人は3Dで世界を見ているのに、なぜ最初に模写をするのか

絵の練習方法として、よく「まず模写をしよう」と言われる。
好きな漫画家の絵を模写する。
アニメのキャラクターを模写する。
上手いイラストレーターの作品を模写する。
それを繰り返して線の引き方や人体の描き方を覚え、ある程度描けるようになってから、パースや骨格、筋肉、解剖学へ進んでいく。
かなり一般的な上達ルートだと思う。
でも、ふと思った。
これ、学習する順序が逆なのではないだろうか。
人間はそもそも、生まれたときから三次元空間の中で生きている。
目の前にあるコップを「楕円と二本の縦線」として認識しているわけではない。
手に取る。
回す。
裏側を見る。
近づける。
遠ざける。
落とす。
積み上げる。
そうやって物体を、空間の中に存在する「立体」として認識している。
にもかかわらず、絵を学習するときだけ、
立体を理解する前に、誰かが立体を2Dへ変換した結果をコピーする
ところから始めている。
これは本当に効率的なのだろうか。


模写は「世界」を見ているわけではない

たとえば人間の顔を考えてみる。
現実には頭蓋骨があり、その上に筋肉や脂肪や皮膚があり、眼球は眼窩に収まり、鼻は顔面から前方へ突出している。
それをある漫画家が観察して、
目を大きくする。
鼻を小さくする。
顎を尖らせる。
輪郭を単純化する。
陰影を省略する。
そうやって一枚のキャラクターイラストを作る。
つまり、
現実の人体
→ 造形の認識
→ 作家による省略・誇張
→ 2Dイラスト

という変換がすでに一度行われている。
ところが初心者がそのイラストを模写すると、
2Dイラスト
→ 観察
→ 2Dイラスト

になる。
学習しているのは人間そのものではない。
誰かが人間をどう2Dへ変換したか、その結果を学習している。

造形屋は逆のことをしている

この違和感は、3D CADや彫刻、フィギュア造形を考えると分かりやすい。
3D CADでは、2D図面から寸法や形状を読み取り、立体を構築する。
正面図だけを綺麗に再現しても意味がない。
側面から見ても、上から見ても、斜めから見ても同じ物体として成立しなければならない。
フィギュアや彫刻なら、CADほど精密な数値は必要ない。
それでも、
「頭はどういう塊なのか」
「胸郭はどう膨らんでいるのか」
「骨盤はどちらへ傾いているのか」
「腕はどこから生えているのか」
「関節はどちらへ曲がるのか」
といった造形そのものを考える必要がある。
正面からだけ完璧な人間を作っても、横から見た瞬間に崩壊していたら失敗だからだ。
だから自然に、
対象を理解する
→ 立体として構築する
→ 任意方向から見る

という学習になる。
こちらの方が、人間が現実世界を認識している方法に近いように思える。

なぜ絵だけ「投影結果」から学ぶのか

絵の場合は逆になりやすい。
まず上手い絵を見る。
それを真似する。
「斜め顔はこう描く」
「目はここに置く」
「鼻はこのくらい」
「肩はこの線」
という2D上のパターンを大量に覚える。
そして何年か描いた後で、
骨格を勉強する。
筋肉を勉強する。
人体解剖を勉強する。
そこで初めて、
「なぜこの線になるのか」
を理解する。
少し奇妙ではないだろうか。
これは、
大量の完成図を覚えてから、最後にその完成図を生み出している構造を学ぶ
という順序になっている。
3D CADで言えば、部品のスクリーンショットを何百枚も模写してから、
「実はこの部品はこういう立体形状をしています」
と教えるようなものだ。
もちろん、それでも大量に経験すれば立体感覚は身につく。
人間は優秀なので、たくさんの2D画像から背後にある3D構造を推測できる。
でも、それなら最初から立体を理解した方が早いのではないか。

パースも「基礎」ではなく「実装方法」かもしれない

パースについても同じことを感じる。
消失点を置く。
水平線を引く。
補助線を伸ばす。
その中へ物体を配置する。
これは非常に有用な技術だ。
しかし、それ自体が「空間認識の基礎」なのだろうか。
もっと根本にあるのは、
遠くのものは小さく見える。
視点が変われば見える面が変わる。
斜め方向へ伸びる形から奥行きを感じる。
物体には手前と奥がある。
という認識ではないだろうか。
つまり、
パースという概念を理解すること
と、
パース線を正確に引いて絵を構築できること
は別の能力だ。
前者が基礎。
後者は、その原理を2D上で再現するために体系化された技法、つまりフォーマットに近い。

