「エンジョイ勢」は誰とゲームを楽しんでいるのか

―ゲームがコミュニケーションツールになったとき、野良プレイヤーはNPCになる
「ゲームは楽しむものなんだから、そんなに勝敗にこだわらなくてもいい」
オンラインゲームでは、よく聞く言葉だ。
初心者に優しくしよう。
ガチ勢は怖い。
勝ち負けより、みんなでワイワイ遊ぶ方が大切。
いわゆる「エンジョイ勢」と呼ばれる人たちの価値観である。
もちろん、ゲームなんだから楽しめばいい。
ただ、ずっと一つ疑問がある。
その「みんな」って、誰なんだろう。


ガチ勢だって普通にエンジョイしている

そもそも「ガチ勢」と「エンジョイ勢」という分類がおかしい。
新作MMOのサービス開始日に有給を取る。
スタートダッシュして、まだ攻略情報もない敵に突っ込む。
「この攻撃どういう条件だ?」
「この装備なら耐えられるんじゃない?」
「このルートの方が経験値効率よくない?」
深夜まで試して、失敗して、また試す。
傍から見れば苦行である。
しかし本人たちはめちゃくちゃ楽しい。
むしろ、
誰よりもゲームをエンジョイしている。
だから「ガチ勢=楽しんでいない」「エンジョイ勢=楽しんでいる」という分類は最初から成立していない。
違うのは、何を楽しんでいるかだ。

ゲームそのものを楽しむ人と、ゲームを介して楽しむ人

ゲームを遊ぶ動機を考えると、かなり違うタイプがいる。
探究する人なら、
「この仕様はどうなっている?」
「この敵には別解がないか?」
「このビルド、本当に弱いのか?」
と、ゲームそのものに問いかける。
最適化する人なら、
「どうすればもっと速くなる?」
「もっと勝率を上げられないか?」
と既知のゲームを詰めていく。
競技する人なら、
「相手に勝ちたい」
が目的になる。
一方、いわゆるエンジョイ勢の一部には、かなり違う目的がある。
「友達と遊びたい」
「VCでワイワイしたい」
「みんなで盛り上がりたい」
この場合、ゲームそのものが目的ではない。
ゲームがコミュニケーションツールになっている。

それなら、なぜそのゲームなのか

ここで疑問が出てくる。
勝敗にもそれほど興味がない。
攻略にも興味がない。
最適化にも興味がない。
それなら、なぜわざわざFPSやMOBAを選ぶのだろう。
極端な話、鬼ごっこでもいい。
昔、友達の家に集まって『くにおくん』をやっていたのと似ているのかもしれない。
「お前それ反則だろwww」
「ちょ、待てwww」
「そっち行くなwww」
勝敗はある。
しかし本当の目的は、友達と一緒に笑うことだ。
ゲームは共通の出来事を発生させる装置だった。
現代のオンラインゲームも、この用途には非常に優秀だ。
敵が来る。
味方が死ぬ。
事故が起きる。
逆転する。
ゲーム側が勝手に、
コミュニケーションの話題を供給してくれる。
だから単純な交流空間よりFPSやMOBAの方が刺激的なのだろう。
ここまでは何の問題もない。

昔の「くにおくん」には、最初から境界線があった

ただ、昔の友達とのゲームには重要な条件があった。
その場にいるのは全員身内だった。
だから、
「今日はふざけて遊ぼうぜ」
が成立する。
全員が同意しているからだ。
ところがオンラインゲームでは違う。
身内4人で遊んでいるところへ、マッチングで野良が1人入ってくる。
身内4人はVCで盛り上がっている。
「変な構成で行こうぜwww」
「負けても楽しければいいじゃんwww」
それ自体はいい。
でも野良の1人は、その合意に参加していない。
その人はただ、
「このゲームの勝利条件を達成するために5人PTへ参加した」
だけかもしれない。
ここで認識のズレが発生する。

「みんな楽しい」の「みんな」に野良が入っていない

ソーシャル型のプレイヤーはコミュニケーションを重視する。
ところが、コミュニケーションを重視しているはずなのに、野良プレイヤーとの関係性が見えていないことがある。
身内4人+野良1人で、
「みんな楽しんでるんだからいいじゃん」
と言う。
でも、その「みんな」は実質4人しかいない。
野良は、
ゲームシステムが補充してくれた5人目
として扱われる。
言ってしまえば、NPCに近い。
もちろん本人たちが意識的に、
「野良はNPCだ」
と思っているわけではないだろう。
しかし構造としてはそうなる。
身内は人間として認識する。
身内の気分には配慮する。
身内が楽しいかを考える。
一方、野良については、
「野良がなんか怒ってるw」
で終わる。
野良本人からすれば、
「いや、俺も同じゲームを遊んでいる人間なんだが」
となる。

