判を、厳密に考えよう!
そもそも現代のブルジョアって誰なんだろ。企業経営者、資産家、高所得者?
もちろん、フジロックの参加者全員が富裕層というわけではない。何か月も節約し、安いテントで泊まり、無料エリアで過ごし、夜行バスで帰る若者もいる。\it’s me/
それでも、フジロッカーには、前述したハードルの高さから、階級的傾向はある。
ほんで、そいつらは、前述したように、
反核だの反戦だの、ヒッピー的主張を口にしている。
太宰治とかがそうだったように、なんか、金持ちからいきなり左翼生まれること、あるんだよね。
こういう金持ってるリベラルのことを指す言葉がある。
トマ・ピケティらのバラモン左翼(Brahmin Left)。
名前の由来おもろいから調べてみ。インドの階級から来てるんだ。
さて、歴史と政治と経済の時間だ。
(めんどかったら飛ばして)
ピケティ、アモリー・ゲシン、クララ・マルティネス=トレダーノは、
21の西側民主主義国における1948年から2020年までの選挙データを分析し、政党支持の階級構造が長期的に変化したことを示した。
1950年代から60年代には、低所得・低学歴の労働者階級が左派政党を支持し、高所得・高学歴層が右派政党を支持する傾向があった。しかし20世紀後半以降、所得と学歴の政治的効果が分離する。
高学歴層は左派・リベラル政党を支持するようになり、高所得・高資産層は引き続き右派・保守政党を支持した。
この結果、政治は労働者対資本家という一元的な階級対立から、二種類のエリートが競合する複数エリート政党システムへ移行した。
高い教育資格や文化的権威を持つ「バラモン左翼」と、所得・資産・企業権力を持つ「商業右翼(Merchant Right)」の対立である。
金持ちから、金持ちが分断。
くだんな。先に救うものがあるだろ。
バラモン左翼の資本は、必ずしも金銭だけではない。
ピエール・ブルデュー、文化資本⭐︎
小っ恥ずかしいけど、
フジロックに行き着くには、金だけでなく文化資本も大いに必要。
みなまで言わないけどさ、音楽とかアウトドアとか、あそこで起きていることに価値を感じるために必要なソフトウェアって存在するんさ。
泥まみれになることさえ、誰にでも平等に開かれた経験ではないんだろう。
したがって、
フジロックにおける階級的排除は、クソ高えチケ代だけじゃ説明できない。
・金銭
・時間
・身体
・情報
・社会的立場
・文化的コード
が複合して、参加可能性を決める。
ひぃ。
この複合的な排除は、社会学でいう交差性(intersectionality)の問題なんす。
有休を取れる正規雇用者と、休めばそのまま収入が減る非正規労働者では、「三日間の自由」の値段なんて、ぜーんぜん違う。
ところが、どっこい。
バラモン左翼は、そこんとこのメタ認知が弱い。
気づけば、
左派は、エリートとか文化人・知識人の価値観を中心に再編され、
低所得・低学歴層の経済的要求を十分に代表しなくなった。
んで、「代表の空白」は、労働者階級の右派ポピュリズムへの流出を促す。
そして… 今日の右派ポピュリズムは、経済的不安を、移民、外国人、フェミニズム、性的少数者、知識人、都市部のリベラル層への敵意へ翻訳…
2025年参院選、2026年衆院選、いっちょ上がり!
本来なら雇用、住宅、医療、賃金、社会保障をめぐる問題であったものが、誰か本質の話ができる奴はいねーのかよ。
もっと悪いことに、
ここでバラモン左翼と商業右翼は、敵対しながらも部分的に結合する。
必殺⭐︎ブルジョア・ブロック!
