教えて君は優等生だった
昔のインターネットには「教えて君」という言葉があった。
掲示板に突然やってきて、
「これってどうすればいいですか?」
と聞く。
自分で検索した形跡もない。
何を試したのかも書かない。
前提条件も整理していない。
だから返ってくる言葉は、だいたい決まっていた。
「ググれ。」
今考えると、なかなか殺伐としたインターネットである。
ところが生成AIが登場した。
AIは「ググれ」と言わない。
何回聞いても怒らない。
前提が雑でも補完してくれる。
質問が曖昧でも、それらしい答えを返してくれる。
教えて君にとって、これほど優しい世界はない。
しかし、ふと思った。
そもそも教えて君は、なぜ生まれたのだろう。
もしかすると彼らは怠け者だったのではなく、
ものすごく真面目な優等生だったのではないか。
正解を聞くのは合理的だった
学校では基本的に、問題には正解がある。
先生が問題を出す。
生徒が答える。
正解なら○。
間違っていれば×。
分からなければ教科書を見る。
それでも分からなければ先生に聞く。
先生は正解を知っている。
だから、
分からないことを、知っている人に聞く。
これは極めて合理的な行動だ。
むしろ分からない問題について何時間も勝手な仮説を考えていたら、
「分からないなら先生に聞きなさい」
と言われるかもしれない。
テストでも同じだ。
問題を見て、
「この設問の前提そのものが面白いので、別の仮説を検証してみました」
と答案用紙いっぱいに書いても点数にはならない。
求められている答えを書く。
それが最適解だ。
つまり学校という環境では、
問いを作る能力より、正解へ到達する能力の方が評価されやすい。
そう考えると、「教えて君」は教育に失敗した人ではない。
むしろ、
正解のある世界に適応した人
なのかもしれない。
ところが創造には正解がない
問題は、この問題解決方法を創造の世界へ持ってきたときに起こる。
「何を作れば売れますか?」
「どういう絵を描けば評価されますか?」
「バズる文章の書き方を教えてください」
「AI時代には何を作ればいいですか?」
「成功するゲームの企画を教えてください」
本人は何もおかしなことをしていない。
今までと同じように、
正解を探している。
しかし創造では、その正解がまだ存在していない。
何を作ればいいのかを考えること。
どんな問いを立てるのかを考えること。
仮説を作ること。
試すこと。
失敗すること。
そこから別の仮説を作ること。
その一連の過程そのものが創造だからだ。
だから創作者からすると、
「何を作ればいいですか?」
と聞かれた瞬間、
いや、それを考えるところから創作なんだが。
となってしまう。
優等生だった戦略が突然通用しなくなる
これは結構残酷な話でもある。
学校では、
問題を理解する。
正しい方法を調べる。
詳しい人に聞く。
正解を出す。
そういう人が評価される。
ところが創造の世界へ行くと突然、
「正解なんてありません」
と言われる。
さらに、
「自分で問いを作ってください」
「誰もやっていないことを考えてください」
「失敗しながら探してください」
と言われる。
昨日まで正しかった問題解決方法が、突然役に立たなくなる。
だから創作の世界でも、
「成功者がやっている7つの習慣」
「売れる作品の共通点」
「伸びるSNS投稿の特徴」
「AI時代に必要な3つの能力」
みたいなものを探し続ける。
正解のない場所に来ても、
どこかに模範解答が存在するはずだ
と思ってしまう。
そしてAIが現れた
ここへ生成AIがやってきた。
これは非常に面白い。
昔なら教えて君が掲示板で質問すると、
「まず調べろ」
と言われた。
仕方なく検索する。
検索しているうちに別の情報を見つける。
仮説が生まれる。
また調べる。
つまり「ググれ」という冷たい一言が、結果として本人に探索を要求していた。
AIにはそれがない。
「何を作れば売れますか?」
と聞けば答える。
「バズる方法を教えて」
と言えば答える。
「成功する企画を考えて」
と言えば考える。
しかも毎回それらしい。
すると、
正解のある教育に適応する
↓
正解を効率よく取得する習慣ができる
↓
正解のない創造領域へ行く
↓
正解を探す
↓
AIがもっともらしい正解を生成する
というループが完成する。
これは結構厄介だ。
AIに聞くことが問題なのではない
だからといって、AIに質問すること自体が悪いわけではない。
むしろ逆だと思う。
「この答えを教えて」
だけではなく、
「俺はこう考えたけど、どこがおかしい?」
「この仮説の反例を探して」
「AとBならどちらの説明力が高い?」
「この前提を壊すと何が起きる?」
と聞けばいい。
この場合、AIは正解を渡す先生ではなく、
思考をぶつける相手
になる。
同じ「AIに100回質問する」という行為でも、中身はまったく違う。
重要なのは質問した回数ではない。
自分が答えを受け取ろうとしているのか、問いを増やそうとしているのか。
そこなのだと思う。
教えて君は優等生だった
そう考えると、昔ネットで嫌われていた教えて君の見え方も少し変わる。
彼らは考える能力がなかったのではないかもしれない。
ただ、
「問題には正解があり、それを知っている人から教えてもらう」
という環境に適応していただけなのかもしれない。
それは学校では合理的だった。
会社でも合理的な場合がある。
日常生活でも合理的だ。
ただし、
創造だけはルールが違う。
正解を探す場所ではない。
正解そのものを作る場所だからだ。
教えて君は劣等生だったのではない。
むしろ優等生だった。
だからこそ、
正解のない場所に来たとき、困ってしまう。
