成人向け二次創作で思うこと

成人向け二次創作について、「キャラ愛」という言葉をよく見かける。
好きだから描く。
好きだから、公式では見られない姿を描く。
好きだから、そのキャラクターの性的な姿も見たい。
もちろん、その欲求そのものを否定したいわけではない。
私自身、二次創作文化には昔から触れてきた。
ただ、ふと思った。
この欲望の構造、性的ディープフェイクとそんなに違うのだろうか。
最初に断っておくが、
「成人向け二次創作=ディープフェイク」
と言いたいわけではない。
法律上も違うし、対象も違う。
実在人物には人格があり、プライバシーがあり、名誉があり、現実に生活している本人がいる。
架空のキャラクター本人には、それがない。
私が考えたいのは法律ではない。
人間がなぜそれを作り、なぜそれを見たいと思うのか。
その欲望の構造についてだ。


好きな対象の「存在しない姿」が見たい

性的ディープフェイクを極端に単純化すると、こうなる。
ある人物に魅力を感じる。
その人物の、現実には存在しない性的な姿を見たい。
だから作る。
では成人向け二次創作はどうだろう。
あるキャラクターに魅力を感じる。
そのキャラクターの、原作には存在しない性的な姿を見たい。
だから描く。
もちろん対象は違う。
しかし、
「既に自分が愛着や魅力を感じている対象を、自分が望むシチュエーションへ配置する」
という欲望の構造は、かなり似ている。
むしろ成人向け二次創作では、
「公式では絶対にこんなことをしないキャラクターだから見たい」
という需要すら存在する。
原作に存在しないことが欠点なのではない。
原作に存在しないからこそ商品価値が生まれる。
これは考えてみるとなかなか面白い。

「キャラ愛」は対象への尊重なのか

ここで「キャラ愛」という言葉に戻る。
好きだから、そのキャラクターを大切にしたい。
これもキャラ愛だろう。
しかし、
好きだから、そのキャラクターを自分の望む姿にしたい。
これもキャラ愛と呼ばれている。
この二つは同じ「好き」から生まれていても、かなり違う。
特に、
「原作では絶対にしない行動をさせたい」
となれば、それは対象を尊重するというより、
対象を自分の欲望の中で自由に動かしたい
という欲求に近づいていく。
私は、それ自体を悪いとは思わない。
創作というものは、そもそもかなりエゴイスティックな行為だと思っている。
ただ、
「愛があるから正当である」
という説明になると、少し違うのではないかと思う。
好きであることと、尊重することは同義ではない。

でも、そのキャラクターを一番好きなのは誰なのか

さらに考えてみたい。
そのキャラクターを作ったのは誰だろう。
原作者である。
名前を考えた。
顔を考えた。
性格を考えた。
話し方を考えた。
過去を考えた。
誰を好きになるのか。
何を嫌うのか。
何を許すのか。
何ならするのか。
何なら絶対にしないのか。
場合によっては何年、何十年も、そのキャラクターについて考えている。
ならば、
そのキャラクターを一番好きなのは原作者かもしれない。
もちろん作者とファンの「好き」を競争させる必要はない。
ただ、ファン側だけが「キャラ愛」を所有しているかのように語るのは変だ。
仮に原作者が、
「このキャラクターを性的に描いてほしくない」
と思っていたらどうだろう。
二次創作者は言う。
「私はこのキャラが好きだから描いている」
作者も言う。
「私はこのキャラが好きだから、そういう姿にしてほしくない」
さて、
どちらのキャラ愛が優先されるのだろう。
少なくとも、
「愛があるから問題ない」
では解決しない。

「でもキャラクターは架空でしょ?」

ここで当然、こういう反論が出てくる。
「実在人物と架空キャラクターを同一視するな」
それはその通りだ。
キャラクター本人は実在しない。
性的二次創作を作っても、キャラクター本人が傷ついて家から出られなくなることはない。
だから実在人物への性的ディープフェイクと、被害の種類も重大性も同じではない。
しかし、
架空だから現実とは完全に切断されている
と言えるのだろうか。
キャラクター本人は架空でも、
そのキャラクターを作った作者は実在する。
作品を作った人間も実在する。
その作品を大切にしている人間も実在する。
「架空だから誰も傷つかない」
という説明では、この実在する人間たちが消えてしまう。

キャラクターは本当に「完全な架空」なのか

さらに厄介なことがある。
創作者は、本当に何もないところからキャラクターを作っているのだろうか。
たとえば作者が、
昔好きだった人の笑い方。
学生時代の友人の口癖。
亡くなった家族の仕草。
子どもの頃に出会った人の考え方。
自分自身の経験。
忘れられない誰かとの思い出。
そういったものを少しずつ組み合わせて、一人のキャラクターを作っていたらどうだろう。
名前も違う。
顔も違う。
設定も違う。
読者から見れば完全な架空人物だ。
しかし作者にとっては、そのキャラクターの中に、
実在した誰かの記憶が残っている。
もっと極端な例なら、
亡くなった大切な人をモデルにキャラクターを作っているかもしれない。
読者には分からない。
当然だ。
作品には、
「この笑い方は亡くなった母親から取りました」
などと書かれている必要はない。
しかし作者だけは知っている。
そこへ第三者が現れて、
「架空キャラクターなんだから問題ない」
と言って、そのキャラクターを性的な姿に改変する。
作者がそれを見て強烈な嫌悪を感じたとして、
「でも架空ですよね?」
で本当に終わるのだろうか。
それは外部の人間が、
作者がそのキャラクターに込めた記憶や意味を勝手にゼロだと認定している
だけなのかもしれない。