模写は基礎ではなく「手段」なのではないか

そう考えると、模写の位置づけも変わってくる。
模写が無意味だと言いたいわけではない。
むしろ非常に便利な学習方法だと思う。
ただし、
模写そのものが基礎なのではない。
模写によって、
「なぜこの線になっている?」
「この人はどの立体情報を省略した?」
「実際の人体と何が違う?」
「なぜこの誇張でも人間に見える?」
と考えるなら、模写は造形理解のための強力な分析手段になる。
一方で、
「もっと正確に似せよう」
「この絵柄を再現できるようになろう」
「見なくてもこの顔を描けるようになろう」
だけを繰り返せば、それは造形理解ではなく、
既存の2Dフォーマットを身体に覚え込ませる訓練
になっていく。
ここは分けた方がいい。

二次絵が入口になりすぎた

そして現代では、もう一つ特殊な事情がある。
漫画、アニメ、ゲーム、SNSイラストがあまりにも身近になった。
その結果、多くの人にとって「絵を描きたい」の入口が、
現実の人物でも、
動物でも、
風景でも、
彫刻でもなく、
すでに誰かが描いた二次元キャラクター
になっている。
つまり最初から、
誰かによって抽象化された世界
を教材にしている。
その結果、
「アニメの顔とはこういうもの」
「かわいい女の子とはこう描くもの」
「上手い人体とはこういうシルエット」
という共有フォーマットを大量に学習する。
だから上手い人が大量にいるのに、並べると不思議なくらい似た絵が増える。
単純に流行を真似しているだけではないのかもしれない。
学習の入口そのものが、すでに同じフォーマットだからだ。

解剖学まで行った人ほど独自性が出る皮肉

そして面白いのが、イラストを長く勉強した人ほど、途中から人体解剖や骨格、筋肉、実写、彫刻などへ進んでいくことだ。
そこで初めて、
「アニメではこう描く」
から、
「そもそも人間ってどういう形なんだ?」
へ戻る。
すると表現の自由度が急に増える。
骨盤の構造を理解していれば、既存の「腰の描き方」に従わなくてもいい。
肩甲骨の動きを理解していれば、既存の「腕を上げたポーズ」をコピーしなくてもいい。
頭蓋を理解していれば、「斜め顔テンプレート」を覚えなくても自分で構築できる。
つまり、
二次絵を大量に学んだ末に、最後は現実へ戻ってくる。
そして現実へ戻った人ほど、自分なりの省略や誇張ができるようになり、結果として独自性が出てくる。
これは少し皮肉だ。
最初からそこを学んでもよかったのではないか。

「上手い絵」を学ぶ前に「世界」を学ぶ

もし絵の学習を別の順番で考えるなら、
造形を理解する
→ 空間を理解する
→ 光や動きを理解する
→ それを2Dへ投影する
→ 他人の絵がどう省略・誇張しているかを見る
→ 自分なりに省略・誇張する

という順序もあり得る。
この場合、アニメや漫画は「正解」ではない。
世界を2Dへ変換した一つの事例になる。
模写も、
「この絵を描けるようになる」
ためではなく、
「この作家は世界をどう変換したのか」
を解析するために使える。
そうなれば、模写の意味もずいぶん変わる。

人は最初から3Dの世界にいる

私たちは、生まれた瞬間から三次元世界の中にいる。
物を触り、
人間を見て、
歩き、
転び、
距離を測り、
物を投げ、
空間の中で生活している。
その巨大な経験を飛ばして、
誰かが一度2Dへ変換した画像をコピーすることから「絵の基礎」を始める必要は、本当にあるのだろうか。
模写は便利だ。
パース技法も便利だ。
アニメ絵の描き方も便利だ。
でも、それらは「世界を理解するための基礎」ではなく、
理解した世界を特定の形式へ変換するための技法なのかもしれない。
だとしたら、絵を学ぶとき最初に見るべきものは、
上手い絵ではなく、
世界そのものなのかもしれない。

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