消費者は「市場に自分の意思を伝える権利」を放棄していないか
最近、ゲームが売れないという話を見ていて、少し違うことを考えるようになった。
売れない。
すると、だいたい作る側の問題になる。
もっと面白いものを作れ。
もっと面白そうに見せろ。
消費者が欲しいものを調べろ。
市場を研究しろ。
マーケティングしろ。
もちろん、それは商売として間違ってはいない。
しかし、ずっと供給側だけを見ていていいのだろうか。
もう一方にいる、
消費者はどうなのだろう。
私はむしろ、
消費者が「対価を支払う」という行為の意味を忘れつつあるのではないか
と思うようになった。
買うことは、商品を手に入れるだけではない
1000円のゲームを買う。
普通に考えれば、
1000円を支払ってゲームを手に入れた。
それだけの話だ。
しかし市場全体から見ると、もう一つ意味がある。
その1000円は、
「私はこれに資源を配分した」
という市場への入力でもある。
市場は私の頭の中を読むことができない。
「こういうゲーム好きなんだよな」
と思っていても分からない。
SNSで、
「こういう作品もっと増えてほしい!」
と言っていても、売上データには入らない。
しかし1000円を支払えば、
この商品に1000円分の交換が発生した
という記録が残る。
企業や制作者はそれを見る。
売れた。
需要がある。
では、また作ろう。
あるいは投資しよう。
つまり貨幣市場において購入とは、
商品を手に入れる行為であると同時に、次に何へ資源を配分してほしいかを示す行為
でもある。
市場はあなたの「好き」を知らない
これは結構重要だと思う。
市場は、
あなたが何を好きなのか知らない。
知っているのは、
あなたが何に金を払ったのか
だけだ。
たとえば私は、
実験的なゲームが好きだ。
変な音楽が好きだ。
小さなクリエイターにも残ってほしい。
そう思っていたとする。
ところが実際に支払っている金は、
大手ゲーム。
大手サブスク。
有名シリーズ。
ランキング上位の商品。
SNSで話題の商品。
ばかりだったとする。
市場から見れば、
私はそちらを求めている消費者だ。
頭の中で何を考えているかは関係ない。
市場は、
「この人、本当は変なインディーゲームが好きなんですよ」
なんて忖度してくれない。
金が動いた方向を見る。
そして企業もそこを見る。
それで「最近つまらないものばかり」と言う
ここで少し奇妙なことが起きる。
何年か経つ。
すると、
「最近のゲームって似たようなのばっかりだな」
「昔みたいな変なゲーム減ったな」
「大作ばっかりになったな」
「音楽も似たものばかり」
「映画もシリーズものばかり」
という不満が出てくる。
でも市場側からすると、
少し困る。
「だって、あなたたちがそこに金を払ったから増やしたんですが」
となる。
もちろん市場が消費者の意思を完全に反映するわけではない。
企業側の都合もある。
流通もある。
資本力もある。
プラットフォームもある。
しかし少なくとも、
自分が残ってほしいと思ったものに、自分は資源を流したのか
という問いは、消費者側にもあっていいと思う。
「買わない」も意思表示ではある
もちろん、買わない自由もある。
いらないものに金を払う必要なんてない。
むしろ、
「私はこの文化を必要としていない」
という意思表示なら、買わないことは極めて正しい。
ゲームなんていらない。
映画もいらない。
音楽は無料のもので十分。
インディーゲームなんてなくなっても困らない。
それなら何も矛盾していない。
市場に金を流さない。
供給が縮小する。
本人も困らない。
綺麗な話だ。
私が奇妙だと思うのは、
「残ってほしい。でも払わない」
である。
「このシリーズ大好きです!」
「こういうゲームもっと作ってください!」
「この作者には活動を続けてほしい!」
「最近こういう作品減ったよね」
と言いながら、
自分は一円も払わない。
これでは市場には、その「好き」がほとんど伝わらない。
無料で十分、という合理性
今は無料でも大量の娯楽がある。
ゲーム。
音楽。
動画。
SNS。
漫画。
配信。
過去作品。
一生かかっても消費しきれない。
だから、
「無料で面白いものが大量にあるのだから、有料なら圧倒的に欲しいと思わせろ」
という考え方も出てくる。
一人の消費者として考えれば合理的だ。
なぜ同程度なら無料の方を選ばないのか。
その通りだと思う。
しかし全員が同じ行動を取った場合はどうだろう。
「圧倒的に欲しい」もの以外には誰も払わない。
すると中間にある大量の作品には金が流れない。
供給側は学習する。
そこには需要がない。
では、もっと売れるものを作ろう。
もっと人気ジャンルへ寄せよう。
もっと話題になるものを作ろう。
もっとマーケティングしやすいものを作ろう。
そして数年後、
