「純文学」の成立と自己批評的小説意識の系譜
――フランス現代文学の視座から
1. 小説における「純文学」的自覚と自己批評の誕生
近代文学史における「純文学」の成立過程は、単なる美学的洗練や文体の進化という表面的な事象にとどまりません。それは、小説というジャンルそのものが自らの虚構性(フィクション)と現実性の間の本質的な矛盾に気づき、それを言語空間においていかに構築・克服するかという、深い「自己批評的意識」を獲得していく精神史的闘争のプロセスです。本論では、この「純文学」を考察するうえでの補助線として、19世紀のフランス文学における客観主義的リアリズム(フローベール、ゾラ)から始まり、プルーストによる内面時間の発見を経て、アンドレ・ジッドやフランソワ・モーリアックに至る小説方法論のパラダイムシフトを外観します。
この変容の過程において、フランス文学に決定的な自己解体と再構築を迫った外部的触媒が、フョードル・ドストエフスキーの受容でした。ドストエフスキーが提示した論理的整合性を超越する多声的(ポリフォニック)な人間描写は、フランス文学における伝統的な「性格(タイプ)」の概念を根本から揺るがし、1920年代における「小説の危機」という認識論的試練をもたらしました。そして、この試練に対して極めて洗練された方法論的応答を示したのが、フランソワ・モーリアックです。彼は「作家と作中人物の関係」を鋭く自己分析し、自己からの脱出と客観性の担保という逆説的な小説論を展開しました。
2. フランス文学における「純文学」の源流と客観主義の逆説
フローベールの逆説と「ボヴァリー夫人」の構造
フランス文学における「純文学」的意識、すなわち小説が自らを一個の自律した芸術作品(ロマン)として認識し始めた端緒は、ギュスターヴ・フローベールに見出されます。フローベールが放ったとされる「ボヴァリー夫人は私だ」という有名な言葉は、実際にはフローベールに遡及されるわけでもありませんが象徴的であり、表層的な感情移入や作者と登場人物の単純な同一視を示すものではないとしてしばしば言及されます。堀辰雄が後年のエッセイ「小説のことなど」で指摘しているように、この言葉の背後には「ある理屈」、純文学の本質に関わる逆説が隠されています。
フローベールは、作者の主観や道徳的判断を作品から完全に排除し、科学者のような冷徹さで対象を描写する「非人称的客観性」を徹底的に追求して文学史上、理解されています。しかし、その作品が作者の個人的な現実から完全に切り離され、ひとつの独立した「全きもの(完璧な世界)」として客観的に位置づけられていればいるほど、読者は逆にその堅牢な作品構造の背後にある「作者の不幸な現実や苦痛」を痛切に感じ取るという逆説が立ち現れます。また、作者が自己の影を消去しようとすればするほど、作品の絶対的な孤独と客観性の裏側に、それを構築せざるを得なかった作者の実存的悲劇が逆照射されます。ここに、作者の隠された自我と客観的な作品世界との間の極度の緊張関係という、純文学に不可欠な自己批評的意識が誕生したと見ることができます。
ゾラの自然主義の限界と環境決定論
エミール・ゾラを中心とする自然主義文学は、フローベールの客観主義を生物学および環境学的な側面を決定論にまで推し進めた試みと言えます。遺伝と環境要因によって人間の運命が不可避的に決定されるというゾラの文学観は、社会の暗部や大衆の生活を精緻かつ大規模に描き出すことには成功しましたが、他面、外部の環境要因と生理的遺伝だけで人間の行動を記述する自然主義的手法は、人間の内面的な自由意志や、割り切れない心理的矛盾(たとえば崇高な精神と卑劣な欲望の同居)の描写においては限界を抱えていました。このため、19世紀後半から末葉に至ると、「環境に規定された透明な人間」の描写に飽き足らなくなったフランス文学の関心は、必然的に外部環境では説明しきれない人間の意識の深層、すなわち不可視の内面世界へと移行していきます。
バルザック的「型」の創造とその特権的地位
現代的な視点からすると「純文学」以前にも思える19世紀フランス小説のもう一つの、そして最大の到達点がオノレ・ド・バルザックです。バルザックに代表される伝統的なフランス小説は、「型(タイプ)」の創造を特権としていました。モーリアックが自身の『小説論』の中で指摘し、後に堀辰雄が引用・考察したように、バルザックの主人公は常に批評的に「辻褄が合う」存在でした。