架空と実在は二値ではない

こう考えると、
「実在人物」

「架空キャラクター」
を完全な二択として扱うこと自体が、かなり雑なのではないかと思えてくる。
創作にはしばしば、
実在する人間

作者の経験

作者の記憶

抽象化・変形

キャラクター

という経路が存在する。
もちろん、だからキャラクターを実在人物として扱えという話ではない。
法的にも倫理的にも区別は必要だ。
しかし、
架空であることは、現実との接続がゼロであることを意味しない。
ここはかなり重要だと思う。

二次創作はキャラクターの「記憶」を変えることもある

もう一つ考えたい。
原作では、あるキャラクターAとBに恋愛関係はない。
性的関係もない。
作者もそのつもりで作っていない。
しかし二次創作でその組み合わせが大量に作られる。
イラストが流れる。
漫画が作られる。
ミームになる。
検索結果にも大量に表示される。
すると、
原作のA
とは別に、
ファンダムが作ったA
が形成される。
新しく作品を知った人が、二次創作側のキャラクター像を先に知ることすらある。
「あれ、この二人って公式で付き合ってたっけ?」
「このキャラって公式でもこういう性格だったっけ?」
そんなことが起こる。
これは事実を捏造して本人を騙るディープフェイクとは当然違う。
しかし構造としては、
大量の非公式表象によって、第三者が対象について持つ認識が変化する
という現象が起きている。
作者からすれば、
自分が作ったキャラクターなのに、
社会に形成されたキャラクター像を自分では制御できなくなる。
もし作者がそれを嫌がっているなら、
これはある意味、
作者が作ったキャラクターについての社会的な記憶を書き換えていく行為
とも言える。
「架空だから誰にも影響しない」
とは、やはり言い切れない。

だから昔の「隠れてやれ」には意味があったのかもしれない

ここまで考えると、昔の二次創作文化にあった、
「隠れてやれ」
という暗黙の了解も少し違って見えてくる。
それは単に、
「著作権者に見つかると怒られるから隠れよう」
だけではなかったのかもしれない。
自分たちがやっていることは、
原作ではない。
公式ではない。
自分たちの妄想である。
だから、
「好きな人たちの間で勝手に遊ばせてもらいます」
という距離を取る。
これは案外、かなり合理的な倫理だったのではないかと思う。
問題は、現在その「地下」が機能しなくなったことだ。
SNSでは二次創作も公式作品も同じタイムラインに流れる。
検索すれば同じ画面に出てくる。
おすすめアルゴリズムは公式と非公式を区別してくれない。
二次創作の方が拡散されることすらある。
さらに販売、依頼、フォロワー、プレミアム価格まで結び付く。
かつて仲間内の妄想だったものが、
公共空間で原作のキャラクター像そのものに影響できるメディア
になっている。
ここは昔とかなり違う。

AIが作った欲望ではない

そして生成AIの話に戻る。
性的ディープフェイクが問題になると、
「AIによってこんな異常なことが可能になった」
という語られ方をする。
でも私は少し違うと思う。
AIが、
「好きな対象を、自分が見たい姿にしたい」
という欲望を人間に植え付けたわけではない。
その欲望は昔からあった。
成人向け二次創作は、その非常に分かりやすい一例だ。
AIが変えたのは欲望ではない。
実行コストと対象範囲だ。
以前なら、それを絵として実現するには描く技術が必要だった。
実在人物を精巧に再現するなら、さらに高い技能が必要だった。
今は生成AIによって、その障壁が急激に下がった。
だから社会全体が突然、
「好きな対象を、自分の欲望の中でどこまで改変していいのか」
という問題に直面したように見える。
でも問い自体は新しくない。
私たちはずっと前から、架空キャラクターを使って似た遊びをしていた。

「キャラ愛」は免罪符ではない

私は成人向け二次創作を全面的に否定したいわけではない。
二次創作文化そのものを否定したいわけでもない。
実在人物への性的ディープフェイクと同じ被害が存在すると言いたいわけでもない。
ただ、
「キャラ愛があるから二次創作は尊い」
という説明は、少し綺麗すぎると思う。
愛があるから見たい。
愛があるから変えたい。
愛があるから、自分の望む関係にしたい。
愛があるから、原作では絶対に見られない姿を見たい。
それも確かに「好き」なのだろう。
しかし、その「好き」は、
対象を尊重することとは別である。
そして、その対象を作った実在の人間がいる。
そのキャラクターには、作者自身の経験や、実在した誰かの記憶が込められているかもしれない。
大量の二次創作によって、原作とは違うキャラクター像が社会に形成されることもある。
そう考えると、
「架空だから問題ない」
「愛があるから問題ない」
のどちらも、それほど単純な話ではない。
もしかすると成人向け二次創作と性的ディープフェイクが共有しているものは、
愛そのものではなく、好きな対象を自分の欲望の中で自由に動かしたいという、人間が昔から持っている欲求
なのかもしれない。
そしてAIは、その欲求を生み出したのではない。
今まで技術や地下文化によって見えにくかったものを、誰でも実行できる形で表面に引きずり出しただけなのかもしれない。

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