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【鎌倉を彩った人々】 親鸞――念仏に希望を託した人

――弱いままで、なお救われるという希望


 鎌倉という乱世にあって、この人が最後に手にしたのは、自分の強さではなかった。念仏だった。


 世が乱れるとき、人は自分の力だけでは生ききれなくなる。正しくあろうとしても正しくあれず、強くあろうとしても強くあれない。何かを信じようとしても、その心さえ揺らいでしまう。鎌倉とは、まさにそうした時代だった。


 だが、その同じ時代に、人間の弱さから目を逸らさず、むしろその底まで降りていった人がいた。親鸞である。


 親鸞は9歳で得度し、比叡山で20年、堂僧として修行したと言われる。不断念仏を怠らず、学問も修めた。だが、そこに答えはなかった。どれほど努めても、煩悩は消えず、迷いは晴れず、救いの確かさは得られない。20年やっても、自分は自分を救えない。この冷たい事実だけが残った。


 29歳の親鸞は、比叡山を降りる。京都の六角堂に100日籠もる。聖徳太子を本尊とするその小さな堂で、救世観音にすがって夢告を待つ。そこで出会ったのが、法然の専修念仏だった。ただ念仏して、阿弥陀仏の本願に身を委ねる道である。


 宗派の選択ではない。人間は自分の力だけで完成できる存在ではない、という、きわめて厳しい自己認識だった。強くなれない。清らかになれない。修行を貫ききれない。そういう自分のどうしようもなさを、もう誤魔化さないということだった。


 そして彼に、追い打ちのような転落が来る。


 建暦2年(1207年)、念仏弾圧。法然門下は解散させられ、親鸞は越後へ流罪となる。僧籍を剥がされ、「藤井善信」という俗名を与えられる。僧でもない。俗でもない。非僧非俗。都のエリート僧侶から、北国の流人の身へ。権威も、肩書も、守ってきたものが全部剥がれる。


 だが、この剥がされた場所でこそ、彼の教えは本当の現実に触れる。


 越後で出会うのは、比叡山の学問も、都の作法も知らない人々だ。文字を読めない者、罪を抱えた者、明日をも知れぬ暮らしをしている者たち。彼らに「もっと強くならねばならない」「もっと正しくならねばならない」とは言えなかった。言っても届かないし、届いたとしても救いにならないことを、親鸞自身が一番よく知っていたからだ。20年修行しても自分が救えなかったのだから。


 ここで、後に「悪人正機」と呼ばれる親鸞の思想が姿を現す。誤解されやすい言葉である。悪人だから良い、悪をなしても良い、という意味ではもちろんない。


 自分を善人だと思い、自分の力で救いに届くと思っている者よりも、むしろ自分のどうしようもなさを知っている者の方が、阿弥陀仏の救いを切実に必要としている、ということだ。ここには、人を裁くより先に、人間の深い弱さを見つめる眼差しがある。親鸞は、人を高みに引き上げる前に、まずその弱さの底にまで降りていったのである。


 【鎌倉に呑まれた者たち】で見てきた人々を思い出してみてほしい。立派すぎて助からなかった重忠も、有能すぎて嫌われた景時も、人がよすぎて引けなかった義盛も、将軍であろうとして潰れた頼家も、父の怨みから降りられなかった公暁も、立派すぎて降りられなかった泰村も、そして最後に全部背負わされて潰れた高時も。彼らは皆、どこかで「強くあらねばならない」という鎌倉の圧力に押されて、逃げ道を塞がれた。


 親鸞は、その圧力の外側に、もう一つの道があることを示した。


 強くなれなくてもいい。正しくあり続けられなくてもいい。その弱さごと、念仏の中に置いてみよ。そう呼びかける声が、乱世には必要だった。


 鎌倉という政権は、人を呑み込むことで固まっていった。だが同じ時代に、人を呑み込まず、むしろこぼれ落ちる者たちを抱え込もうとした思想も生まれていた。親鸞の念仏は、人を呑み込んでいく鎌倉という時代の中で、こぼれ落ちる者たちを抱えようとした、もう一つの生き方だったのではないか。


 人は弱い。だからこそ、なお救われうるのだと。


 その言葉は、勝者の論理に疲れた時代に、静かで深い希望を与えた。そして今もなお、強くあれ、正しくあれと迫られる私たちの心に、別の道があることを教えている。



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