バルザックの作中人物は、ゴリオ爺であれば「父性愛」、従姉ベットであれば「嫉妬」、ユウジェニイ・グランデであれば「吝嗇(けち)」といった具合に、彼らを支配している単一の強烈な情熱によって完全に説明され、要約されます。彼らは常にその情熱の埒内にあって行動し、読者の期待を裏切るような論理的破綻をきたすことはありません。バルザックはこのような一回きりの情熱に還元された巨大な「型」を無数に創造し、それらを交錯させることで社会全体を俯瞰する『人間喜劇』という建築物を構築しました。しかし、このような「完全な人間の創造」は、のちのモーリアックや堀辰雄が分析するように、第一流の特権的な小説家にのみ許された神のごとき所業であり、近近代自我に目覚めた後代の作家たちにとっては、模倣不可能な古典的イデアとなっていきます。とはいえ、ここには逆説があります。このバルザックを引き継いだのが後で述べるドストエフスキーなのです。
プルーストによる時間と自己の解体
19世紀から20世紀への転換期において、、明確に「純文学」としてしか言及できない文学が現れます。マルセル・プルーストの登場です。彼が、フランス小説のパラダイムを決定的に変容させました。さらに現代文学そのものを変容させたと言ってよいでしょう。プルーストは『失われた時を求めて』において、まず、バルザック的な固定化された性格(型)の概念を根本から解体しました。プルーストが示したのは、人間の自己とは単一の情熱によって支配された静的な実体ではなく、無意識の記憶と時間の経過のなかで絶えず変容し、多面的な顔を見せる流動的なプロセスであるという事実です。この客観的現実(社会)の描写から主観的意識の流れへの劇的な移行は、フランス文学における「小説とは何か」「作中人物とはいかに構成されるべきか」というメタ意識(自己批評性)を極度に高めることとなりました。
3. ロシアからの衝撃――ドストエフスキーの受容とフランス小説の危機
ヴォーギュエ『ロシア小説論』と「小説の危機」の勃発
今世紀に入り、プルーストによる内面化と並行して、フランス文学に決定的な自己解体と変革を迫った外的要因が存在しました。それがロシア文学、とりわけフョードル・ドストエフスキーの受容です。1928年のフランス文学界において「小説が危機にある」と盛んに語られましたが、これは現代社会で言われるような「本が売れない」といった商業的・産業的な危機とは全く異なり、小説という表現形式そのものが真実を描き出し得るのかという、認識論的かつ実存的な試練状態を意味していました。
フランスにおけるドストエフスキー受容の決定的な契機となったのは、1886年にウージェーヌ=メルキオール・ド・ヴォーギュエ子爵が著した『ロシア小説論(Le Roman russe)』でした。ヴォーギュエはロシア駐在の外交官としてロシア語を習得し、ロシア貴族との結婚を通じて深くロシア文化に通じた人物であり、彼によってフランスの読者や知識人に向けてドストエフスキーの真髄が初めて本格的に紹介されたのです。
当時のフランス文学界は、デカルト的な明晰さとゾラ的な自然主義が支配的でした。あらゆる人間の行動は理性的分析や環境要因によって説明可能であるという信仰が根強かったのです。しかし、ドストエフスキーの作品に描かれる世界は、そのようなフランスの知性に計り知れない衝撃を与えました。
ドストエフスキーの多声的(ポリフォニー)文学の背景
ドストエフスキーの文学は、彼自身の壮絶な実存的体験に深く根ざしています。彼は幼少時から都会的環境に親しみ、ロシアの都市文学の先駆者としての風貌を持つ一方で、10歳の時に父が手に入れた持村での原体験が、のちの農民理想化や「土壌主義(ロシア・メシアニズム)」の主張の素地となりました。さらに18歳の時には、農奴の恨みを買った父が惨殺されるという事件が起き、これが彼の生涯を決定づける深刻な衝撃を与え、最後の長編『カラマーゾフの兄弟』における父親殺しの主題へと直結しています。
流刑、てんかんの持病、そして極度の賭博癖(これが中編『賭博者』を生み出しました)といった逼迫した生活のなかから、『罪と罰』『白痴』『悪霊』といった人類史に残る巨大な作品群が生み出されていきました。これらの作品に登場する人物たちは、バルザックの「型」のように一つの情熱で説明できる存在ではありません。彼らは神と悪魔、絶対的な自由と罪の意識、崇高な自己犠牲と底知れぬ悪徳の間で激しく引き裂かれており、作者の制御すら超えて自律的に語り出す「多声的(ポリフォニック)」な存在でした。それでいて、その表層的な様式を見るなら、実際のところ、ドストエフスキーは人間を虚構の物語に描くバルザックの系譜にあります。