コミュニケーション重視なのに、関係性が閉じている

これはなかなか皮肉な現象だと思う。
コミュニケーション量は多い。
Discordでも話す。
VCもする。
SNSでも交流する。
しかし、認識している関係性は閉じている。
つまり大切にしているのは、
コミュニケーションそのものではなく、既存コミュニティ内の関係性
なのかもしれない。
だからコミュニティ内では、
「ゲームは楽しむもの」
「勝敗に必死になる必要ない」
「ガチ勢って怖いよね」
という価値観が共有される。
そして繰り返されるうちに、それがゲーム一般の常識のように見えてくる。
しかし外には、
「いや、俺は勝敗を競うゲームだから勝ちに来たんだけど」
という人間が普通にいる。
身内コミュニティのローカルルールと、公共のゲーム空間のルールが混同されている。

無言のガチ勢の方が、知らない人を人間として見ている場合がある

逆に面白いのが、コミュニケーションをほとんど取らない攻略勢だ。
無言でPT申請。
参加。
構成を見る。
役割を確認する。
戦闘開始。
ボスを倒す。
「おつ」
解散。
会話らしい会話はほとんどない。
しかし、
「お前もこのボスを倒したいんだろ。俺も倒したい。じゃあ協力しよう」
という関係は成立している。
相手が友達かどうかは関係ない。
ゲームのルールと目的を共有しているから、一時的な協働関係が成立する。
つまり、
ソーシャル型はコミュニケーション量が多くても関係性が閉じることがある。
一方、
攻略・競技型はコミュニケーション量が少なくても、未知の他者を共同プレイヤーとして認識できる。
「よく喋る人ほど他者を見ている」とは限らない。

セオリーを外れる探究型と、エンジョイ型は見た目が似ている

ここでもう一つややこしいことがある。
探究型のガチ勢は、意外とセオリー通りに遊ばない。
「このビルド、実は成立するんじゃない?」
「普通はタンク交代するけど、装備と軽減で耐えられない?」
「このルート、誰も使ってないけど速くない?」
など、変なことを始める。
見た目だけならエンジョイプレイとよく似ている。
違うのは、失敗した後だ。
探究型なら、
「ダメだったwww」
「なんでダメだった?」
「じゃあ条件変えてみるか」
となる。
敗北がデータになる。
だから文句を言う必要がない。
自分の仮説がゲームによって否定されただけだからだ。
一方、
「好きだからこれをやる。結果はどうでもいい」
というプレイは目的が違う。
つまり、
セオリーから外れることと、勝敗を無視することは同じではない。
勝つために既存セオリーを壊す人間は、むしろゲームを深くしていく側でもある。

そもそも公共の対戦ゲームには共通ルールがある

ゲームには勝利条件がある。
敵を倒す。
拠点を取る。
ゴールする。
相手より多く点を取る。
Rankedならさらに順位まで付く。
そこへ自分から参加して、
「勝敗には興味ありません」
というのは少し不思議だ。
下手なのは何の問題もない。
初心者でもいい。
変な戦術を試してもいい。
セオリーを知らなくてもいい。
ただ、
勝とうとはしている。
公共の競技ゲームで必要なのは、それくらいではないだろうか。
「勝つ気はないけど、俺たちは楽しいからいい」
になると、自分の楽しみのために他人のプレイ時間と勝敗を利用することになる。
身内だけなら好きにすればいい。
公共マッチなら話が変わる。

実況になると、ソロゲームでも同じことが起きる

この構造はマルチプレイだけではない。
実況・配信文化まで入れると、ソロゲームでも発生する。
通常のソロプレイなら、
プレイヤー ↔ ゲーム
という関係になる。
ところが実況では、
実況者 ↔ 視聴者コミュニティ
という強い関係ができる。
ゲームはその間に置かれる。
すると、
「このゲームでは何をするべきか」
より、
「これをやったらコメント欄が盛り上がるか」
が優先されることがある。
わざと変な選択をする。
重要な場面を茶化す。
攻略よりリアクションを優先する。
ゲームとしては非合理でも、配信としては合理的だ。
つまり実況者は、
画面上のゲーム
と、
視聴者の反応を最大化するゲーム
を同時にプレイしている。
後者が主目的になれば、前者はコミュニケーション素材になる。

