原田マハ『晴れの日の木馬たち』――パリへ向かう
「ハッピーエンド」に流す、理性の涙――
原田マハ「晴れの日の木馬たち」を井上ひさしの補助線で解剖する
先日、私は自分自身の読書OSが「直感型」から「構造型」へ、そしてそれらが融合したハイブリッドな視座へと進化してきたプロセスをnoteに綴った。
その新しいOSを携えて、今、猛烈にワクワクしながらページを繰っている一冊がある。
原田マハの『晴れの日の木馬たち』だ。
断言する。
本作は、これまでに彼女が送り出してきた数々のアート小説のどれをも凌駕する「傑出した最高傑作」である。
そして、これほどまでに私の心が震え、何度も涙が溢れたのは、私の知性の底流を形作ってきた「井上ひさし」の遺伝子が、この物語の奥底で完璧に共鳴しているのを脳内OSが感知したからに他ならない。
1. 悲劇の涙と、ハッピーエンドの涙
私はこれまでの読書史の中で、いくつかの忘れられない「涙」を経験してきた。
古くは、井上ひさしの『21番目の少年』が突きつける戦後の過酷な現実と少年の運命。
あるいは、雫井脩介の『つばさものがたり』が描く奇跡と喪失。
これらはすべて、胸が締め付けられるような「切なさや悲劇」がもたらす喪失の涙だった。
しかし、『晴れの日の木馬たち』が流させる涙は、それらとは全く本質が異なる。
本作は、過酷な境遇にある少女・山中すてらが、大原美術館の設立者・大原孫三郎との出会いを経て、筆一本で自らの運命を切り拓き、東京からパリへと羽ばたいていく「光へ向かうハッピーエンド」の物語だ。
悲しい話ではないのに、なぜこれほど泣けるのか。
その謎を解く鍵は、かつて私が随分前に読み込み、今なお燦然と輝く井上ひさしの不朽の巨編『四千万歩の男』にある。
50歳を過ぎてから天文学を学び、黙々と歩いて日本地図を作り上げた伊能忠敬。
彼のあの圧倒的な執念、地道な一歩一歩の積み重ねが、やがて世界を変える奇跡へと昇華していく姿に、私たちは理屈抜きで痺れ、涙を流した。
原田マハが描く山中すてら(それは書くことへの情熱を100%投影した作者自身の分身だ)もまた、原稿用紙に向かって一文字一文字、孤独に文字を紡いでいく「歩く者」である。
忠敬の四千万歩と、すてらの数万行。
何かに魂を捧げて挑戦する人間の不屈の美しさが、確かな史実の重み(大原美術館の誕生秘話)という構造の上で踊るとき、私の脳内OSは「人間の可能性に対する祝福」としての涙を堰を切ったように流すのだ。
2. 宗教文学を排した先にある原田マハの「光」
本作を「構造型OS」で解剖したとき、もう一つ浮かび上がってくる重要な横糸がある。
それは物語の背景に流れる「キリスト教の精神」だ。
主人公・すてらは、宣教師アリスの教会で聖書や英語を学び、自らの人間の尊厳を見出していく。
そして彼女を支える大原孫三郎もまた、史実において敬虔なクリスチャンであり、社会福祉に命を懸けた男だった。
ふり返れば、私は中学生のころから遠藤周作の「狐狸庵先生」を愛読し、週刊文春の軽妙なエッセイを好んで読んできた。
しかし、その作者である遠藤周作が「敬虔なキリスト教徒」として描く、あの重苦しく、人間の原罪や葛藤を煮詰めたような小説群は、正直に言って苦手だった。
だが、本作『晴れの日の木馬たち』の根底に流れるキリスト教的救いの気配に対しては、私は驚くほど自然に、そして素直に感動の涙を流すことができた。なぜか。
それは、原田マハが描く「信仰と祈り」が、人間を暗闇に縛り付ける教条的なものではなく、人間を前へと突き動かす「光」として機能しているからだ。
かつて『風神雷神』を読んだ際にも感じた、アートと信仰が結びついた瞬間の神聖なエネルギー。
作者自身はクリスチャンではないというが、だからこそ客観的に描くことのできる、「聖書や信仰が持つ、人を救い、前へ進める普遍的な力」への清々しいリスペクトがそこにはある。
重苦しい宗教の足枷ではなく、絶望的な環境に置かれた個人が、自らの尊厳を獲得するための純粋な駆動装置としての祈り。
