センスとは発見能力である

人間は「見つけること」がそれほど得意ではない
「センスがある」
よく使う言葉だけれど、考えてみるとかなり曖昧だ。
絵が上手い人を見て「センスがある」と言う。
曲を上手く作れる人にも言う。
服を綺麗に合わせられる人にも言う。
文章が上手い人にも言う。
でも、それは本当にセンスなのだろうか。
単に技術が高いだけかもしれない。
最近、センスというものはもっと単純に定義できるんじゃないかと思う。
センスとは、発見能力である。


創作者は「新しい組み合わせ」を発見する

創作は「無から何かを生み出す行為」のように語られる。
でも実際には、完全な無から何かを作っているわけではない。
音は既にある。
色も形もある。
言葉もある。
ゲームのルールもある。
物語の構造もある。
創作者がやっていることの一つは、それらの間にまだ誰も価値を見出していない関係を発見することだ。
「この音とこの音を組み合わせたら面白いんじゃないか」
「この思想をゲームルールにしたらどうなるんだろう」
「この映像表現と、この音楽を合わせたら変な感覚が生まれるんじゃないか」
材料そのものを発明したわけではない。
既に存在していたものの間から、新しい組み合わせを発見している。
だから創作者のセンスとは、作る技術そのものではなく、
まだ存在していない関係を見つける能力
なのかもしれない。

キュレーターは「異質」を発見する

一方、キュレーターやプロデューサーのセンスは少し違う。
彼らは必ずしも何かを作る必要はない。
大量の作品や人間の中から、
「これだけ何か違う」
を発見する。
1000曲の中から一曲。
1000人の中から一人。
まだ売れていない。
フォロワーもいない。
賞も取っていない。
誰も評価していない。
そんな状態で、
「この人、なんか違うぞ」
と気づく。
これも発見能力だ。
むしろ、その人が有名になってから、
「やっぱり才能があった」
と言うのは簡単だ。
売上、賞、肩書き、フォロワー、レビュー。
既に社会が、
「ここに価値があります」
というラベルを貼ってくれているからだ。
本当にセンスが問われるのは、そのラベルが貼られる前だ。
他人には普通に見えているものの中から、異質を発見できるか。
そこにキュレーターとしてのセンスがある。

センスの形は違っても、やっていることは同じ

この考え方は創作だけに限らない。
研究者は、誰も気にしていない現象から異常を発見する。
起業家は、誰も市場だと思っていない場所から需要を発見する。
投資家は、市場価格と実態のズレを発見する。
編集者は、まだ評価されていない作家を発見する。
発明家は、既存技術の間から新しい用途を発見する。
創作者は、既存要素の新しい組み合わせを発見する。
キュレーターは、群れの中から異質を発見する。
方向が違うだけで、根っこでは同じことをしている。
みんなが同じものを見ているのに、一人だけ違うものを見つける。
その能力を、僕らは「センス」と呼んでいるのではないだろうか。

技術とセンスは別の能力である

ここを分けると、「上手い」と「センスがある」の違いも見えてくる。
既存の絵柄を完璧に描ける。
既存ジャンルの曲を高品質に作れる。
高度なプログラムを書ける。
既存作品のスタイルを正確に再現できる。
これらはすごい能力だ。
ただ、それは基本的には技術だと思う。
技術とは、
既に知られているものを、高精度に実現する能力。
一方でセンスとは、
まだ価値として認識されていないものを発見する能力。
だから、
技術が高い=センスがある
とは限らない。
逆もある。
面白いことに気づいているのに、それを形にする技術を持っていない人もいる。
今までは、その人のセンスは外から見えにくかった。
発見していても、実装できなければ作品として存在できなかったからだ。

模倣そのものはセンスではない

模倣も同じだ。
優れた作品を完璧に再現できることは、高度な能力である。
でも、模倣そのものは発見ではない。
既に誰かが発見した価値を再現しているからだ。
もちろん、
「なぜこの作品が面白いのか」
を他人とは違う角度から発見したり、
「この要素を別の場所へ持っていったら面白い」
と気づいたりすれば、そこにはセンスがある。
だから模倣の中にもセンスは入り得る。
ただ、
模倣の精度そのものをセンスと呼ぶ必要はない。
それは技術として評価すればいい。

そもそも人間は、発見することが得意なのか

ここで一つ疑問が出てくる。
そもそも人間は、本当に発見することが得意なのだろうか。
人類は科学を発展させ、無数の発明を生み出し、巨大な文明を作った。
だから人間は、
「発見能力に優れた生物」
のように思える。
でも、個体として見ると少し違う。
犬ほど匂いを嗅ぎ分けられない。
猛禽類ほど遠くを見ることもできない。
人間には聞こえない音を聞く動物もいる。
わずかな振動や環境変化を感知する生物もいる。
環境に存在する微細な差異を見つける能力だけなら、人間より優れた生物はいくらでもいる。
では、なぜ人間はこれほど文明を発展させられたのか。

人類が得意だったのは「発見」ではなく「発見の蓄積」なのかもしれない

人類の強さは、一人ひとりの発見能力ではなく、
誰か一人が発見したものを、全員で共有できること
だったのではないか。
誰かが気づく。
言葉にする。
他人へ伝える。
記録する。
次の世代へ残す。
次の人間は、その発見を最初から知っている。
そして、その先を考える。
つまり人間は、
発見 → 言語化 → 共有 → 保存 → 継承 → 発展
という仕組みを作った。
毎世代、火を発見し直す必要はない。
一人が見つければ、次の世代にとってそれは「既知」になる。
だから人類の強さは、
全員が発見できることではなく、ごく一部の人間の発見を全員の知識に変換できること
だったのかもしれない。
これはかなり大きな違いだ。