※ブルジョア・ブロック(bloc bourgeois)・・・政治経済学者ブルーノ・アマブルとステファノ・パロンバリーニが論じる文化的にはリベラルな高学歴層と、経済的には市場主義的なビジネスエリートが、グローバル化、能力主義、人的資本投資、財政規律などをめぐって形成する中道的な統治同盟。
労働者階級は、議論の蚊帳の外。
片や多様性を語り、片や経済成長を語る。
・低賃金労働者への大規模な再分配
・労働者による企業統治
・資産格差の解体
については、両者とも牛歩。
その隙を見て、高市が来るのさ。本当は見るべきだった方を、ブルジョアが見てないうちに、ポピュリズムを最もうまく操った人間が主権を握った。
歴史が韻を踏んでいるぜ!
ある意味、
フジロックは、このブルジョア・ブロックの文化的縮図かもしれない。
環境、反戦、多様性を支持する文化的エリートと、その価値を市場化する企業が協力し、進歩的共同体を作る。
そこから排除されるのは、チケットを買えず、休暇を取れず、文化的コードを共有できない労働者階級。
彼らはその外にいるだけではない。
内部から、「環境や人権に無関心な人々」として道徳的にもなんか見下される。
こうして、経済的排除は文化的劣等性へ…
でもね、前述したように、
資本主義経済において、チケット値下げはできないし、予示的政治も実践困難なのさ。
神さま、もしそこにいるなら、
貨幣か、格差か、権威か、どれかをめちゃくちゃに破壊して、
予示的政治を強制してちょーだい。
どーすりゃいいのよ。
【フジ×祝祭】祝祭は自己満足にすぎないのか
暗くなっちまったね。
暗いままいくよ。
フジロックは、金持ちが政治的に正しい自分を確認するための、ごっこ遊び?
まー。半分は、そうよ。
会場でゴミを分別しても、都市の廃棄物政策が変わるわけではない。
NGOヴィレッジ行っても、軍事費は減らない。
アレッポの石鹸買っても、農業労働者の賃金構造が変わるわけではない。
GEZANやGotchや、KRAFTWERKSやMassive Attackを支持しても、俺は愛する人と結婚できず、友達は酷い目に遭い続けるだろう。
だが、筆者は、フジの内包する矛盾や無力が、無意味だとは思わない。
そもそも、フジロックはsocietyではない。
festivalである。
祝祭である。
「祝祭」という言葉の考察の歴史は長く深い。
ちなみに筆者は、TiDEの祝祭をいつか苗場で聞きたい。
筆者がだいちゅきなエミール・デュルケームは、
儀礼や祭りにおいて人々が集まり、通常とは異なる高揚状態を共有する現象を、集合的沸騰(collective effervescence)として論じた。
個人が集団のリズム、音、身体運動、感情に巻き込まれるとき、人々は普段の自己を超えた力を感じるんですって。
ヘヴンで爆踊りしながら感じるあのトランス感!これでは!
文化人類学者ヴィクター・ターナーは、
通過儀礼の途中にある、日常的な地位や秩序が一時的に停止する状態を、リミナリティ(liminality)と呼んだ。
リミナリティ=「境界上にあること」。
学生でも会社員でも親でも管理職でもない!中間的な時間!
そこでは日常の社会構造が一時的に緩み、参加者のあいだに直接的で平等な結びつきが現れる。
ターナーは、この反構造的な共同性をコミュニタス(communitas)と呼んだ。
レッツ!コミュニタス!イン苗場!
ロシアの思想家ミハイル・バフチン(🫶)が論じたカーニヴァル的世界でも、
祭の期間には身分、権威、公式の言語が反転され、
笑い、身体、猥雑さ、過剰さが解放される。
カーニヴァルは、日常秩序を廃止する革命とかじゃない。
祭が終われば、王は王に戻るし、労働者は労働者に戻る。
そのため、祝祭は、しばしば許可された逸脱(licensed transgression)として批判される。
「一時的に不満をばーっと放出させることで、かえって日常の秩序を維持する安全弁じゃん」とか「三日間だけ自由を与え、月曜日からまた働かせる装置かよ」
まー、一理あるわな。
でも、祝祭を単なるガス抜きっていうのも、腐しすぎてて実態に則してない感じする。
日常社会をいったん外から見るためには、日常とは異なる時間を経験しなければならない、っていうのもわかるやん。
「祭」と「日常」は相対する概念じゃなくて、連続した時間なんよ!
