「熱帯夜」 - シロクマ文芸部
月次会議の発表資料を、残業して作成している。辺りに残業している社員は誰も居ない。自分1人には広すぎる事務所で、2台備え付けられている吊り下げ型の業務用エアコンの内、自分に近い方の1台だけをフル稼働させている。
部屋全体は冷え切らないが、自分に冷風を直撃できるように設定しているので殆ど問題はない。他の社員はとっくに個別の資料を作り上げて、帰宅しているらしい。印刷・コピーの担当社員に向けて、本日の夕方頃に、添付ファイル付きのメールが集中している。各メールのカーボン・コピーに自分のアドレスが含まれているため、自分のメールボックスを開けばその様子が覗い知れる。この時間帯は、客先に向けて社用車を走らせていた。
帰社時刻には、すっかり夜が更けており、会社は門すら閉ざされ、誰も存在していなかった。日中の光熱を吸い込んだアスファルトが、夜の隙間へ熱を逃している。門前で車から降りた時に、解放されていく地熱をはっきりと感じていた。
誰でも良いから待っていてほしかった……などと考えはしない。だが玄関のみならず、門まで閉められていることには、いささかの残念さが隠しきれず、苦虫を噛み潰す心持ちとはこの事かと、よくよく思い知ったのをおぼえている。
翌朝から始まる会議のための資料を作らなければいけない。このうらぶれた夏の地獄の中で、照明ひとつない薄暗い駐車場に停めたあと、未だ開封していない「パーラメント」のビニールを切って、そのまま玄関を豪快に開け広げた。その衝撃で、鍵は折れた。
砕け散った鍵はそのままに事務所に入り、エアコンの風量を最大にする。咥えていた煙草の煙が、冷風に吹かれて拡散していく。当たり前に禁煙の社内だが知ったことじゃない。
月イチのテンプレートではある。しかし、活用する別資料やファイル群の形式が統一されていないのだ。関数を組んでも、マクロを組んでも、プログラムを組んでも、思い通りにいかず、すぐに崩される。提出するファイルも、毎月のように変更の要望が発生し、底意地悪く、定着しない。
我ながら恐るべき柔軟性で吸収しているはずだが、破綻も近いだろうと予期していた。もう時間が残されていないのだ。みな、各自の時間を得るために押し付け合うことが「効率化」と信じるようになっており、真実の「効率化」を求める者との間には、利害のマイナス関係が構築されていた。
ITリテラシーが皆無の我が社が買い付けたパソコンは、この広すぎるオフィスに対しても、僕の苛立ったタイピングに対しても明らかに性能不足で、画面のフリーズと予期せぬエラーの連続で、業務が順調に進みようがなかった。冷風が直撃した指先が冷え切っていくことで、キーボードを叩く打鍵速度と、自分の思考のリズムが致命的にズレ始める。
粉末を溶かしたインスタントコーヒーに、氷を2,3欠片ほど混ぜたものを、喉に流し込み、心ここにあらずの状態で画面を眺める。自宅の浴槽に飛び込んで、それからベッドに潜り込んで、スマホのフリック入力で資料を作ったほうが、このポンコツなキーボードを叩くより遥かに早いのではないだろうか。
常々思うが、コンピューターという文明の利器を得てからというもの、人間はアイデアマンとしては一丁前に醸成され、上限知らずの理想の資料を求めてくるようになっているのではないか。
何をもって「書き上げた」とするかの正解を定めぬまま、完全体を追求するのは勝手。イノベーティブにもイマジネーションにも限界はないが、人間のアウトプットには限度がある。その事を「アイデアマン」だけは知らない。経験したことがないが、物理ペンで物理紙面に文字を書いていた時代に思いを馳せてみる。それだって限度があったはずだ。鉛筆を使わされていた学生時代のことを振り返ればいい。
自分の字が好きになれなかったり、枠内に上手に収められないだけで人間は正気を保てなくなる。消しゴムで紙が破れるストレス、漢字の習得度という制約……。手書きなら、自由度の点で全てが解決するわけでもない。では、電子入力の手段を得ていさえすれば向かう所敵なしかといえば、全くそんな事はない……今この状況が、嘲笑いながら指し示しているではないか。
結局、道具や環境というものが変わるだけで、人間には必ず違和感が生じるのだ。どの範囲の文章を、どこまで書くべきか……。その定義を自分の中で定めていないうちは、自由であることが却って思考を不安定にしている。
元を糺せば、書き物にせよ仕事にせよ、手元が揺れ始める原因はすべてこれだ。壊れた鍵の隙間から、外のぬるい地熱がゆっくりと冷えた室内へ侵入してくる気がする。直撃する冷気と、足元から這い上がる熱帯夜の湿度、そして羽虫と甲虫の気配……。エアコンの轟音に紛れて、何かが這い回る音が確実に聞こえてきた。資料を完成させなければならないので、画面から目を離さなかった。上司の机を灰皿代わりにして、吸い殻を擦り付けてから帰った。
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