自然主義が描く「環境に規定された平面的な人間」に慣れきっていたフランスの小説家たちにとって、極限状況における人間の不条理な行動や、論理では割り切れない魂の救済を描くドストエフスキーの人物像は、自らの人間描写がいかに表層的で自己欺瞞に満ちていたかを痛感させる鏡となりました。バルザックの様式は、バルザックという作家の独自性と一体ではなかったとも言えるでしょう。
ここに至って、デカルト的な「我思う、ゆえに我あり」という透明な自己認識は粉砕され、人間の内面には決して理性では統合できない混沌とした他者が住み着いていることが露呈したのです。これこそが1920年代フランスにおける「小説の危機」の正体でした。バルザックは前時代的な文学として否定しきれるものではありません。明晰な論理や自然主義的な観察だけでは、もはや人間の真実を表現し得ません。小説家は「自己と作中人物との関係性」、ひいては「自己とは何か」という根源的な問いを根本から再考せざるを得なくなったのです。
4. アンドレ・ジッドのドストエフスキー論と内なる対話の発見
ドストエフスキーの衝撃を、フランス文学の伝統の中で自身の文学的危機および方法論的探求に最も深く結びつけたのがアンドレ・ジッドです。ジッドが1923年に出版した評論『ドストエフスキー』は、フランスにおけるドストエフスキー論の古典として広く知られています。ジッドにとってドストエフスキー論を執筆することは、単なる異国の偉大な作家の客観的解説ではなく、自身の内面的な矛盾や実存的葛藤を正当化し、新しいフランス文学の形態を模索するための極めて個人的かつ批評的な営みでした。ロラン・バルトが後年のジッド論で看破したように、ジッドは自らを「対話の存在」と規定していました。ジッドは「すべてが私のなかで戦い、相容れない」と語っています。彼の生涯は、相反する価値観の間の引き裂かれた緊張状態そのものでした。
具体的には、第一次世界大戦中に深い宗教的危機に見舞われながらも、身近な人たちの回心の顛末を考慮し、最終的にカトリックへの回心を踏みとどまったこと。また、妻マドレーヌ(キリスト教的倫理の象徴)への純精神的な愛と、若きマルク(同性愛・新しい倫理の象徴)への肉体的な誘惑との間の絶対的な二者択一に苦しんだことです。この対立は、作品上では『狭き門』の禁欲と『背徳者』の欲望解放という完全な対立軸として表出しています。ジッドは最終的にマドレーヌを打ち捨ててマルクとの道行きを選択し、『一粒の麦もし死なずば』等を出版して同性愛を告白(カミング・アウト)しますが、それでもなおキリスト教倫理から全面的に離脱することはできませんでした。
このように自己内に解決不可能な対立を抱えたジッドにとって、ドストエフスキー作品に見られる人物たちの論理的破綻や内面的矛盾は、まさに自己の真実を映し出す鏡でした。この過程においてジッドが到達した決定的な文学的認識論が、「直接的な告白(日記や回想録)」の限界と「虚構(小説)」の優位性です。
ジッドは自らの日記に関する考察のなかで、次のように記しています。「回想録は、真実への気遣いがどんなに大きくても、半分しか本当ではありません。すべては常に、言われているより、もっと複雑なのです。おそらく、小説のほうがより真実に近づけるでしょう」。
これは、一見すると隠し立てのない真実を語っているように見える日記や告白(私小説的アプローチ)が、実は人間の内面の複雑な対立状態を取りこぼしてしまうという鋭い自己批評です。人間の内面の矛盾、すなわちポリフォニー(多声性)という複雑な「真実」を余すところなく表現するためには、作者の単一の視点から語るのではなく、対立する複数の作中人物を配置し、客観的な虚構(ロマン)を構築する「小説」の形態をとる方が、かえって真実に近づけるという逆説的認識論の転回でした。ジッドによるこの「自己の対立状態に与えられる精神的重要性」の発見は、フランス文学が私的な告白の罠を抜け出し、より高度な自己批評的フィクションへと向かう道筋を決定づけたのです。
5. フランソワ・モーリアックの小説論――神の視点と自己の「影」