「最近似たようなものばっかりだな」
となる。
それは本当に供給者だけの責任なのだろうか。
消費者は「提示されたもの」を買っていないか
さらに現代では、もう一つ問題がある。
自分で選んでいるつもりでも、
何を知るか
の時点で既に選別されている。
広告。
ランキング。
おすすめ。
レビュー。
SNS。
インフルエンサー。
アルゴリズム。
話題の商品。
売れている商品。
そうして提示されたものから、
「これが欲しい」
と選択する。
そして金を払う。
その売上を企業が見る。
「これが求められている」
と判断する。
似たものを作る。
プラットフォームも売れるのでさらに表示する。
また消費者が見る。
また買う。
こうして、
提示される
↓
買う
↓
売れたから増える
↓
さらに提示される
という循環ができる。
形式上は、ずっと消費者が自由に選んでいる。
しかし、
その選択にどれだけ本人の意思が介入しているのだろう。
ニッチ市場では、この関係がよく見える
この問題の逆側にあるのがニッチ産業だと思う。
特殊な工具。
古い機械の補修部品。
マイナーな楽器。
専門書。
特殊用途のソフトウェア。
こういう世界では、
「100万インプレッション達成!」
なんて必要ないことがある。
必要としている人が100人しかいなくても、
その100人が、
「これがなくなると困る」
と思って対価を支払えば成立する。
供給者も分かっている。
消費者も分かっている。
作る人がいなくなれば、本当になくなる。
だから払う。
ここでは購入と需要がかなり直接的につながっている。
大衆文化では、あまりにも供給が多いために、この感覚が見えなくなったのではないだろうか。
ゲームは未来永劫、勝手に生えてくるのか
ゲームは毎年大量に発売される。
だから、
自分が買わなくても次が出る
ように感じる。
AIによって制作コストが下がれば、さらに大量に作られるだろう。
なら問題ない?
私はそう単純ではないと思う。
ゲームの本数は増えるかもしれない。
しかし、
自分が好きだった種類のゲーム
が残るとは限らない。
そこに金が流れなければ、職業として作る人はいなくなる。
巨大資本の作品。
広告モデルで成立する作品。
課金モデルで成立する作品。
趣味として無料で作られる作品。
そういうものは残るかもしれない。
しかし、
少人数が数年かけて作る、妙な有料ゲーム
のような中間領域は成立しなくなるかもしれない。
そして消えてから、
「昔はこういうゲームあったのにな」
と言う。
そのとき初めて、
あれは自然発生していたのではなかった
と気付く。
供給者だけに市場責任を負わせていいのか
「売れないのは努力不足」
「もっと消費者が欲しいものを作れ」
「マーケティングを勉強しろ」
「売れる見せ方をしろ」
そういう話はよく聞く。
もちろん商売としては正しい。
売りたい人は売る努力をすればいい。
しかし市場は供給者だけでは成立しない。
供給者は、何を作るかによって市場へ意思を示す。
そして、
消費者は、何に対価を支払うかによって市場へ意思を示す。
両方が市場参加者だ。
なのに、いつの間にか後者だけが、
「与えられたものから無料で一番いいものを探す人」
になってはいないだろうか。
対価を支払うという権利
私は「もっと金を使え」と言いたいわけではない。
いらないものは買わなくていい。
無料で十分なら無料でいい。
なくなっても構わない文化なら、そこへ金を流す必要もない。
ただ、
対価を支払うという行為は、単なる損失ではない。
それは貨幣市場において、
自分の意思で資源配分へ介入できる行為
でもある。
何を残したいのか。
誰に作り続けてほしいのか。
どんな文化が存在してほしいのか。
その意思を、市場が理解できる形式に変換する。
それが「買う」という行為の一側面なのではないだろうか。
「こんなはずではなかった」の前に
もし自分の支払い先を、
広告。
ランキング。
アルゴリズム。
インフルエンサー。
流行。
社会的評価。
そういったものにほとんど任せてしまったなら、
市場に残るものも当然それらに強いものになる。
そしていつか、
「こんなものばかり欲しかったわけじゃない」
となる。
でも市場からすれば、
「あなたが金を払ったのはこちらです」
でしかない。
市場は心を読めない。
「本当はこっちが好きだった」
は伝わらない。
だから時々は考えてもいいのではないだろうか。
自分は何を買わされたかではなく、何に金を流したいのか。
消費者は市場の外にいる観客ではない。
市場を作っている当事者だ。
そして貨幣を使う社会にいる限り、
対価を支払うことは、消費者が市場に自分の意思を入力できる、最も直接的な方法の一つだ。
その権利を、
私たちはいつの間にか、
マーケティングやアルゴリズムに委ねてはいないだろうか。