文明は「発見しなくても生きられる世界」を作った

そして文明が発達するほど、自分で発見する必要はなくなっていった。
昔なら、自分で周囲を観察しなければならなかった。
しかし知識が蓄積されると、
「これは危険です」
「これは食べられます」
「この方法が効率的です」
「ここを通れば目的地へ着きます」
と誰かが教えてくれる。
これは圧倒的に効率がいい。
全員が毒キノコを食べて死にかけながら学習する必要はない。
でも、その代わり、
自分自身で未知を発見する必要は減る。
インターネットが登場すると、さらに外部化された。
分からなければ検索すればいい。
そしてSNSでは検索すら必要なくなってきた。
おすすめが出てくる。
ランキングがある。
レビューがある。
フォロワー数が表示される。
アルゴリズムが、
「あなたが見るべきものはこれです」
と持ってきてくれる。
人間は、
観察する → 発見する → 検索する → 推薦される
と、徐々に探索そのものを外部へ委ねてきた。

「人気だから見る」は発見ではない

100万再生だから聴く。
ランキング1位だから買う。
賞を取ったから読む。
有名だから見る。
フォロワーが多いから才能があると思う。
これは別に悪いことではない。
人間の時間には限界がある。
社会的評価を探索のショートカットとして使うのは合理的だ。
でも、それは自分が価値を発見したわけではない。
誰かが発見したという情報を受け取っただけだ。
ここを混同すると、「才能を見抜く」という話までおかしくなる。
既に成功した人を見て、
「この人には才能がある」
と言うことに、大した発見能力はいらない。
社会が巨大な矢印を付けて、
「ここです」
と教えてくれているからだ。
発見とは、その矢印が存在しない状態で気づくことだ。

人間が発見を苦手とするからこそ、センスには価値がある

ここまで考えると、なぜセンスというものが希少なのかも見えてくる。
人間が誰でも簡単に異質を発見できるなら、センスに大した価値はない。
1000人が見て1000人とも、
「これだけ違う」
と気づくなら、それは既に分かりやすい特徴だからだ。
でも現実には、
999人が素通りしたものを、一人だけが拾うことがある。
999人が同じだと思ったものを、一人だけ違うと言う。
999人が問題ないと思っている前提に、一人だけ違和感を持つ。
だから価値がある。
センスとは、
他人にはノイズとして処理される差異の中から、意味のある異質性を発見する能力
なのかもしれない。

AIによって才能が消えるのではなく、センスが露出する

ここで生成AIの話につながる。
AIによって、
絵を描く。
曲を作る。
文章を書く。
映像を作る。
プログラムを書く。
こうした実装コストが急速に下がっている。
すると、
「作れること」そのものの希少性
は相対的に下がっていく。
だから、
「AIによって才能が不要になる」
と言われることがある。
でも逆なのかもしれない。
これまでは、
発見能力 × 実装技術
が揃わなければ、作品として外へ出せなかった。
どれだけ面白いことに気づいていても、技術がなければ形にならない。
つまり技術は、発見を外へ出すための巨大な関所だった。
AIはその関所を小さくする。
すると最後に残る問いは、
「あなたは何を作れるの?」
ではなく、
「あなたは何を発見したの?」
になる。

上手いものが溢れた後に残るもの

誰でも綺麗な絵を作れる。
誰でも整った曲を作れる。
誰でも動くゲームを作れる。
誰でも読みやすい文章を書ける。
そんな世界になったとき、
「上手い」
だけでは差がつかなくなる。
そこで問われるのは、
何を組み合わせたのか。
何に違和感を持ったのか。
何を面白いと思ったのか。
何を他人と違うと思ったのか。
そして、
誰も見ていなかった何を見つけたのか。
これは才能が消える世界ではない。
むしろ、
技術によって覆い隠されていた才能の正体が露出する世界
なのかもしれない。

センスとは、同じ景色から違うものを見つける能力

だから、
「センスを磨く」
という言葉も少し意味が変わる。
技術を反復することだけではない。
流行を大量に覚えることでもない。
正解を知ることでもない。
違いに気づく。
違和感を捨てない。
みんなが同じだと思っているものの中から異質を探す。
関係ないと思われている二つのものの間に関係を見つける。
誰も価値を感じていないものを面白がる。
そういうことなのだと思う。
だから、かなり単純化すれば、
技術とは、既知のものを高精度に実現する能力。
センスとは、未知の価値を発見する能力。
創作者は、新しい組み合わせを発見する。
キュレーターは、群れの中から異質を発見する。
研究者は、現象の中から異常を発見する。
起業家は、社会の中から需要を発見する。
投資家は、市場の中から歪みを発見する。
そして人類が元来、発見そのものをそれほど得意としていないのだとすれば、発見できる人間が珍しいのも当然なのかもしれない。
みんなと違うものを作れる人だけが、センスのある人なのではない。
みんなと同じ景色を見ているのに、そこから違うものを発見できる人。
それを僕らは、
「センスがある」
と呼んでいるのではないだろうか。

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