ジッドと同時代を生き、ドストエフスキーがもたらした「小説の危機」に対して極めて自覚的かつ体系的な理論的応答を行ったのが、フランソワ・モーリアックです。熱烈なカトリック作家であるモーリアックは、神の恩寵と人間の原罪、精神的救済と肉の欲望という主題を深く追求しましたが、同時に彼は「小説家がいかにして他者である登場人物を創造し、虚構世界を構築し得るか」という極めて技術的かつ批評的な方法論的問題に直面していました。
彼の小説的自覚は、1928年のエッセイ『小説論(Le Roman)』および1933年の『作家と作中人物(Le Romancier et ses personnages)』において明確に理論化されています。モーリアックの理論の中心にあるのは、「作者の自己」と「作中人物」の峻別、および「自己からの脱出(客観性の担保)」という至上命題です。
モーリアックは、若い小説家が陥りがちな罠として、「自己への過剰な執着」を厳しく指摘しています。若い小説家は、他人を観察し客観的な作品を書こうと意気込んでも、結局のところ「彼を人間について知っているもの、すなわち彼自身の欲望、彼自身の眼に映じている本質的なもの以外には出逢わない」とモーリアックは分析します。すなわち、若き作家は自分自身に夢中になりすぎているため、自らの苦悩や喜びの範囲内でしか世界を認識できず、無意識のうちに自己の模倣(私小説的投影)しか描けないというのです。
真の小説家として自立し、「小説家の中の小説家として頭をもたげる」ためには、作家は「われわれ自身の心臓から引き離し得るようになってから」、すなわち自己の心奥の執着から脱出できなければならないと彼は論じました。作者自身が主題となっているような個人的な告白文学は、真の小説(ロマン)としての条件を満たさないのです。
しかし、モーリアックの真の偉大さは、この客観主義の理想を掲げながらも、同時にその究極の不可能性を自己批評的に見抜いていた点にあります。作家がいかに客観的に「生きた人間」を描こうと努め、自己から脱出したと考えても、究極的には「作品から作品へと、いつでも同じような人間ばかりを描いていることに気づかざるを得ない」という限界に逢着します。モーリアックは言います。「彼らの描いているものは、やはり、彼ら自身の人間の中に潜在している私の影でしかないのだ」と。作中人物たちは、どれほど自律的な他者に見えようとも、作家自身の内面に潜在している苦しみや不幸、欲望の「影」の変奏曲にほかなりません。
したがって、傑作とされる小説の条件は、作品が作家の実生活から切り離された「一塊の全体としての世界」として独立して存在していることですが、同時に「最も客観的な小説の背後にも小説家自身の活きた悲劇は隠されている」というフローベール的な二重性を帯びることになります。作家の私的な悲劇が表面(外側)に漏れ出ていなければいないほど、その作品は客観的な天才の成功を収めているとモーリアックは論じましたが、ここには、モーリアックのカトリック作家としての言い訳の臭いも漂います。
このモーリアックの構築した「全知全能の作者が自らの影を密かに人物に投影しつつ、上空から客観的な世界を統べる」という手法は、やがて次世代の実存主義哲学の旗手ジャン=ポール・サルトルからの痛烈な批判を浴びることとなります。サルトルは1939年の評論『フランソア・モーリヤック氏と自由』において、モーリアックが作中人物の自由を奪い、神の視点(全知の視点)から登場人物を裁いていると厳しく批判しました。
サルトルの「小説家は神であってはならない」という批判は、作中人物が作者の意図を超えて未来へ向かって投企する「実存的自由」を擁護するものでしたが、逆説的に言えば、このサルトルの批判そのものが、モーリアックの小説論がいかに1930年代のフランス文学において「小説とは何か」というメタ的な自己批評空間の中心に位置していたかを証明しています。モーリアックがバルザックやドストエフスキーのような「特権的な人間創造」の能力の限界を悟りながら構築した「自己の影の意図的操作」という精緻な人工的虚構論は、それ自体がフランス文学史における近代的主体の危機と成熟の極みでした。そしてこの理論的極点こそが、日本の堀辰雄に劇的な啓示を与えることとなるのです。あるいみ、フランスの文学危機という文脈が日本に移植されたとき、日本の文学風土のなかに、「純文学」を発生することになります。
