母親の「薄い縁」に隠された真実
1.耳に残る母の言葉
「血縁が薄い人は、すべてにおいて薄い」
私が子供だった頃、母はこの言葉を幾度となく繰り返していた。
どういうシチュエーションだったのだろう。
家族でドラマを見ていた時だろうか。
あるいは、単なる母の心の声が、意図せず漏れ出てしまっていたのだろうか。
母の過去を初めて知った時、ずっと私の中で埋もれていたこの言葉が蘇った。あの日の驚きは忘れない。そして今も私の中で重く沈んでいる。
2.理性の蓋が外れた
「認知症」という病名を聞いて、どのような印象を、持つだろうか。
医師からも忌み嫌われ、疎んじられる病気。
呆け=馬鹿、頭が空っぽ。
自分だけは「なりたくない、いや自分はならない」から、目を背けたい存在。
最近では滅多に見かけなくなったが、認知症に対する理解を広めるためのドキュメンタリー番組では、穏やかで美しい映像が印象的だった。
家族が懸命に介護をする姿。
本人の無表情、そして家族の満面の笑顔。
現実は違う。
ドキュメンタリー番組だから、あちらも現実。
でも私の母は違った。
拒否、暴力、怒声。
そして耳を塞ぎたくなるような卑猥な言葉の羅列。
かと思えば、一晩中喋り続けるラッパーのよう。脳内にある記憶の引き出しのページを読んでるの?
温厚でマメな父でさえも、匙を投げてしまった。
ある日、実家に行くと、母が介護ベッドの下で不自然な姿勢のまま座り込んでぐったりしている。下半身は何もつけていない。
父は隣室で「もう、何もしない」と怒っている。
何があったのか、父に聞いても答えてくれない。こんな父、初めて見た。
多分、オムツ交換の際の拒否?それも簡単に拒否と呼べるようなレベルではないやつ。猛り狂うほどの反逆か…。
なぜ母は、これほどまでに荒れ狂わなければならなかったのか。
3.昭和20年代の記憶
母は、中学2年生の夏、たった一人で見知らぬ商家に預けられた。夏休みの間、朝から晩まで住み込みで働いたそうだ。
その家にはとても意地の悪いおばあさんがいて、苛められて嫌な思いをしたと語ってくれた。
この話は、母の病気が発覚し、介護認定を受けるまでの期間、母から直接聞いた。
その日は、太平洋戦争で空襲に遭い、逃げ惑った話も延々繰り返されていたため、どちらも初めて聞いた話であり、私は、「どこかで見聞きした話」と「実体験」が微妙に入り交じり、話が膨らんでしまったのではないか?と結論付けた。
しかしのちに、この話の整合性が取れるのだ。
その日も朝から母は荒れていた。
怒声、興奮、嗚咽。
暫くすると、入眠し、家の中に静けさが戻った。
話はあちこちに飛ぶが、母の言いたいことはこれ。
『私を捨てないでくれ』
『私をここに置いてくれ』
目が覚めた母に、「ずっとこの家にいていいんだよ」と伝える。母が完全に理解したかはわからない。
当時の母の口癖「すみっコにおいて」というのは、その頃よく見かけた「すみっコぐらし」からのインスパイアされたものでもなんでもなく
(当時、知る筈のない最新の単語を急に辿々しく口にすることが何度もあった)、
「捨てないで、家の隅でもいいから居させて」という意味だったと気付いた。父に尋ねると、「そうだよ」と答える。
また、父は、「お母さんは、中学生の頃、知り合いの商売をしている家に貰われることになって、夏休みの間遊びに行ったけど、愛想も悪いし、うまく働けなくて、その話がなくなったんだよ」とも言う。
「だから‘’捨てられる‘’ことに怯えている」とも。
母の中学時代の話が、小説やドラマの話ではなく、紛れもない事実だったことに驚いた。
母は、優等生タイプの努力家で、また家族の誰かがどんよりしている時でも、一人喋り倒して明るい雰囲気を作ってくれる人だった。まさか、こんな大事な話が母の中に隠されていたとは。
母は5人兄弟の2番目だ。昭和20年代の話とはいえ、「5人のうち、誰か一人をあげる」と言われた時の絶望を想像した。
また、うまく働けず「要らない」と突き返された時はどんな気持ちだったの?お母さん。
この時代、この程度の話ならゴロゴロ転がっていただろうし、もっと不幸のどん底のような話も数え切れないほどあっただろう。
でも。
つい、今の時代と比較してしまう。
「トラウマ」という言葉さえなかった時代。「当たり前」として処理されていた残酷さに思いを馳せる。
4.三度の「喪失」
母が認知症を発症し、いよいよ人との会話も難しく、自分で判断することもできなくなると、私が母の代わりに意思を語り、決定を下してきた。
同時に、それはとても難しくキツイことだった。
母が荒れ狂うほど願った「もう二度と私を捨てないで」と、繰り返された「捨てないで、隅っこに置いて」という言葉は、かつて商家に預けられた10代の少女の叫びそのものだったのだ。
私は、最後までこの家にいていいよ、と母に何度も誓った。自分にも。
しかし、話はそう簡単ではない。紆余曲折を経て、自宅介護が難しくなり、母は施設に行った。
一度目の喪失は、実の親から「手放していい存在」と認識されたこと。
二度目の喪失は、姉妹の中で唯一、物理的にも心理的にも遠い東京へ嫁ぎ、地元の縁から切り離されたこと。
三度目の喪失。認知症を患い、もっとも恐れていた「捨てられる(施設に入る)」という状況が現実になったこと。
私は自らの手で、3度目の喪失を執行した張本人だ。
昭和20年代、口減らしや養子縁組が珍しくなかった時代とはいえ、多感な中学生の時に「誰か一人をあげる」という対象に選ばれ、外に出された記憶は、母の魂に深い傷を刻んだのだと思う。「無愛想でうまく働けなかったから戻された」という結果さえも、母にとっては安堵ではなく、「どこにも居場所がない」という孤独を深める要因になったのかもしれない。
「血縁が薄い人は、すべてにおいて薄い」
若い頃の母がよく口にしていた言葉。
母が歩んできた道のりを辿ると、その「薄さ」という言葉に込められた痛みが伝わってくる。
5.縁の「濃さ」の再定義
母は自分のことを「縁が薄い」と思っていたのだと、60歳の私は思う。
こうして書き記しながら、少しでも母の魂に触れることができたらいいなと思っている。
綺麗事だろうか。
「捨てた」という罪悪感を超えて、母という一人の女性の人生を丸ごと受け止めた時、その縁は決して「薄い」ものではなくなっているはずだから。
