見出し画像

二人だけの北海道

第一章:初めての空

 羽田空港。
 早朝の空港は、まだ一日の始まりを迎えたばかりのような静けさが残っていた。
 僕たちは搭乗口の前で、並んで座っていた。
 りかは何度もスマートフォンを確認している。
「そんなに見るものある?」
「違う」
「じゃあ何?」
「ちょっと緊張してる」
「旅行?」
「うん」
 僕は笑った。
「北海道だよ?」
「分かってる」
「楽しみじゃない?」
「楽しみ」
「じゃあ大丈夫」
 そう言った直後だった。
 搭乗案内が始まった。
 僕たちは立ち上がり、機内へ向かった。
 指定された席に座る。
 僕は窓側。
 りかは隣。
 シートベルトを締める。
 飛行機がゆっくり動き始めた。
 そのときだった。
 りかの手が、僕の手を強く握った。
「どうしたの?」
「……」
「りか?」
 返事がない。
 ただ、僕の手を握っている。
「怖い?」
 りかが小さく頷いた。
「実は……」
「うん」
「飛行機、初めて」
「え?」
 僕は思わずりかを見た。
「初めてなの?」
「うん」
「言ってなかったじゃん」
「言うタイミングなかった」
 飛行機が滑走路へ向かう。
 エンジン音が少しずつ大きくなる。
 りかの手に力が入った。
「幹太」
「大丈夫」
「本当に?」
「大丈夫」
 僕は握られた手を、そのまま握り返した。
 飛行機が加速する。
 身体がシートに押しつけられる。
 窓の外を見ていたりかが、突然声を上げた。
「うわ……!」
 建物が小さくなる。
 道路が線のようになる。
 東京の街が、みるみる遠ざかっていく。
「すごい……」
 りかの顔から、さっきまでの緊張が少しずつ消えていった。
「飛んでる」
「飛行機だからね」
「そういう意味じゃない!」
 僕は笑った。
「初めて見る景色」
 りかは窓の外を見続けていた。
 雲の上に出る。
 真っ白な雲が、どこまでも続いている。
「綺麗……」
「でしょ?」
「なんか、現実じゃないみたい」
 りかが僕を見る。
「幹太」
「ん?」
「旅行って、こんな感じなんだね」
「まだ始まったばかりだよ」
 しばらくして、僕の手を握っていた指から力が抜けた。
「もう怖くない?」
「うん」
「じゃあ離していいよ」
「嫌」
「なんで?」
「せっかくだから」
「何が?」
「初めての飛行機だから」
 僕たちはそのまま手をつないでいた。
 新千歳空港に降り立った瞬間、りかが深く息を吸った。
「北海道」
「まだ空港だけどね」
「でも北海道だよ」
 外へ出ると、東京とは少し違う空気を感じた。
 十月。
 空気が冷たい。
 でも、その冷たさが気持ちいい。
 レンタカーの手続きを済ませ、目的地の釧路へ向かう。
 高速道路を走り始めると、街並みが少しずつ変わっていった。
 建物が減る。
 空が広くなる。
「北海道って広いね」
「まだ始まったばかりだよ」
「これで?」
「これで」
 途中で何度か車を止め、写真を撮り、コンビニに寄った。
 北海道限定の商品を見つけて、二人で笑った。
 そんな小さなことまで楽しかった。
 釧路に到着すると、夕方の空が広かった。
 幣舞橋まで歩く。
 冷たい風が吹いている。
 りかが僕の腕にしがみついた。
「寒い?」
「ちょっと」
「上着着る?」
「大丈夫」
 りかはそう言いながら、僕の腕をさらに強く抱いた。
 夕暮れの街を歩く。
 東京では見慣れない広い空。
 遠くに見える海。
 冷たい風。
 それだけで、旅行に来たという実感が少しずつ湧いてきた。