相互扶助が可能であること、知らない他者に親切にできること、政治と快楽が両立すること、自然が単なる資源ではなく身体を左右する環境であることを、概念ではなく身体で知れ!
苗場で踊ることでな!
つまりさ、
フェスティバルの身体的実践は、既存社会とは異なる関係を「身体的に練習する」シミュレーターになりうる、っつーこと。
雨や風の中で他者と空間を共有する経験は、社会が等価交換や自己責任だけでなく、
自然や他者との依存関係によって成立していることを身体レベルで知る礎になるんでないかね。
ほんで、その経験が物流、化石燃料、無償労働、参加者自身の特権に支えられていることも露呈させる。
それがフジロックが、「ごっこ」として意義を持つことができる希望。
フジロックの価値は、完成されたユートピアであることにはない。
ユートピアを演じることにある。
自然を守る祭りが、大量の物流を必要とする。
平等な共同体が、高い入場料によって人を排除する。
自発的な自治が、企業の管理コストを引き受ける。
反商業主義的な文化が、最も魅力的な商品になる。
この矛盾を身体的に経験させることが、フジロックの政治的可能性でもある。
だから、「コミューンごっこ」は正しい。
そして、ごっこ上等、なのだ。
フジロックは社会ではない。
社会になれなかったコミューンでもない。
演劇は現実ではないが、現実に存在しない関係を見せることができる。
リハーサルは本番ではないが、本番で可能な行為の範囲を広げる。
祝祭は社会ではないが、社会が別様でありうるという感覚を現実にする。
フジロックは資本主義の外部ではない。
むしろ資本主義、リベラリズム、環境主義、文化産業、階級、無償労働が、最も鮮やかに絡まり合う場所です。
その絡まりを解消済みのユートピアとして愛するのではなく、
解けない矛盾が可視化される装置として愛することを、我々フジロッカーは無意識であっても行っていると、筆者は考える。
なぜなら、フジロッカーは皆知っている。
日曜の夜、ゲートをあとにするときの心持ちを。
心地よい疲労と満足感のなかに、込み上げるような悔しさがあることを。
その悔しさが、砂金だ。
⸻
主要参考文献
バラモン左翼と階級再編については、Amory Gethin, Clara Martínez-Toledano and Thomas Piketty, “Brahmin Left Versus Merchant Right: Changing Political Cleavages in 21 Western Democracies, 1948–2020,” The Quarterly Journal of Economics, 137(1), 2022, pp.1–48。21か国の長期選挙データを用いた中心的な実証研究である。 日本語ではトマ・ピケティ『資本とイデオロギー』が対応する。
予示的政治については、Carl Boggs, “Marxism, Prefigurative Communism, and the Problem of Workers’ Control,” 1977–78、およびDarcy K. Leach, “Prefigurative Politics”が概念整理に使える。 日本の運動史への適用としては、小杉亮子『東大闘争の語り――社会運動の予示と戦略』が有効である。
フジロックの参加者論については、永井純一「〈参加〉する聴衆――フジロックフェスティバルにおけるケーススタディ」『ポピュラー音楽研究』第10号、2006年、96–111頁。 より包括的には、永井純一『ロックフェスの社会学――個人化社会における祝祭をめぐって』、ミネルヴァ書房、2016年。
フェスの商業化と共同生産については、Jenny Flinn and Matt Frew, “Glastonbury: Managing the Mystification of Festivity,” Leisure Studies, 33(4), 2014, pp.418–433。倫理的・反商業主義的な祝祭が「消費の大聖堂」へ変化する過程。
祝祭論については、Émile Durkheim, The Elementary Forms of Religious Life、Victor Turner, The Ritual Process: Structure and Anti-Structure、Mikhail Bakhtin, Rabelais and His World。集合的沸騰、リミナリティ、コミュニタス、カーニヴァル。
