「波の音」 - シロクマ文芸部
後にも先にも、あれほどに青く晴れた空の下、海に出向いた経験はなかった。校外学習の一環で、潮干狩りに行ったのだ。アサリやハマグリを掘り集めて、家に持ち帰った。その日に母は夕食にしてくれた。仕事から遅く帰ってきた父親には、酒のツマミとなった。
思い出せることは、あとはひとつ。麦わら帽子を用意してきた彼女だけだった。それが僕の記憶に残っているまともな海だった。
男子も女子も、学年全体が参加するイベントで、見渡す限り広い海。そんな砂浜の全体をぐるりと見通すと、帽子を被っているのは彼女だけ。校内でいつも見ないようにするのがやっとなのに、これでは、どれほど遠く離れて豆粒になっても認識できてしまう。
同じクラスになったことがあり、どのように席替えをしても、彼女はいつも前方の席に座っていた。一度だけ隣同士になったことがあった。向こうは、にこにこと気さくに話しかけてくれたが、僕の方はどうだったか。調子の良い時も、悪い時もあった。
無邪気に何度も接近してきてくれたのに、僕の方は、動けないでいることのほうが多かったのではないか。もう、幾つもの記憶の画面に砂嵐がかかっている。しかし、あの麦わら帽子の姿だけは今も鮮烈に覚えている。
声は思い出せない。あの時の「波の音」も思い出せない。あの時、「波の音」なんて聴いていたか?
容赦なく叩きつける波の音が足元から聴こえてくる。眼の前に広がるのは、夏の真っ只中だというのに、暗雲が垂れこめた海岸線である。あの青く晴れた空も、広い海もない。浜すらない。黒い水面が揺れている。
いや、まてまてまて。セーブポイントからやり直します。
男子も女子も、学年全体が参加するイベントで、見渡す限り広い海。砂浜の全体を見通すと、麦わら帽子を被っているのは彼女だけ。……彼女は楽しそうに目を細めて笑っていたはずだ。それも違うのではないか。僕は彼女のことばかり思い出そうとしている。
髪の毛は肩に届かないくらいの長さなのに、ポニーテールにしていることが多い。紐を解いているときは、いつも縛っている部分の髪に緩いウェーブが掛かっている。
彼女だけが僕の地獄のような青春を一部肯定できる支柱なのだ。彼女のこと以外を思い出そうとしたら一体どうなるのだ。
光が反射した時の彼女の眼は、黒ではなく薄い茶色だった。髪の毛は艶があって細く、如何にも柔らかそうで、肌色も白い。顔には小さなホクロが2,3あったと思う。顔立ちが整っていると僕は思っていたが、周囲は理解しなかった。それでも、男子からの人気はあったと思う。そして、屋内スポーツの部活に入っていた。何の部活だったかな。
それを確かめるため、教室、家庭科室、美術室、音楽室、理科室……体育館にプール。教室移動で散々往復しつくした廊下……。何処にも居ないはずなのに、波の音が聴こえてくる。最後に海岸線に戻ってきた。
不躾な波の音が足元から聴こえてくる。記憶など自分の意思で取り戻すものではないのだ。忘れたことを思い出そうとしているのか、都合の良い美少女ゲームを脳内で自作しているのか、その境界が怪しくなってくる。記憶を隠す砂嵐の向こうで、波の音だけは相変わらず寄せては返していた。その音に意識が呑まれかけた時、頭上でカラスが調子外れに鳴いたので、思わず顔を上げた。
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