第二章:函館山の夜景

 翌朝。
 僕たちは釧路駅から列車に乗った。
 今日は長い移動になる。
 釧路から札幌へ。
 そして札幌から函館へ。
 二泊三日の旅だから、ゆっくりしている時間はあまりない。
 でも、りかは楽しそうだった。
 窓の外を見ている。
 時々、僕に話しかける。
 駅弁を開ける。
 写真を撮る。
 眠くなれば僕の肩にもたれる。
「りか」
「なに?」
「寝ていいよ」
「寝たらもったいない」
「何が?」
「北海道の景色」
「景色は逃げないよ」
「でも今しか見られない」
 僕は笑った。
「確かに」
 列車は北海道の大地を進んでいく。
 やがて札幌が近づいてきた。
 窓の外に建物が増えていく。
「札幌?」
「そう」
「着いた?」
「もうすぐ」
 りかが窓に顔を近づける。
「なんか……」
「うん?」
「あっという間で実感ないね」
 僕は笑った。
「それ、分かる」
「北海道にいるんだよね?」
「いるよ」
「なんか不思議」
「じゃあ、次は函館」
「まだ行くの?」
「行くよ」
「忙しい旅行だね」
「だから二泊三日」
「幹太、詰め込みすぎ」
「せっかく来たんだから」
 りかが笑った。
「でも、楽しい」
「僕も」
 札幌で少し休憩し、僕たちは再び列車に乗った。
 次の目的地は函館。
 移動時間は長い。
 でも、不思議と苦にならなかった。
 りかが僕の肩に頭を預ける。
「ねぇ、幹太」
「ん?」
「旅行っていいね」
「そう?」
「うん」
「何が?」
「ずっと一緒にいられる」
 僕は少しだけ黙った。
「そうだね」
 それだけ答えた。
 けれど、その言葉が胸に残った。
 仕事のときは、僕たちはそれぞれの時間を過ごしている。
 事件が起きれば、もっとそうなる。
 でも旅行中は違う。
 朝起きてから夜眠るまで、ずっと隣にいる。
 食事をして。
 歩いて。
 笑って。
 疲れて。
 眠くなって。
 また起きる。
 そんな当たり前の時間を、二人で過ごしている。
 それが思っていた以上に心地よかった。
 函館に着いた頃には、もう夕方だった。
 ホテルに荷物を置き、二人で街へ出る。
 函館の夜は、東京より静かだった。
 坂道を歩く。
 冷たい風が頬に当たる。
「北海道、寒いね」
「東京とは違うね」
「でも好き」
「僕も」
 そして夜。
 僕たちは函館山へ向かった。
 展望台から街を見下ろす。
 海に挟まれた街の光が、暗闇の中に浮かんでいた。
「……綺麗」
 りかが呟いた。
 僕は景色ではなく、りかを見ていた。
「何?」
「いや」
「また見てる」
「だって」
「景色見なよ」
「見てるよ」
「どこを?」
「目の前」
 りかが笑う。
「もう」
 僕たちは肩を寄せ合った。
 函館の夜景。
 冷たい風。
 そして、隣にいる大切な人。
 旅行に来る前には想像していなかった。
 こんな時間が、自分にとってこんなに大切になるなんて。

第三章:帰りの空

 翌朝。
 函館朝市で朝食を食べた。
 りかは海鮮丼を前にして、目を輝かせた。
「これ、朝から食べるの?」
「北海道だから」
「なるほど」
「旅行中はいいんだよ」
「幹太、普段より甘いね」
「旅行だからね」
 二人で笑う。
 その後、函館の街を少し歩いた。
 教会。
 坂道。
 古い建物。
 港。
 写真を撮る。
 手をつなぐ。
 何度も笑う。
 時間はどんどん過ぎていった。
 やがて、札幌へ戻る列車の時間になった。
「もう終わりか」
 りかが少し寂しそうに言った。
「まだ札幌があるよ」
「そうだけど」
「また来ればいい」
「また?」
「うん」
「北海道?」
「北海道」
「二人で?」
「もちろん」
 りかが笑った。
「約束ね」
「約束」
 札幌へ戻り、短い時間だったが街を歩いた。
 時計台。
 大通公園。
 街の中を歩きながら、二人で食事をする。
 最後まで、北海道を楽しんだ。
 そして新千歳空港へ向かう。
 空港へ着いた頃には、りかは少し疲れていた。
「眠い?」
「うん」
「寝ていいよ」
「帰りの飛行機も初めてだけど?」
「もう経験者でしょ」
「二回目」
「じゃあ大丈夫」
 りかは笑った。
 帰りの飛行機では、離陸してすぐに僕の肩へ頭を預けた。
「幹太」
「ん?」
「また旅行しようね」
「うん」
「今度はもっとゆっくり」
「そうしよう」
 窓の外には、雲が広がっていた。
 北海道は遠ざかっていく。
 でも、二泊三日で見た景色は、二人の中に残った。
 釧路の広い空。
 列車の窓。
 札幌の街。
 函館の夜景。
 朝市の海鮮丼。
 そして、初めての飛行機で強く握られた、りかの手。
 僕はその手を、もう一度握った。
 りかも握り返した。
「幹太」
「ん?」
「楽しかった」
「僕も」
「すごく」
「僕も、すごく」
 飛行機は夜の東京へ向かっていた。
 二人の初めての北海道旅行は終わる。
 でも、二人の旅は、たぶんこれから始まったばかりだった。

いいなと思ったら応援しよう!