それが、この物語に名作悲劇と同等、いやそれ以上の圧倒的な思想的強度と、濁りのないハッピーエンドを与えている。
結論:回転木馬(マネージュ)はパリへ回る
10代から30代の活字中毒期に浴びた、大藪春彦や沢木耕太郎の動と静のハードボイルドな熱量。
40歳の転換点で立花隆から叩き込まれた、ファクトによる世界の構造化。
そして2006年からの数年間、小説を断ってひたすら論文の要旨・論点を整理し続けた論理の筋力。
これらすべての前線を経て、今、私が原田マハの最新作をこれほど深い解像度で味わえていることは、最高の贅沢だと言わざるを得ない。
物語の終盤、すてらは1920年代の芸術の都パリへと旅立つ。
単行本はここで幕を閉じるが、作者のライフワークとして、物語はすでに『小説新潮』の第2部へと引き継がれ、現在進行形で回っている。
直感という野生でアートの美しさに胸を躍らせ、構造という理性でその背後にある井上ひさし的執念と、原田マハらしく昇華された光の救済システムを読み解く。
すてらがこれからパリで目にするであろう本物の「回転木馬(マネージュ)」の音を、私は自らのハイブリッドOSを心地よく駆動させながら、静かに、しかし最高にワクワクしながら待っている。
──S
追記:
表紙が語る、もう一つの「木馬」のメタファー
最後に、本作の単行本の表紙(装丁)について…。
装丁に使われているのは、フランスの巨匠ロベール・ドアノーが1969年に撮影した名作『シャン・ド・マルスの騎馬隊』である。エッフェル塔を背景に、うっすらと霧が煙る広場を「騎馬隊」が往く――という文字面の情報だけを鵜呑みにすると、この装丁の真意を見誤る。
写真を凝視すれば、そこに写っているのは本物の騎馬隊などではない。
写っているのは、子供たちが乗って遊ぶおもちゃの「ペダル式足漕ぎ木馬」であり、それを何台も縦に数珠繋ぎに連結し、先頭の手押し棒をグッと握って泥臭く引っ張っている「ひとりの労働者のおじさん」の後ろ姿なのだ。
日常の奇妙な一瞬を切り取る天才(イメージの釣り人)であったドアノーは、おもちゃの木馬を引き連れて歩くおじさんの姿に最大のユーモアとエスプリを込め、あえて『シャン・ド・マルスの騎馬隊』と名付けた。
このファクトを知ったとき、原田マハがなぜ数あるパリの写真からこの一枚を、自らのライフワーク(著書)の「顔」として選んだのか、その構造の設計図が完璧に腑に落ちる。
物語のタイトルにある「木馬」とは、倉敷の工女であったすてらが、写真を通してのみ知る遠い異国の回転木馬(マネージュ)であり、彼女にとっての「純粋でまぶしい『憧れの乗り物』」そのものだ。
いつかあのアートの都へ行き、本物のマネージュに乗ってみたい――。
その果てしない夢が、彼女が筆を執る原動力となっている。
そして、写真の中の木馬たちは、おじさんの力強い足取りによって、間違いなく憧れの地であるシャン・ド・マルスの大地を、一歩一歩「前進」している。
厳めしい軍隊の行進ではなく、中身は子供たちを笑顔にするためのおもちゃの木馬。
そこには、地道に糸を紡ぎ、原稿用紙に向かって一文字一文字、孤独に自らの人生と「憧れ」を牽引してきたすてらの、泥臭くも愛おしい不屈の歩みがそのまま重なる。
平面の写真でしかなかった「憧れの乗り物」を、ユーモアと意志の力で、自らのリアルな人生のハッピーエンドへと手繰り寄せていく力。
このドアノーの一枚は、第一部の結末、そして第二部以降でパリへと羽ばたき、ついに本物のマネージュを目にするであろうすてらの運命を、言葉以上に雄弁に物語る「構造的な伏線」なのだ。
これから本作を読まれる方、あるいはすでに読み終えた方は、ぜひ一度、本を閉じて表紙の「おもちゃの木馬を引き連れたおじさん」を凝視してみてほしい。
原田マハという作家が仕掛けた、人間への、そして表現への圧倒的な祝福の光が、モノクロの画面から温かく浮かび上がってくるはずである。

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