ゲームを遊んでいるのか、ゲームで遊んでいるのか

ここまで来ると、「エンジョイ勢」という言葉の曖昧さがかなり見えてくる。
探究型はゲームを調べる。
最適化型はゲームを詰める。
競技型はゲームで勝負する。
体験型は世界や物語を味わう。
ソーシャル型は、
ゲームを使って人間関係を楽しむ。
どれも娯楽ではある。
ただし目的は同じではない。
だから、
「ゲームを楽しむ」
という一言で全部まとめると、おかしくなる。
もっと乱暴に言えば、
ゲームを遊んでいる人と、ゲームで遊んでいる人がいる。
似ているようで、かなり違う。

「エンジョイ勢を排除すると人口が減る」という話

ここでよく出てくるのが、
「そんなことを言ってエンジョイ勢を排除したら人口が減ってゲームが廃れる」
という話だ。
しかし、これも少し考えた方がいい。
仮に100万人いたゲームから、ソーシャル目的の90万人が次の流行ゲームへ移動したとする。
残った10万人は、
攻略する。
新しい戦術を試す。
対戦する。
大会を開く。
検証する。
ゲームについて語り続ける。
これは本当に、
「ゲームが死んだ」
のだろうか。
もしかすると死んだのは、
そのゲームの社交場としての流行
だけかもしれない。
参加人数が減ったことと、ゲーム文化が死んだことは同じではない。

人口を増やすことで、ゲームが薄くなる可能性もある

さらに運営が人口維持を最優先すると別の問題が起こる。
難しいから簡単にする。
覚えることが多いから削る。
習熟差が出るから差を小さくする。
負けると辞めるから成功体験を増やす。
短時間しか遊べないから短くする。
すべて合理的な判断ではある。
しかし、それを繰り返せば、
ゲームを探究する余地そのものが減る
可能性がある。
人口は多い。
コラボも多い。
配信者も多い。
SNSでは毎日話題になる。
でもゲーム内部について語ることは少ない。
そんな状態もあり得る。
だとすれば、
人口を維持することと、ゲームを維持することは必ずしも同じではない。

必要なのは排除ではなく、場所を分けること

だから別にソーシャル型をゲームから追い出す必要はない。
友達とワイワイしたいなら、それもゲームの使い方の一つだ。
ただ、目的の違う人を同じ場所へ押し込む必要もない。
身内で遊ぶなら鍵部屋。
気軽に人間相手で遊ぶならCasual。
勝敗を競うならRanked。
協力したいならCo-op。
交流したいなら交流鯖。
それぞれ用意すればいい。
そしてRankedへ来るなら、上手い必要はない。
初心者でもいい。
負けてもいい。
変な戦術を試してもいい。
ただ、
その場にいる知らない人も、自分と同じ一人のプレイヤーである。
それだけ認識すればいい。

「みんなで楽しく」の外側にいる人

「みんなで楽しく遊ぼう」
とても良い言葉だと思う。
でも公共のオンラインゲームでは、一度だけ確認した方がいい。
その「みんな」に、知らないプレイヤーも入っているだろうか。
身内だけが人間で、野良はNPC。
視聴者だけが人間で、ゲーム世界は配信素材。
自分のコミュニティだけが現実で、その外側は背景。
もしそうなっているなら、それはコミュニケーションを大切にしているというより、
閉じたコミュニティの中だけでコミュニケーションを成立させている
のかもしれない。
ゲームには面白い性質がある。
名前も知らない。
顔も知らない。
二度と会わないかもしれない。
それでも同じルールを共有した瞬間、
「じゃあ一緒にやるか」
が成立する。
ゲームが本来持っている社会性って、案外そっちなんじゃないだろうか。
友達だから協力するのではない。
同じゲームを遊んでいるから、一時的に他人と関係が生まれる。
それを全部「エンジョイ」という言葉で身内のワイワイに置き換えてしまうのは、むしろゲームが持っているコミュニケーションの可能性を狭くしているようにも思う。

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